08. 懐かしい旋律


 美紅は口に広がる上品な紅茶の味に漆黒の瞳を満足そうに細めてから、目の前の彼の姿を見つめて思わず溜め息をついた。
 色素の薄いブラウンの髪が、窓から差し込める太陽の光で輝きを増している。
 まさに王子様というに相応しい恋人の綺麗な容姿に、美紅は改めて見惚れていた。
 ――日曜の午後。
 毎週の如く早瀬とデートをしている美紅は、午後のお茶を楽しんでいるところだった。
 普段同じ年くらいの友人たちとは到底入れないような、静かで上品な紅茶専門店。
 耳には優雅なクラシック音楽が聴こえている。
 そんな年上の彼氏ならではのちょっぴり大人なデートに、美紅はすっかり酔っていた。
 上品な顔立ちの早瀬は、紅茶を飲んでいるだけでも絵になる。
 まるで、この場所だけ時間が止まっているような。
 そういう錯覚まで覚えてしまうほど、美紅にとって自分だけの王子様と過ごすこの時間は貴重で新鮮だった。
「ここの紅茶、とても美味しいだろう?」
 自分をじっと見つめている美紅ににっこりと微笑み、早瀬はカチャリとティーカップをソーサーに置く。
 彼のその声にハッと我に返った美紅は、数度瞳を瞬きさせて頷いた。
「あ、うん。すごく美味しいよ、早瀬先生。それに雰囲気のいいお店ね、普段こんな贅沢なところでお茶とか滅多にしないから」
「少し値段は高いけど、その分極上の紅茶と穏やかで特別な時間が過ごせるからね。美紅を一度連れてきたかったんだよ」
 美紅はそんな早瀬の言葉に嬉しそうに微笑んで、もうひとくちよい香りのする紅茶を口に運ぶ。
 特別な場所に、特別な人と一緒にいる。
 それだけで、美紅の心は自然と高鳴るのだ。
 やはり自分の王子様は彼しかいない。
 美紅は再び早瀬の整った顔を見つめて、そう強く思ったのだった。
 ――その時。
「あ……」
 美紅はふと早瀬から一瞬視線を逸らすと、何かに気がついたように声を漏らす。
 そんな彼女の様子に気がつき、早瀬は小首を傾げた。
「どうしたの、美紅?」
「この曲……」
 美紅はそれだけ呟き、ふと耳を澄ます。
 早瀬も彼女と同じように店内に流れる音楽に耳を傾け、それから言った。
「この曲、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲だね。メンデルスゾーンといえば結婚行進曲が有名だけど、これもすごく有名だよ。この曲がどうかしたのかい?」
「私ね、クラシックに疎くて曲名とか全然知らないんだけど、この曲は知ってるよ」
 美紅はそう言って早瀬に目を向け、こう続ける。
「昔、お父さんに一度だけヴァイオリンのコンサートに連れて行って貰ったことがあるんだ。その時にね、この曲目がプログラムにあって。普段クラシックとか聴かないんだけど、すごく素敵だったなぁって。そのことを思い出して」
「……理事長に、ヴァイオリンのコンサートに?」
 美紅の言葉に、早瀬はふとブラウンの瞳を細める。
 それから何かを考えるように、口を噤んだ。
 美紅はそんな早瀬の様子にも気がつかず、話を進める。
「うん。その時のヴァイオリニストの人がすごく素敵でね、演奏も素晴らしかったし、私もあんな風になりたいって思ったの。でもお父さんにヴァイオリン習いたいって言ったんだけど、駄目だって言われちゃったんだ」
「美紅は何でも、すぐ影響されやすいからね」
 ふっと笑顔を宿し、早瀬は柔らかな微笑みを湛えた。
 美紅は苦笑しつつも悪戯っぽく言葉を返す。
「もう、早瀬先生ったら。確かに私は影響されやすくて飽きっぽいけど、本当に素敵だったんだから。それにもしかしてその時から始めてたら、今頃世界的なヴァイオリニストになってたかもよ?」
「世界的な、ヴァイオリニストね……」
 早瀬はそう呟き、ふっとその瞳を伏せた。
 それから気を取り直したように美紅に視線を向け、笑った。
「でも美紅が世界的なヴァイオリニストになってたら、今頃こうやって僕たちはここでお茶していなかったかもしれないだろう? そう考えたら、美紅がヴァイオリン習わなくてよかったよ」
「早瀬先生……うん、そうだね」
 コクンと素直に大きく頷き、美紅は小さく揺れた漆黒の髪をそっとかき上げる。
 そんな美紅にもう一度微笑んでから、早瀬はふと腕時計を見た。
「美紅、そろそろ出ようか。今日は夕方には家に帰らないといけないんだったよね?」
 美紅はティーカップに僅かに残っていた紅茶を飲んでから、店の時計に目をやる。
「あ、うん。ごめんね、夕方までしかいられなくて……」
「気にしないでいいよ。少しでも美紅に会えただけで、僕は嬉しいから」
「今度はきちんと埋め合わせするからね、先生」
 そう言って美紅は上着を羽織り、身支度を始めた。
 早瀬はさり気なくに伝票を手にし、会計を済ませる。
 それから美紅を伴い、店を出た。
「ご馳走様、早瀬先生。すごく美味しかったよ」
「またふたりで来ようね、美紅」
 地下にある店の出口から地上に続く階段を上りながら、早瀬は隣の美紅の髪をそっと撫でる。
 そして、ふと店の出口からも地上からも死角になる踊り場で足を止めた。
「早瀬先生?」
 美紅はそんな彼につられてその場に立ち止まると、小さく首を捻る。
 早瀬は王子様のような笑顔を宿し、それから美紅の耳元でこう囁いた。
「好きだよ、美紅」
 ふっと耳をくすぐる吐息に、美紅は思わずゾクッと鳥肌が立ってしまう。
 早瀬の声は柔らかく、とても優しい。
 何度囁かれても、いつもドキドキと胸が鼓動を早めてしまうのだ。
 ほのかに赤に染まった美紅の頬にそっと手を添え、早瀬はスッと綺麗なブラウンの瞳を閉じる。
 そして……ふわりと美紅の唇に、羽のような軽い接吻けを与えたのだった。
 美紅は目を閉じてそれを慣れたように受け入れてから、恥ずかしそうに俯く。
 だがすぐに再び顔を上げ、幸せそうに笑顔を浮かべた。
「私も早瀬先生のこと、大好き」
 早瀬はその言葉に笑みを返した後、彼女の肩を抱いてゆっくりと階段を上り始める。
 それから見えてきた地上の光に一瞬瞳を細め、小声で呟いたのだった。
「最近、美紅に寄ってくるタチの悪い虫が多いからね……家まで送るよ」



 ――その日の夜。
 美紅は自宅のダイニングで、父親の和彦と食事を取っていた。
 月に一度、休日の夕食をふたりで一緒に食べようと。
 椎名家ではいつからか、そんな決まりがあった。
 美紅のことを溺愛している和彦だが、彼の仕事は忙しく、日曜でもなかなかゆっくりと休みが取れない。
 だが可愛い愛娘のために、彼はこの決まり事を一度たりとも破ったことはなかったのだった。
 美紅も休日は大抵早瀬と会っているため、滅多に家で食事を取らない。
 もちろん父親には早瀬との交際は秘密にしているし、父との食事も特に嫌ではなかったので、こうやって美紅も月に一度だけは早く帰宅しているのであった。
「そうだ、今日行った喫茶店でね、懐かしい曲が流れてたの」
 料理が得意な父お手製の大好きなビーフストロガノフを口に運びながら、美紅は思い出したように口を開く。
 和彦は娘の姿を優し気に見守りながら、彼女の話をにこやかに聞いている。
「ほら、何年か前にお父さんに連れてって貰ったでしょ? ヴァイオリンのコンサート。その時に演奏された、えーっと、メンデルスゾーンだっけ」
「一緒に行ったコンサートか……美紅の言っている曲は、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のことかな?」
「そうそう、その曲っ。何だか久しぶりにじっくり聴いて、懐かしかったな」
「あの時のコンサートは、美紅のようなクラシックを普段聴かない人も知っているようなメジャーな楽曲も多く演奏されてたからね。特にその中でも、メンデルスゾーンの曲はヴァイオリン曲としては相当有名なんだよ、美紅。美紅らしいな」
 クラシック音楽に疎い美紅の言葉に、和彦はくすくすと笑う。
 それから彼女と同じ漆黒の瞳を細めて、こう続けたのだった。
「メジャーで誰もが知っている曲こそ、ヴァイオリニストの腕が要求されるものだ。あのコンサートは素晴らしかったね、出だしの一音を聴いただけで痺れてしまったよ」
 そう呟く父は、柔らかくて優しげな目をしていると。
 美紅はこの時そんなことを思いつつも、ふと訊いた。
「お父さんって、クラシックのこととか詳しいの?」
「ん? 詳しいという程でないが、昔から好きだよ」
「そうなんだ。なのに、私がヴァイオリン習いたいって言った時は何で駄目って言ったの?」
 ムウッと少し拗ねたような美紅に視線を向け、和彦は相変わらず微笑みは絶やさないまま少しだけ困った顔をする。
 それからふっと一息つき、娘に言葉を返したのだった。
「もし美紅がヴァイオリニストになっていたら、海外に行ってばかりで私のそばに置いておけないだろう? よかったよ、美紅にヴァイオリン習わせなくて」
「ふふ、同じこと言うんだね」
 父の言葉に、美紅は思わずそう呟いてしまう。
 和彦はそんな娘の言葉を聞き逃さず、小さく首を傾げた。
「同じ? 誰と同じなんだい?」
「えっ!? あ、いや……葵だよ、葵。今日ちょうどこの曲聴いて、そういう話したの」
 もちろん同じことを言ったのは、葵ではなく恋人である早瀬である。
 だが彼との交際を隠している事情上、まさかそんなこと言えない。
 愛しい娘が自分に内緒で実は男とデートをしているなんて知ったら、この人のことだ、何をするか分からないからである。
 その上に、早瀬は父の部下という立場なのだ。
 うっかり口に出そうになった早瀬という言葉を飲み込み、美紅は誤魔化すように父に笑顔を向ける。
 それから気を取り直して、ゴクゴクとミネラルウォーターを口に運んだ。
 早瀬は早く父に挨拶をして、正式にふたりの交際を認めて貰いたいと前から言っている。
 だが父の自分に対する愛情を分かっているだけに、なかなか早瀬を恋人として紹介できないのだった。
 和彦はそんな美紅の様子を見つめながら、漆黒の髪をそっとかき上げる。
 それからダンディーな容姿に小さな笑みを浮かべると、お気に入りの赤ワインを口に含んだのだった。