15. 火曜と金曜の謎


 ――火曜日の放課後。
「ねぇ、美紅。明日の化学の小テストの範囲って、どこからだっけ?」
 美紅は親友の葵にそう訊かれ、手帳を開いた。
「化学の小テストの範囲はね……えっと、78ページからだよ」
「78ページね、サンキュー」
 美紅は葵がテスト範囲をメモしたことを確認し、それから何気に自分のスケジュールに目をやる。
 意外と几帳面な美紅の手帳には、カラフルなペンで様々な予定が細かく書き込まれていた。
 とはいえ高校生のスケジュールといえば、学校行事や友人との約束の予定などが主ではあるが。
 そんな手帳によく記されているのは……さり気ない、小さな星のマーク。
 大抵二日に一度、月の半分という頻度で、この星マークがつけられている。
 そしてこの、小さな星マークの意味は。
 ――美紅が大好きな恋人と会ったという、印。
 つまり、プリンス・早瀬とデートをした日なのである。
 美紅は周囲のクラスメートや父親に、早瀬と交際していることを秘密にしている。
 “早瀬先生とデート”なんてモロに手帳に書き、ひょんなことで誰かに見られでもしたら大変だ。
 女子高という環境では、一体どういう情報網だと言わんばかりに噂が広まるのが早い。
 しかも早瀬は学校の人気教師で、“秋華のプリンス”とまで言われているくらいである。
 もしも誰かにふたりの関係がバレたら、どうなるか分かったものじゃない。
 それにモロに書かなくても、いかにも恋人とデートですと言っているようなハートマークを付けることもできない。
 早瀬先生のことがバレなくても、人の色恋沙汰が大好きなクラスメイトたちに見られたら、きっと根掘り葉掘りいろいろと訊かれるだろうし。
 何より父親にハートマークなんて見られたら、大変なことになる。
 何と言っても父・和彦は、娘を過度に溺愛しているからである。
 蝶よ花よと大切にしている娘に男がいるだなんて分かったら、何をするか分からない。
 しかもその恋人が、部下である早瀬だなんて知られたら……。
 今はまだ、絶対に早瀬との関係を誰にも知られるわけにはいかないのだ。
 そんな理由から、デートの印は傍から見れば何の印か分からない星マークなのである。
 美紅は幸せそうにたくさん手帳に付いている星の印を見つめる。
 早瀬と付き合いだして数ヶ月経つが、このデートのペースは一向に衰えることはない。
 しかも教師と生徒という関係であるふたりは、ほぼ毎日のように学校で顔を合わせている。
 いくら毎日見ても飽きることなんてない、綺麗な早瀬の王子様フェイス。
 美紅は恋人の整った顔立ちを思い浮かべ、思わず頬を緩める。
 あんな素敵な王子様が、自分の恋人だなんて。
 そして美紅は、明日・水曜日に付いている星マークを待ち遠しそうに見つめ、ほうっと溜め息を漏らす。
 次の早瀬とのデートの約束は、明日。
 つい昨日ふたりで会ったばかりなのに、早く明日の放課後にならないかと。
 そう気持ちが逸るのだった。
 だが……そんな、幸せな水曜日の前に。
 今日は火曜日。
 火曜日といえば、あの憎たらしい遥河との個人補習があるのだった。
 そのことを思い出し、美紅は先程とうって変わって苦笑してしまう。
 弱みを握られているとはいえ、どうして週に2回も遥河のヤツとふたりで顔を合わせないといけないのか。
 しかも遥河担当の英語という教科は、どうしてあんなに毎日毎日時間割に組み込まれているのだろうか。
 おかげで、学校で毎日あの嫌味ったらしい顔を見る羽目になっている。
 その上この間の土曜日は、こともあろうに強引に遥河とデートなんてしてしまって。
 いや、確かに普段行かないところに行けて、新鮮だったといえば新鮮だったが。
 紳士的で優しい早瀬と違い、遥河は連れである自分に何の断りもなく、好き勝手行きたい場所にさっさと行くし。
 やはり俺様至上主義な性格で、言うことも嫌味ったらしくて。
 恋人である早瀬とは、性格も言動もまるで正反対である。
 とはいえ“秋華のプリンス”と言われている早瀬同様、遥河も何故か生徒に人気がある。
 早瀬とは全く印象は違うが、黙っていれば端正で綺麗な顔をしてはいる。
 特に印象深い黒を帯びた切れ長の瞳は、神秘的な魅力を醸し出している。
 だが、一度口を開けばもう最悪。
 本当に教師なのかというような言葉に、天才的な嫌味の応酬。
 しかも特に美紅に対して、遥河は執拗に嫌がらせをしてくるのだった。
 今日だって、また個人補習で遥河とふたりきりにならないといけないなんて。
 恋人の早瀬には、さすがに遥河に脅されてふたりきりで毎週補習しているなんて言えない。
 唯一の救いは、今まで遥河との個人補習の日に、一度も早瀬とのデートの約束が重なっていないということである。
 ――その時だった。
「……あれ?」
 美紅は手帳に視線を落としたまま、ふと小さく首を傾げた。
「どうしたの、美紅?」
 小さく声を上げた美紅に、葵はそう訊く。
 美紅は数度瞬きをさせた後、葵を見て気を取り直したように言った。
「え? あ、いや、何でもないよ。葵、今からもう帰るの?」
「うん。美紅は?」
「私は……もうちょっと用事があるから、学校にいるよ」
 少し答えに詰まりながら、美紅は漆黒の髪をそっとかき上げる。
 そんな美紅の様子に、葵は意味あり気に笑った。
「学校で用事? 何、プリンスとふたりで放課後の密会?」
 美紅にしか聞こえない程度の声で、葵はからかうようにそう囁く。
 美紅は慌てたように周囲を見回してから、大きく首を振った。
「そ、そんなんじゃないよ。それに学校では、あまりふたりだけでいないようにしてるし」
「まぁわざわざ学校で会わなくても、外でラブラブデートできるしねー」
「ラ、ラブラブって……もう、葵ったら」
 冷やかすような葵の言葉に、美紅は嘆息しつつも顔を赤らめる。
 そんな美紅の反応に悪戯っぽく笑い、葵はカバンを手にした。
「んじゃ、美紅。また明日ね」
「うん、またね」
 帰宅するために教室を出て行く葵に、美紅は手を振る。
 それからふともう一度、開いたままの手帳に目を向けた。
「……単なる偶然、かな」
 美紅はそう呟き、手帳を閉じる。
 そして遥河の待つ英語準備室に向かうべく、教室を後にしたのだった。


 それから、数分後――英語教室で。
「今日はこの俺がわざわざ作成してきてやったこのプリントを、有難く思いながらやれ。時間は今から30分だ」
 相変わらずふてぶてしい態度で、遥河は美紅に数枚のプリントを手渡す。
 美紅はその問題量を見て、瞳を見開く。
 そして抗議の視線を遥河に向けた。
「30分!? こんなにたくさんの問題を、たった30分で解けってねっ。無理に決まってるでしょ!?」
「あ? こんな簡単な雑魚問題でガタガタ言ってんじゃねーよ、ボケ。無駄口叩いてる暇あったらな、問題に取り掛かれ。それにおまえの有り得ない英語力でそんな長い時間取ったって、ただの時間の無駄だ」
 教壇に頬杖をつきながら、遥河は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
 美紅は言い返したい気持ちをグッと堪え、仕方なくプリントに目を移した。
 だがすぐにプリントの問題には取り掛からず、ふと何かを考える仕草をする。
 それからおもむろに再び顔を上げると、目の前の遥河に言ったのだった。
「ねぇ、ちょっと……訊きたいことがあるんだけど」
「訊きたいこと? 何だ、俺の女の好みとかか?」
「は? 誰がそんなこと訊きたいって言うのよ。全然違うわよ」
 はあっと大きく溜め息をつき、美紅はわざとらしく冷たく言葉を返す。
 だがすぐに遥河に視線を戻すと、珍しく少し遠慮気味にこう彼に訊いたのだった。
「何でこの英語の個人補習、火曜と金曜なのよ? 曜日に何か意味あるの?」
「…………」
 遥河はその美紅の問いに、微かに漆黒の瞳を細める。
 そして瞳と同じ色の前髪をかき上げて、逆に美紅に問う。
「何でイキナリそんなこと訊くんだ?」
「えっ?」
 美紅は遥河の言葉に、どう答えていいか分からない表情をした。
 それから遥河から視線を逸らし、再びプリントに目を向けて答えた。
「別に……ただ、純粋に気になっただけよ」
 そう言って美紅は、改めて目の前の英語の問題に取り掛かり始めたのだった。
 ――数分前、放課後の教室で。
 自分の手帳を見ていた美紅は、ふとあることに気がついたのだった。
 星マーク――早瀬とデートをする日に、ある一定の法則があることに。
 今まで気がつかなかったが、それは何気に付き合い始めた数ヶ月前からずっと続いていた。
 その、法則とは。
 最低でも二日に一度、連続して会う日さえあるというほど頻繁に重ねてきた早瀬とのデートだが。
 火曜と金曜には、一個も星マークがついていないことに美紅は気がついたのだった。
 つまり、今まで火曜と金曜に早瀬とデートをしたことが何気に一度もなかったのだ。
 大抵デートの日にちは、早瀬の方が提案してくる。
 それで美紅の都合の有無で日にちを決めているのだが。
 付き合いだして数ヶ月、早瀬の指定してくる日に火曜と金曜が一度もないなんて。
 それに遥河が個人補習として指定してきた曜日は、その火曜と金曜。
 これは、単なる偶然なのだろうかと。
 美紅はふとそう疑問を持ったのだった。
 でもきっと、これはたまたまだろう。
 それに遥河の個人補習と早瀬とのデートが今まで重なったことがないことは、美紅にとっても都合が良かった。
 深い意味なんて、多分ない。
 美紅はそう自分で納得したのだった。
 ……だが。
 遥河は黙々と問題に取り組む美紅をじっと見つめ、何かを考えるような仕草をした。
 そして、彼女に聞こえないくらいの声でポツリとこう呟いたのだった。
「……やっと気がついたか? 火曜と金曜の謎に」


 ――その日の夕方。
 美紅の恋人・早瀬は、ある場所にいた。
 もうこの場所に通い始めて、どのくらいになるだろうか。
 そんなことを考えながら、早瀬は目の前のソファーに座っている人物に視線を向ける。
 彼のブラウンの瞳に映っているのは――ひとりの美しい女性。
「どうしたの、早瀬くん?」
 空気のように澄んだ穏やかな印象の声で、彼女はそう早瀬に微笑む。
 早瀬は柔らかな笑みを返すと、彼女の問いに答えた。
「もう、ここに通い始めて結構経つなって思って。迷惑じゃないかな? 香澄」
「迷惑だなんて、そんなわけないでしょう? 私もすごく嬉しいわ、早瀬くんが来てくれて」
 優しい印象を受ける漆黒の瞳を細め、香澄と呼ばれた女性は首を左右に振る。
 同時に、彼女のしなやかな長いストレートの髪が小さくふわりと揺れた。
 香澄はそれから白のティーポットを手にして早瀬に訊く。
「あ、早瀬くん。紅茶のおかわり、いかがかしら?」
「ありがとう、いただこうかな」
 早瀬の言葉に小さく頷き、香澄は彼のカップに上品に紅茶を注ぐ。
 早瀬はそんな彼女の女性らしい仕草を見つめ、綺麗な顔に笑顔を宿した。
 そして彼女の淹れた紅茶をひとくち口に運び、その良い香りに満足そうに瞳を細めたのだった。