09. 秘密なご褒美の条件


「ねぇ、美紅。数学のテスト範囲って、178ページまでだっけ?」
 美紅の友人・葵は、手帳を眺めながらそう美紅に訊いた。
 美紅は次の授業の支度をしながらコクンと頷く。
「うん、確かそうだったと思うよ」
 ――10月の、ある秋の昼下がり。
 2学期が始まってからすでに1ヶ月が過ぎていた。
 外は爽やかな秋晴れが広がり、木々も薄っすらと赤に模様替えを始めている。
 そしてもうすぐ中間試験ということもあり、生徒たちの間でも自然とテストに関する話題が多くなっていた。
 それはもちろん、美紅の周囲でも例外ではない。
「結構今回、テスト範囲広いよねぇ。しかもテスト初日の1時間目だったでしょ? 数学得意な美紅が羨ましいよ」
 手帳にテスト範囲をメモしながら、文系教科が得意な葵は大きく溜め息をついた。
 それから意味ありげに笑い、こう小声で続ける。
「やっぱ美紅が数学得意なのもさ、プリンスへの愛? ラブラブだもんね、おふたりさんっ」
「愛ってね……それ以前に、数学は得意教科だし。でも確かに早瀬先生が教えてくれるから、もっと前より好きになったってのはあるけど」
 少し照れながらも美紅はそう言って王子様のような早瀬の顔を思い浮かべる。
 そしてふと表情を一変させ曇らせると、大きく嘆息した。
「逆に、ただでさえ苦手な英語がもっと嫌いになりそうよ」
 そうポツリと呟き、美紅は視線を落として小さく首を振る。
 そんな彼女の目線の先にあるのは、英語の問題集。
 美紅たちのクラスの次の授業は、あの遥河の英語なのである。
 葵は美紅の言葉に小さく首を傾げた。
「ていうかさ、前から思ってたんだけど。何で美紅って、そんなに遥河ちゃんのことが嫌いなわけ? プリンスとはタイプ違うけど顔もすごくハンサムだし、プリンスと同じあのエリート校の慶城出身で頭だっていいし、授業も分かりやすくて面白いし」
「嫌いなものは嫌いなのよ。特にあの、最悪で嫌味な性格っ」
「性格、最悪で嫌味かなぁ? 遥河ちゃんって何か面白いじゃない、教師っぽくないあのカンジが」
「面白いって、どこが!? あのふてぶてしさ、おまえは何様だってのっ」
 ムキになってそう反論する美紅の剣幕に少し驚きながらも、葵はふっと目を細める。
 そして美紅の耳元で、こう言ったのだった。
「ていうかさ、遥河ちゃんって何気に美紅のことお気に入りよね。あんなダンディーなお父様にプリンスな彼氏、さらにハンサム新任教師のお気に入りだなんて羨ましいぞっ」
「な……っ」
 葵の言葉に、美紅は大きく漆黒の瞳を見開く。
 それから大きく首を横に振り、必死に否定した。
「お気に入り!? どこをどう見れば、そんな風に見えるワケ!?」
 冗談じゃない。
 いや、お気に入りならばまだしも。
 この1ヶ月間、遥河は自分に執拗に嫌がらせを繰り返している。
 葵は知らないのだ、あの遥河という男の性悪さ加減を。
 だが、まさか弱みを握られて週2回個人補習を受けさせられているなんて、親友の葵にもまだ打ち明けられないのだが。
 それにこともあろうに、あの最悪教師。
 嫌がらせでとはいえ……生徒に、キスをするなんて。
「……っ」
 美紅はふとその時の唇の感触を思い出し、思わず顔を赤らめてしまう。
 恋人の早瀬とは随分と印象の違う、遥河の神秘的な漆黒の瞳。
 長い睫毛とサラサラな同じ色の前髪が、切れ長の瞳にかかっていた。
 黙ってさえいれば、確かにいい男なのかもしれないが……。
「……美紅?」
 急に口を噤んだ美紅に、葵は不思議そうな顔をする。
 その声でハッと我に返った美紅は、慌てて誤魔化し笑いをした。
「えっ? あ、いや、何でもないよ」
「?」
 気を取り直すかのように息をつく美紅に首を捻ってから、葵は鳴り始めた始業のチャイムに気がついて自分の席に戻る。
 美紅ははあっと大きくもう一度嘆息すると、席に座った。
 何を動揺しているんだ。
 いくら顔や頭が良くても、あの遥河の性格は最低最悪。
 あの時のキスだって、ただ自分が嫌がって慌てる姿を見たかっただけに違いない。
 そういうヤツだ、アイツは。
 美紅はそう思い直し、漆黒の横髪を耳に引っ掛ける。
 ――その時だった。
「授業始めるぞ。さっさと席に着け、おまえら」
 ガラッと教室のドアが開き、美紅の天敵教師・遥河が姿をみせる。
 美紅はその声にドキッとしつつも、相変わらずふてぶてしい彼の口調に顔を顰めた。
 それから始業の号令がかかり、ガタガタと椅子の鳴る音が教室に響く。
 そして普段通り、遥河の英語の授業が始まったのだった。



 ――その日の放課後。
 この日は金曜日であったため、美紅は離れの英語教室に出向いていた。
 その理由はもちろん、遥河の個人補習を受けるためである。
「相変わらず有り得ねーなぁっ。一体何語だ、コレ?」
 遥河はピラピラと美紅の小テストの答案を揺らし、大袈裟に声を上げる。
 いつも通り容赦ない遥河の嫌味な言動に、美紅は恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながらも負けじと反抗した。
「何よ、いちいち嫌味っぽく言わないでよねっ。教えてるのはアンタでしょ!?」
「あ? 俺が教えてるのは英語だ。こんな何語か解読不能な言語じゃねーよ」
「か、解読不能ってっ」
 ああ言えばこう言うとは、コイツのためにある言葉だ。
 美紅はキッと遥河に視線を向け、奪うように小テストの解答用紙を受け取る。
 遥河はそんなムキになる美紅の様子にふっと笑みを浮かべた後、数枚のプリントを彼女に渡した。
「おまえの壊滅的な英語力じゃ、いくらこの俺様が教えてやってるとはいえ週2の補習だけじゃラチ明かないからな。その課題、来週火曜の補習までにやって来て俺様に提出しろ。分かったな」
「来週火曜日の補習までって、こんなに!?」
「当たり前だ、それでも全然足りないくらいだっての。ガタガタ言うな」
 大量に渡された英語の課題に眉を顰めた後、美紅は再び遥河に目を向ける。
 そして、抗議するように言った。
「ていうか、再来週から中間試験でしょ!? こんな課題なんてやってらんないわ、少しはテスト範囲の補習もしなさいよねっ」
「中間試験だぁ? んなの、範囲内の英文と訳文と単語熟語さえ丸暗記してりゃ、あとは授業でやったことテスト直前に少し見直すだけで楽勝で満点取れるだろーが。いちいち試験勉強なんて補習でやるかよ」
 あっさりとそう言われ、美紅は何も言い返せずに言葉に詰まる。
 簡単に満点とか言うけれど。
 こっちはいつも満点どころか、50点もろくに取れないんですけど?
 そう心の中で思った美紅だが。
 そんなこと、遥河にだけは絶対に言えない。
 言ったら、何てバカにされるか分からないからである。
 美紅は大きく溜め息を漏らし、諦めたように渡された課題をカバンにしまおうと視線を伏せた。
 ……その時。
「おい」
 ふと急に耳元でそう声が聞こえ、美紅は再び顔を上げる。
 そして、驚いたように漆黒の瞳を見開いた。
 いつの間に移動してきたのか、美紅のすぐそばに遥河の端正な顔があったからである。
 遥河はニッと笑みを宿すと、口を開いた。
「そういえばよ、中間試験で思い出したけどな」
「な、何よ」
 遥河のこの表情は、何か良からぬことを企んでいる時のものだ。
 美紅はそう思いながらも、近づく彼の整った顔に胸の鼓動を早めてしまっていた。
 そんな美紅の頬に大きな手を添えてから、遥河はこう続けた。
「今度の中間試験、もしおまえが奇跡的にクラス平均以上の点数取れたらな、俺様からおまえに褒美をやる」
 遥河の大きな手の感触に少し頬を赤らめた後、美紅は怪訝な表情をする。
 そしてバシッと乱暴に遥河の手を払い除けて首を傾げた。
「は? 褒美? 何よ、それ」
「ま、おまえ程度の雑魚い英語力じゃ、平均点どころか50点も危ういんだけどな」
 小馬鹿にしたように鼻で笑い、遥河はわざとらしく溜め息をつく。
 美紅はムッとした表情を浮かべ、彼に鋭い視線を返した。
「うるさいわね、そんなのまだ分かんないじゃないっ。平均点、取ればいいんでしょ!?」
「おー、ヤル気出たか? ま、せいぜい頑張れ。んじゃ、補習の続きをする。問題集開け」
 スタスタと教壇に戻って椅子に踏ん反り返るように座り、遥河はパラパラと問題集を捲る。
 美紅は相変わらずふてぶてしい遥河の態度に気に食わない顔をしながらも、言われた通り問題集を開いた。
 それから、ボソリと訊いたのだった。
「ていうか……さっき言ってた褒美って、一体何よ」
 遥河はその美紅の問いに、ニヤリと笑う。
 そして教壇に頬杖をつき、こう答えた。
「楽しみは後に取っておいた方がいいだろう? まだ秘密だ」
 美紅は彼の言葉に、納得いかないように遥河を見る。
「は? 秘密って……何よ、それ」
「褒美って言ってもな、おまえが平均点取れたらの話だって言ってんだろーが。ていうかおまえ、そんな壊滅的な英語力で平均点取るつもりか? 図々しいな、おい」
「ず、図々しいってね、アンタの方が図々しくてふてぶてしくて偉そうなのよっ」
「ほら、ベラベラ喋ってる暇あったらさっさと補習続けるって言ってんだろーが。分かったら、さっさと次の問17の英作文を黒板に書け」
 有無を言わせずそう言われ、美紅は仕方なく席を立った。
 そして試行錯誤しながらも黒板に英作文を書き始めた。
 遥河は漆黒の瞳を黒板に向け、ふっと意地悪な笑みを浮かべる。
「何だぁ? 俺はここの問17の英作文を書けって言ってんだよ。そんな楔形文字書けって言ってんじゃねーよ」
「く、楔形文字ですって!? あーもうっ、今考えてるんだから邪魔しないでよねっ」
 じろっと遥河を睨み付けた後、美紅は再び必死に苦手な英作文に取り組む。
 遥河はそんな美紅の様子を見つめ、楽しそうな表情をした。
 それからポツリと美紅には聞こえない声で呟いたのだった。
「……ホント面白いヤツだな、おまえは」