11. それぞれの思惑


 ――次の日の朝。
 朝の職員会議を終え、遥河は書類をファイルにしまった。
 それからスッと漆黒の瞳を細めると、怪訝な表情を浮かべる。
 そんな彼の目に映っているのは。
「遥河先生。お話があるんですけど」
「…………」
 これでもかというくらいの、穏やかな作り笑顔。
 遥河は逆に眉を顰めながらも、その彼・早瀬に言葉を返した。
「何でしょうか、早瀬先生」
「ここでは何なので、少しよろしいですか?」
 早瀬はそう言って、遥河を職員室の外へと促す。
 遥河はそんな早瀬の言葉に敢えて何も言わず、彼の後に続いた。
「それで、話って何だ」
 職員室近くの小会議室へと足を踏み入れた遥河は、パタンとドアを閉めてから早瀬に視線を投げる。
 早瀬は色素の薄いサラサラの前髪をかき上げると、遥河に目を向けた。
 もちろんその瞳は、先程までのものとは明らかに印象を変えている。
 早瀬は両腕を組み、ふっとひとつ溜め息をついた。
 そして、ゆっくりと口を開いたのだった。
「遥河。おまえ、どういうつもりだ?」
「あ? 何のことだ」
 面倒臭そうにそう言って、遥河は壁に背中をもたれる。
 早瀬は鋭いブラウンの瞳を向け、話を続けた。
「遥河、おまえ香澄に連絡したそうじゃないか。どういうつもりだ?」
 その早瀬の言葉に、遥河はふと言葉を切る。
 それからうって変わってニッと口元に笑みを浮かべ、大袈裟に首を傾げた。
「高校時代の友人と連絡取って何が悪い? それとも、何か俺があいつに連絡取ったら都合でも悪いのか?」
「都合悪いだって? そんなことあるわけないだろう。でも何故今頃になって彼女に連絡なんてしてるんだ、何を考えている?」
「ていうかそういうおまえこそ、椎名美紅に近づいて何を考えてるんだって言ってるだろーが」
 遥河は逆にそう訊き返し、わざとらしく嘆息する。
 その問いに首を大きく左右に振り、早瀬は笑った。
「ふっ、何を考えてるかなんて、おまえに言う義理はないよ」
 ふたりの間で、バチバチと見えない火花がぶつかる。
 早瀬はブラウンの瞳を細めた後、余裕をみせるように笑みを浮かべた。
 そして、凄みのある声で言ったのだった。
「余計なことはしない方が身のためだぞ、遥河。それに香澄のことを美紅に言ったところで、何も問題はないんだからな」
 早瀬の様子に怯むこともなく、遥河も負けじと言葉を返す。
「そんなおまえのような汚い手使わなくてもな、必ずおまえから椎名美紅を奪ってやる。分かったか」
 その言葉を聞いて、早瀬は小馬鹿にしたように鼻で笑った。
 そしてちらりと小会議室の時計に目をやり、おもむろにドアを開ける。
「ま、無駄だと思いますけどせいぜい頑張ってくださいね、遥河先生。では失礼します」
「…………」
 遥河は鋭い視線を投げ、早瀬の後姿を見送った。
 それから鳴り出した予鈴を耳にし、会議室を出たのだった。


 ――数時間後。
 テストの合間の10分休み、美紅は手作りの単語帳と睨めっこをしながら廊下を歩いていた。
 休み時間であるにも関わらず、廊下にいる生徒の姿は何故か疎らだった。
 だがその理由は明白で、特に用事のない生徒はみんな教室でテスト勉強に必死だからである。
 この日のテストも、次の時間で最後の教科を迎える。
 そして、その教科は――最大の難関・英語。
 いよいよ決戦の時がやってきたのだった。
 美紅は覚えた単語を再確認するように、必死に視線を下へと向けている。
 ……その時だった。
「何だ? 最後の無駄な足掻きか、おい」
 耳に突然聞こえてきた、嫌味な声。
 美紅は顔を上げ、周囲に誰もいないことを確認する。
 そして気に食わない表情を浮かべると、その声の主を睨みつけた。
「うるさいわね、邪魔しないでよっ」
「おー、口だけはいつも達者だな。英語もその減らず口と同じくらい、達者な点数取れよ」
「減らず口はどっちよ!? ったく」
 ニッと口元に笑みを宿す遥河に、美紅はますます面白くない顔をした。
 遥河は美紅の反応に楽しそうに笑った後、ふと彼女の耳元に顔を近づける。
 そして、よく響く低い声でこう言ったのだった。
「特別にテストの答え教えてやろうか? 問1の答えはな……」
「えっ? ちょっ、何っ」
 美紅は遥河の言葉に、思わず大きく瞳を見開く。
 それから、途端にどうしていいか分からない表情を浮かべた。
 そんな美紅の様子を見て、遥河はふっと口元を上げる。
 そして。
「! きゃっ!」
 美紅は突然声を上げ、カアッと顔を真っ赤にさせた。
 彼女の耳に、ふっと遥河の吐息が吹きかけられたのである。
「バーカ、んなコト教えるワケないだろーが。あ、答案に名前だけは書き忘れるなよ? 有り得ない点数すら貰えないからな」
 クックッと笑ってからかうように美紅の肩を叩いた後、遥河はスタスタと廊下を歩き出した。
 美紅はくすぐったい感触の残る耳を押さえ、言葉を失って呆然とその場に立ち尽くす。
 それから顔を真っ赤にさせたまま、気を取り直して遥河の後姿を睨みつける。
「本っ当に、最低なヤツ……っ!」
 そう言葉を投げて気持ちを落ち着かせるように深呼吸をした後、美紅は早まる胸の鼓動を誤魔化すように漆黒の髪をかき上げた。
 ――その時。
「美紅……?」
 ふと背後からそう呼ばれ、美紅はドキッとする。
 それからゆっくりと振り向き、瞳をぱちくりさせた。
「あっ、は、早瀬先生っ」
「こんなところでどうしたんだい? もうそろそろテストが始まる時間だよ、美紅」
「えっ? あ、そうですね」
 腕時計で時間を確認し、美紅は慌てて頷く。
 そんな美紅の様子に首を傾げた後、早瀬はプリンスのような笑顔を宿した。
「でも美紅のクラスの次の試験監督は僕なんだけどね。さ、教室に戻ろうか」
「あ……はい、早瀬先生」
 王子様のような綺麗な彼の笑顔に見惚れつつ、美紅も微笑みを取り戻す。
 早瀬は美紅の頭を軽く撫でた後、彼女にだけ聞こえる声でこう続けたのだった。
「明日でテストも終わりだね、頑張って。テスト終わったら、デートしよう」
「うん、早瀬先生」
 遥河のものとは全く雰囲気の違う、柔らかくて優しい恋人の声。
 美紅は大きく首を縦に振り、嬉しそうに返事を返す。
 あんな最悪教師の嫌がらせに負けてなんていられない。
 自分の近くには、最高の恋人がいるんだから。
 美紅は早瀬と並んで教室に向かいながら、改めてそう感じる。
 次の英語のテストは、何としてもいい点数を取って。
 そして、あの遥河を見返してやるんだ。
 美紅はもう一度手に持っている単語帳を開き、テストに出そうな単語を確認する。
 それから大きく頷き、最大の山場・英語に臨むべく密かに気合を入れ直したのだった。