12. 意外なご褒美


 ――中間試験が終わって、数日後。
 ピリピリした雰囲気だったテスト中とは違い、教室内はすっかり普段の様相を取り戻している。
 だが美紅は妙に緊張した面持ちで、この日何度目か分からない溜め息をついた。
「どうしたの、美紅?」
 いつもと明らかに様子の違う美紅に、葵は首を傾げる。
 美紅は一度、落ち着かないように教室の時計を見る。
 その後、葵の問いにこう答えたのだった。
「次の時間、英語でしょ……今日、テストの答案返ってくるかな?」
「テスト? そうねぇ、返ってくる可能性高いかも。もう他の教科は結構返ってきてるしね」
「やっぱりそうよね……」
 ポツリと呟き、美紅は英語の授業の準備をしながら漆黒の前髪をかき上げる。
 今回の英語のテストの出来は、今までと比べたら格段に出来たという手ごたえがあった。
 英語を重点的に勉強したし、無理矢理とはいえ週2回の遥河の個人補習も受けてきた。
 苦手意識が強くてどう勉強していいか分からなかった英語だったが、最近は少しずつ理解出来始めてきたのである。
 ……とはいえ。
 つい1ヵ月半前の実力テストで35点しか取れなかった自分の手ごたえが、果たして実際どの程度の点数取れているのか。
 それが分からないだけに、美紅は英語の答案が返ってくることに不安も感じていた。
 それにもちろん点数も大切だが、今回の美紅の気がかりは点数そのものではなかった。
 文系の強い秋華女子は、英語の得意な生徒が多い。
 そんな中で、クラス平均点よりも上。
 これが、美紅の今回の最大の目標なのである。
 極端に言うと、たとえ80点取れたとしても平均点を下回れば意味はないのだ。
 もうテストが終わって数日、他の教科の答案は殆ど戻ってきている。
 きっと今日あたり、英語の答案も返ってくるだろう。
 今までこんなに英語のテストの点数を気にしたことなんてなかった。
 美紅は異様にドキドキしている胸を押さえ、小さく深呼吸する。
「でも美紅、今回は英語出来たんでしょ? それに遥河ちゃんのテスト結構難しかったからさ、今回平均点も低いんじゃない?」
「そうかな……でも私の場合、元が元だからさ」
「まぁ、それはそうだけど。極端に英語苦手だもんね、美紅って」
 暢気に笑う葵を見て、美紅は机に頬杖をつく。
 でも英語が得意な葵が平均点低そうだと言っているんだ。
 テストが終わってしまっている今、もうそれを信じて願うしかない。
 そう考え直し、美紅はもうすぐ教室にやってくるであろう天敵の顔を思い出しながら気合を入れるようにペチペチと数度軽く頬を叩く。
 あの遥河のヤツを見返してやるために、自分は必死に勉強してきたんだ。
 自分にできることは精一杯やってきたつもりだし。
 今までが今までとはいえ、手ごたえが全くなかったわけではない。
 壊滅的なこれまでの点数に比べれば、きっとかなりマシな点数は取れているとは思うし。
 こうなったらもう、いろいろ考えたって仕方がない。
 美紅は腹を括ったように気を取り直してから、もう一度時計を見る。
 それと同時に、始業のチャイムが教室に響き始めた。
 葵は自分の席に戻る前に、美紅の肩をポンッと叩く。
 そして、こう彼女に声を掛けた。
「大丈夫だって。今までの英語の点数はともかく、美紅って頭いいんだからさ。勉強したなら点数取れてるって」
「葵……」
 美紅は葵に言葉に、漆黒の瞳を細める。
 それから、固かった表情を緩めてコクンと頷いた。
 ――その時だった。
「おまえら、さっさと席に着け」
 ガラッと教室のドアが開いたと同時に、聞き慣れたふてぶてしい声が響く。
 天敵・遥河俊輔が教室に現れたのだった。
 美紅はそんな彼に視線を移し、再び緊張の面持ちになる。
 遥河が小脇に抱えているものは――明らかに、テストの答案ですと言わんばかりの紙束。
 スタスタと教壇に立った遥河は授業の号令が終わった後、ザッと漆黒の前髪をかき上げる。
 それから、よく響くバリトンの声で言ったのだった。
「テストの答案を返す。出席番号順に取りに来い」
 ……ついにこの瞬間がやって来てしまった。
 美紅は今更ながらに神様に祈る。
 どうか平均点以上取れていますように、と。
 ある意味、入試の合格発表よりも緊張しているかもしれない。
 テストが次々と返却されている教室内は、妙にザワザワとしている。
 そして。
 自分の順番が回ってきて、美紅は席を立ち上がって教壇へと向かう。
 異様に鼓動を早める胸を押さえ、美紅はもう一度気持ちを落ち着かせるように息を吐いた。
 それから、答案を受け取るべく手を伸ばす。
 ――その時だった。
 ふっと遥河の漆黒の瞳が、美紅に真っ直ぐ向けられる。
 自分だけを映すその神秘的な両の瞳に、美紅は思わずドキッとしてしまった。
 それから遥河は意味あり気にニッと口元に笑みを浮かべ、美紅に答案を手渡す。
 美紅は数度瞬きをさせた後、差し出された答案を受け取った。
 まだ点数は見ずに、美紅は早足で自分の席へと戻る。
 ……あの遥河の笑みは、一体何を意味しているのだろうか。
 そう気になりつつ、美紅は席に着いた後もしばらく自分の点数を見られないでいた。
「美紅、どうだった?」
「え? いや、まだ見てないよ」
 美紅は声を掛けてきた葵にそう言ってから、はあっと溜め息をつく。
 緊張はするが、いつまでも目を逸らしたままでいるわけにもいかない。
 美紅はそう思い、ついに意を決したように黒を帯びる瞳を答案へと落とした。
 そんな彼女の様子を、葵もじっと見守っている。
 ――その結果は。
「美紅?」
 答案を見ても何もリアクションのない美紅に、葵は首を傾げた。
 美紅は何かを考えるように俯いたまま、何度か瞳をぱちくりとさせる。
 それから、ポツリとこう一言呟いたのだった。
「……どうなの、これって」
 美紅はそう言った後、葵に答案を見せる。
 それを見た葵は、無反応だった美紅とは逆に声を上げた。
「あっ、すごいじゃないっ。前と比べたら、人並みにちゃんと点数取れてるじゃなーいっ。何でそんな微妙な顔してんの?」
「確かにさ、今までこんな点数取ったことないんだけどさ」
 美紅はそう言いつつも苦笑する。
 そして、こう続けた。
「クラス平均よりどうなのか、かなり微妙な点数じゃない? むしろ、ちょっと危ういかも……」
「何言ってんのよ。もしクラス平均取れてなくてもさ、あんなに苦手な英語でこれだけ点数取れたんなら上等じゃないの、美紅」
 自分のことのように嬉しそうに、葵は微笑んで美紅に言葉を掛ける。
 美紅はもう一度、まじまじと自分の答案を見た。
 ――68点。
 正直、こんな点数を英語で取ったことなんてない。
 いつもは50点取れていれば、万々歳で飛び上がって喜ぶのであるが。
 問題は、今回のテストのクラス平均点が何点であるかである。
 大体普段の英語の平均点は、70点くらいだが。
 葵曰く、今回の問題は難しかったそうだから、少しそれよりも低いかもしれない。
 すなわち、かなり美紅の68点という点数は瀬戸際のラインなのである。
 普段の自分の点数から考えたら、この結果はかなり喜ばしいものであるが。
 目標である平均点以上ということを考えると、まだ喜べない。
 あまりにも微妙な点数で、美紅はどうリアクションしていいか分からなかったのだった。
 美紅は心の中で一生懸命祈りつつ、全員に答案が行き渡るのをハラハラしながら見守る。
 あの自分に向けられた遥河の笑みには、どんな意味があったのだろうか。
 もしも平均取れていなかったら、後で何と言われるか分かったものじゃない。
 美紅はドキドキしながらも、運命の時を待った。
 そして――ようやく全員に答案が行き渡って。
「おい、静かにしろ」
 テストが返ってきて一喜一憂する生徒たちに、遥河はそう言い放つ。
 それからちらりと一瞬だけ美紅に視線を向けた後、ゆっくりと言葉を続けたのだった。
「それで、だ。今回のクラス平均点はな……」



 ――その日の放課後。
 金曜日であったため、美紅はいつものように英語準備室にいた。
 だが、その様子は普段とは何か違っている。
 美紅はまだ遥河の来ていない教室の時計を見て、時間を確認する。
 放課後の特別教室校舎は人の声も聞こえない程に静かである。
 微かに遠くの運動場から、部活に励む運動部の掛け声が聞こえる程度だった。
 ……その時。
 美紅はふと顔を上げ、教室のドアに視線を移す。
 それと同時に、ガラリとドアが開いた。
 その場に現れたのは、もちろん。
「何だ、今日はやけに早いじゃねーかよ。そんなにこの俺様に早く会いたかったか? 椎名美紅」
 ニッと相変わらず笑みを浮かべながら、現れた彼・遥河は言った。
「は? 誰がアンタなんかに会いたいって思うワケ? 冗談じゃないわよ」
 遥河にそう言葉を返しつつも、美紅のその表情は柔らかなままである。
 それからドカッとふてぶてしく椅子に座った遥河に漆黒の瞳を向けた。
 そして、こう彼に言ったのだった。
「宣言通り、ちゃんと英語でクラス平均以上取ったわよ?」
 遥河はそんな美紅の言葉に、ふうっとわざとらしく嘆息する。
「クラス平均以上っていうか、クラス平均ギリギリじゃねーかよ。何得意面してんだ」
「でも平均以上ってのは、その点数も“以上”に入るでしょ? 立派な平均以上よ」
 美紅のクラスの、英語の平均点。
 それは、彼女の点数と同じ68点だったのである。
 遥河はそんな美紅を見て、ふっと漆黒の瞳を細めた。
 そしておもむろに立ち上がり、彼女の近くまで歩みを進める。
 何かまた、ムカつく嫌味でも言われるのだろうか。
 平均以上だったとはいえ、遥河の言うようにかなり危うかったのは確かであるし。
 でも、平均以上は平均以上だ。
 何か言われても、言い返してやる。
 美紅はそう負けじと、近づいてくる遥河に目をやった。
 だが――次の瞬間。
「……え?」
 美紅は瞳を見開き、驚いたような表情をする。
 ふわりと大きな遥河の手が、美紅の頭に優しく添えられたのだった。
 遥河はそっと彼女の漆黒の髪を撫で、口を開く。
「ま、平均以上なもんは平均以上だ。よく頑張ったな」
 思いもよらぬ遥河の言動に、美紅は何も言葉を返せずにきょとんとしてしまう。
 そして急に彼の大きな手の感触を感じて、思わず顔を赤らめた。
 相手は、あの遥河なのに。
 どうしてこんなに……胸が、ドキドキいっているんだろうか。
 美紅は何度も瞬きをさせながらも、どうしていいか分からない表情をする。
 そんな美紅に、遥河はこう続けた。
「それで、だ。約束しただろ? もしもおまえが平均取れたら、褒美をやるってな」
「え? あ……」
 そういえば、そんなことを言っていた気がする。
 美紅は改めて遥河を見て首を傾げた。
 それにしても、褒美とは一体何なのだろうか。
 その内容は、確か教えて貰っていなかった。
 そんな美紅の様子に、遥河は悪戯っぽく笑う。
 そして、言ったのだった。
「明日の土曜、予定を空けとけ。この俺様が、特別にデートしてやる」
「……は?」
 遥河の言ったその言葉に、美紅は思いきり眉を顰める。
 何を言ってるんだ、コイツは。
 もしかして、まさかそれが褒美だとか言わないだろうなと。
 だが、そのもしかしてが、もしかしてではなかったのだった。
「いくら平均以上って言ってもな、68点如きでこの俺様とデートできるなんて有難く思え。てなわけで明日、駅のロータリーに11時に来い」
「ちょっ、ちょっとっ! 勝手に決めないでよね、何で私がアンタとデートなんてっ。それに、それのどこがご褒美なのよっ!?」
「あ? これ以上の褒美があるか? 何だ、それとも、デートよりもキスの方がいいのか?」
 からかうようにクックッと笑い、遥河はくいっと美紅の顎を軽く持ち上げる。
 美紅は耳まで真っ赤にさせながらも、そんな遥河の手を振り払った。
「な、何言ってんのよっ。本当にアンタって教師の風上にも置けないわねっ」
「ていうか、分かったか? 明日、11時に駅のロータリーだ。んじゃ、今日の補習始める。ガタガタ言ってないで、さっさと問題集開け」
 遥河は強引にそれだけ言って、パラパラと問題集を開く。
 そんな遥河の様子に、美紅は何も言い返すことができなかった。
 幸い明日は、早瀬との約束も、ほかの予定も特に入っていない。
 でもよりによって、天敵・遥河とデートだなんて。
 美紅は動揺を隠せない表情のまま、瞳をぱちくりとさせる。
「何ボーッとしてんだ、おまえ。ボケッとしてる暇があったら、78ページの問題を解け」
 教壇に戻った遥河は、いつも通り頬杖をつき言った。
 美紅はそんな言葉にムッとしながらも、ようやく我に返って問題集を開く。
 それからシャープペンシルをカチカツと鳴らし、言われた問題に目を落とした。
 そんな問題に取り掛かり始めた彼女の様子を見て、遥河は漆黒の前髪をそっとかき上げる。
 そして、その端正な顔にふっと微笑みを浮かべたのだった。