10. 決戦前夜


 ――爽やかな秋の日の夕方。
 リビングに響くクラシック音楽を聴きながら、秋華のプリンスこと早瀬歩は色素の薄いブラウンの瞳を細める。
 それから人の気配に気がついてソファーから立ち上がると、部屋のドアを開けた。
「あ……ありがとう」
 彼に出す手作りのシフォンケーキと紅茶を運んできたその女性は、穏やかな顔に微笑みを浮かべる。
 早瀬はそんな彼女に笑顔を返すと、ゆっくりとドアを閉めた。
 女性はストレートの黒髪をそっとかき上げた後、早瀬に紅茶を勧める。
 それと同時に、リビングに深い赤褐色をした紅茶の良い香りが漂う。
 ――受ける印象は、典型的な大和撫子タイプ。
 サラサラの長髪に同じ色の瞳は、不思議とその強い黒を感じさせない柔らかさを感じる。
 声も動作もたおやかで女性らしく、まるで彼女の周りだけ時間がゆったりと流れているような。
 そういう雰囲気を、目の前の女性は醸し出している。
 それがまた無意識だというところが、彼女の魅力なのだった。
「香澄(かすみ)」
 早瀬の声に、香澄と呼ばれた彼女はふっと顔を上げる。
「なぁに、早瀬くん?」
「その紅茶、いい香りだね。ケーキも美味しそうだ」
「セイロンティーよ。この間、スリランカに旅行に行ったお友達からいただいたの。ケーキは早瀬くんの好みに合わせて、少しお砂糖控えめにしてみたんだけど……どうかしら?」
 早瀬は彼女の淹れた紅茶をひとくち飲んだ後、シフォンケーキにスプーンを入れた。
 そして口に運んでにっこりと王子のような顔に笑顔を宿し、小さく頷く。
「うん、甘みがちょうどいいね。香澄の作ったケーキは、お店に売っているものよりも美味しいよ」
「あら、そんなに褒めても何もないわよ?」
 くすくすと嬉しそうに笑って、香澄は自分に淹れた紅茶を口に運んだ。
 それからふと、思い出したようにこう話を切り出したのだった。
「ねぇ、そういえば。早瀬くんと遥河くんって、今同じ学校に勤務しているんでしょう? ほら、遥河俊輔くん」
「……え?」
 香澄の言葉を聞いてピクリと反応を示し、早瀬は表情を変える。
 だがそんな彼の表情の変化にも気がつかず、香澄は続けた。
「数日前ね、久しぶりに遥河くんから連絡があったの。春の同窓会の時に会って以来だったから、懐かしくて話も弾んじゃったわ」
「遥河から、連絡?」
「ええ。あ、そういえば早瀬くんって、春の同窓会欠席していたかしら?」
「その時は用事があったからね、行きたかったんだけど。それで……遥河は、何て?」
 普段通りの笑みを作ってから、早瀬はさり気無く彼女に訊き返す。
 香澄は相変わらず穏やかな表情で、彼の問いに答えた。
「何って、他愛ない昔話とか世間話とかしたかな。その時に聞いたの、今遥河くんが早瀬くんと同じ秋華女子で先生しているって。どうして言ってくれなかったの?」
「あれ、話していなかったっけ。彼は、9月から秋華に来てるんだよ」
 首を傾げて惚けたフリをし、早瀬は仕方なくそう言葉を返した。
 香澄はそんな早瀬の心境も知らず、ほのぼのと会話を楽しんでいる。
「聞いてないわよ、早瀬くん。でも遥河くんから連絡があった時は驚いたわ」
 それから香澄はにっこりと笑い、こう続けたのだった。
「でも遥河くんと早瀬くんって、学生時代から仲良しだしね」
「仲良しって、僕と遥河がかい?」
 思いもしなかった香澄の言葉に、早瀬は思わず瞳を見開いた。
 香澄はコクンと首を縦に振り、小さく首を傾げる。
「うん、だってよく学校でもふたりで何か話していたじゃない。学校で成績優秀のふたりだし、仲もいいのかなってずっと思ってたんだけど」
「よく話してたって……そうかな」
 冗談じゃない、何でこの僕が遥河なんかと。
 そう喉まで出かかったが、早瀬はそれを飲み込んでポツリと呟く。
 香澄はそんな早瀬の反応に、きょとんとしている。
「そういえば、ほかには誰が来ていたの? 同窓会。僕も行きたかったよ」
 紅茶を一口飲んで気を取り直すと、早瀬は誤魔化すように咄嗟に話題を変えて微笑む。
 その時。
「あ、誰かしら」
 ピンポーンと家の玄関のチャイムがリビングに響き、香澄は立ち上がってインターホンを取った。
 それから受話器を置いた後、早瀬に視線を向ける。
「荷物が届いたみたい。ちょっとごめんね」
 そう言って香澄は黒の長い髪を揺らし、リビングから玄関へと向かった。
 早瀬は彼女の後姿を笑顔で見送った後、ふっと瞳を細めた。
 そして、その表情は……今までの王子様のようなものとは、全く印象を変えている。
 ふっとひとつ息を漏らし、早瀬は鬱陶しそうに前髪をかき上げた。
 それから、何かを考えるように呟いたのだった。
「遥河のヤツ……一体、どういうつもりだ?」



 ――その日の夜。
「はあ……っ」
 美紅は溜め息をつき、大きく伸びをした。
 それからちらりと時計を目にし、眠気覚ましに淹れていたコーヒーを口に運ぶ。
 今は、テスト期間真っ最中。
 中間試験期間に入って数日が経つが、美紅にとってある意味今日の夜が山場なのである。
 その理由は。
「こんなに一教科に集中して勉強したのって、初めてかもしれない……」
 そう呟き、美紅は机の上の参考書に目を向けた。
 美紅が必死に勉強している理由。
 それは言わずもがな、天敵・英語の試験を明日に控えているからである。
 いや美紅の場合、英語がというよりも。
 アイツが天敵なのだ。
 ――遥河俊輔。
 性格も口も最悪の、教師の風上にも置けないヤツ。
 今日は火曜日で、本来なら遥河との補習の日だったが。
 さすがにテスト期間だけはヤツとの補習も免除となっていた。
 それでもテスト直前ギリギリまで、しかもテスト内容と一切関係ない補習を受けさせられ、美紅は相当頭にきていた。
 絶対にテスト内容をしなかったのも、遥河の嫌がらせに決まっている。
 そう思うと、意地でもテストでいい点数を取ってやろうじゃないかと。
 美紅は英語に重点を置いて勉強を進めてきたのである。
 とはいえ、いい点数と言っても、極端に自分が英語が苦手だということは分かっている。
 だからせめて、クラス平均点は取りたい。
 普通にみれば全然高くない点数だが、図々しいだの取れるわけないだの散々遥河に馬鹿にされた。
 美紅は悔しさをグッと堪えつつ、とにかく今回は、まずクラス平均点を取ることを目標にしようと。
 そして行く行くは、あの憎き遥河を踏み台にして海外留学をしてやると。
 今は馬鹿にされていても、いつかきっとヤツの鼻を明かしてやるんだと、そう決意したのである。
 その第一歩が、明日の中間試験なのだ。
 美紅はもう一度気合を入れるように大きく頷き、シャープペンシルを手にした。
 だがふともう一度時間を確認して机の上に置いている携帯電話を弄ると、耳に当てた。
 そして、何度かの呼び出し音の後。
 相手が電話口に出る。
 美紅はパッと表情を変えて、嬉しそうに言った。
「もしもし、早瀬先生?」
 美紅の声を聞き、電話の相手・早瀬は普段と変わらない優しい声で彼女の名を呼ぶ。
『美紅』
「ちょっと勉強の息抜きに、先生の声が聞きたくて。あ、今外なの? 都合悪かった?」
 室内とは違う雑音を彼の背後から感じ、美紅はそう彼に訊いた。
『今ちょうど帰宅して、車を降りたところなんだ。大丈夫だよ』
「今帰宅したところって、遅かったんだね。仕事? 生徒はテスト中だから午前中で終わるけど、先生は早く帰るってわけにはいかないもんね」
『うん、そうだね……でも夕食も食べてきたから、こんな時間になっちゃったんだよ』
 美紅は電話の向こうにいる恋人の綺麗な顔を思い出し、自然と頬を緩める。
 そしてはあっと大きく溜め息を漏らすと、ポツリと言った。
「早くテスト終わって、早瀬先生と会いたいな……」
『僕もだよ、美紅。でもあともう少しだから、テスト勉強頑張って』
 甘くて柔らかな、王子様の声。
 電話越しでも、聞く度に思わずドキッとしてしまう。
 理想以上に素敵な自分の恋人。
 美紅はそんな恋人がいるという幸せを強く感じながら、大きく頷く。
「頑張るよ、先生。じゃあ、明日学校でね」
『うん、また明日。勉強も大事だけど、あまり無理はしたら駄目だよ』
 早瀬はそう言葉をかけた後、今まで以上に優しい声で続けた。
『愛してるよ、美紅』
 美紅は彼の甘い囁きに胸の鼓動を早めつつ、ほのかに頬を赤く染める。
 その後嬉しそうに漆黒の瞳を細め、言葉を返した。
「私も早瀬先生のこと、大好き。おやすみなさい」
 満足気に通話を終えて携帯を切った後、美紅は黒髪をそっとかき上げる。
 それから改めて気合を入れなおし、シャープペンシルを握った。
 そして再び、目の前の英語の問題集に向かったのだった。