07. プリンスの秘密


 ――金曜日の放課後。
 1年Aクラスの教室で帰り支度をしていた美紅に、友人の葵は声を掛ける。
「ねぇ、美紅。今日何か食べて帰らない? 駅前の店、まだケーキバイキングやってたでしょ」
 そんな葵の誘いに、美紅は申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめん、今日は都合悪いんだ。また今度行こうよ」
「えーそうなの? じゃあ、またの機会ね」
 葵は残念な様子でそう呟いた後、ニッと笑みを浮かべる。
 そして、こう訊いたのだった。
「ていうか、もしかしてプリンスとデート? いいねぇ、幸せ者っ」
「ち、違うよ。デートとかじゃないって」
 美紅は周囲に気を配りつつ、大きく首を振る。
 それから、はあっと大きな溜め息をついた。
 まだ恋人である早瀬とデートなら幸せなのだが。
 そう……今日は、金曜日。
 あの憎き遥河の強制補習の日なのだった。
 遥河の嫌味ったらしい顔を見るよりも、ずっとケーキバイキングの方に行きたい。
 だが弱みを握られている手前、遥河の補習をボイコットするわけにもいかない。
 これも、早瀬と平穏で幸せな交際を続けるためである。
「ねぇ、そういえば美紅さ」
 葵はふと、再び口を開く。
 そして小さく首を傾げてから、こう続けて訊いたのだった。
「最近美紅さ、英語の成績上がってない? 前は授業でやる小テストも10点中2点くらいだったのに、最近は5点くらいは取れてるし。頑張ってるじゃなーい」
「えっ? あ、そうかな?」
 最近は憧れの留学のためにも、美紅は苦手な英語に特に力を入れて勉強している。
 それに遥河は補習では、一応きちんと英語を教えてくれていた。
 普段の言動は相当頭にくるとはいえ、正直彼の教え方は上手かった。
 こうなったら、遥河を踏み台にして留学してやろうじゃないの。
 美紅はそう割り切ることにし、今のところ彼との契約を忠実に守っているのだった。
 とはいえ、まだ10点中5点程度の英語力。
 まだまだ、留学という夢には程遠そうである。
 美紅はちらりと時計を見た後、カバンを持った。
「んじゃ、私行くね。また明日ね」
 葵に手を振って、美紅は1年Aクラスの教室を出る。
 廊下をすれ違うクラスメイトたちとも軽く挨拶を交わしながら、美紅は遥河の待つ英語準備室ではなく職員室へと足を向けた。
 そして。
「早瀬先生、数学のプリントを提出に来たんですけど」
 職員室に入った美紅は、デスクで仕事をしている早瀬にそう声を掛ける。
 早瀬は振り返って美紅ににっこりと笑顔を返し、手渡されたプリントを受け取った。
 そんな秋華のプリンスと呼ぶに相応しいその綺麗な微笑みに、美紅は思わずドキドキしてしまう。
 そして改めて思ったのだった。
 こんなに優しくて格好良い完璧な王子様が自分の彼氏だなんて、なんて幸せなのだろうかと。
「椎名さん、今から帰るんですか?」
 柔らかな声で、早瀬はそう美紅に訊く。
 その突然の問いに、美紅は思わず漆黒の瞳を見開いてしまう。
 それから少し小声で、こう答えた。
「えっと、いえ、図書館に寄ってから帰ろうかなーと……」
 強制的にとはいえ、まさか遥河にマンツーマンで英語を教えて貰っているなんて、美紅は早瀬に言えなかったのである。
 だが早瀬は特に美紅の言葉を気にした様子もなく、受け取ったプリントに目を落とした。
 そしてブラウンの瞳を細め、言った。
「分かりました。下校の際は、気をつけて帰ってくださいね」
 美紅はそんな早瀬に笑みを返し、こくんと頷く。
「はい、先生。失礼します」
 ぺこりと早瀬に丁寧に頭を下げた後、美紅は職員室を出る。
 ――美紅の提出したプリントには、小さなメモ紙がついていた。
 それは、週末のデートの約束が書かれた、伝言メモ。
 周囲に内緒で付き合っている事情上、表立って恋人同士の会話なんてできない。
 個人的にメールや電話でも構わないのだが、こうやってメモで彼とやり取りをすることもたまにあった。
 決して安心できる伝言手段ではないが、何だかメモを受け渡しするそのスリル感が、美紅はすごくドキドキして好きなのである。
 美紅は幸せそうに笑顔を宿し、恋人のいる職員室を振り返る。
 それから、遥河の待つ英語準備室へと歩き出したのだった。



「あ? 何なんだ、この答えは。ふざけてんのか?」
「…………」
 美紅は浴びせられるその言葉に、あからさまに嫌な顔をする。
 教え方は確かに上手いかもしれないが。
 相変わらずどうして人の癇に障ることばかり言うのだろうか、この男は。
 英語準備室で補習を受けながら、美紅はキッと遥河に目を向ける。
 遥河はそんな美紅の反応を楽しむかのようにニッと笑い、さらに続けた。
「それともまさか、大真面目でこんな有り得ない答え書いてんじゃないだろうな、おまえ」
「いちいちうるさいわねっ、あんたの教え方が悪いんじゃないの!?」
 カッと顔を真っ赤にしつつ、美紅はそう反抗する。
 だが遥河は顔色ひとつ変えず、ふてぶてしく机に頬杖をついて言葉を返した。
「俺が教えてやらなかったらな、おまえの成績はずっと35点レベルだ。今でもまぁ十分壊滅的だが、少しはマシになったのは誰のおかげだ?」
「誰のおかげってね、私の努力の成果よっ」
「あ? おまえの努力だって? ハッ、笑わせんな。誰でもないこの俺様のおかげだろーが。全力で感謝しろ」
「……っ」
 本当に何でこの男は、こんなにいつもいつも偉そうなんだ。
 優しくて謙虚な早瀬先生とは雲泥の差だ。
 同じ学歴を持っていても、こうも性格が違うなんて。
 そう思いつつ、美紅はふと遥河に以前から聞きたかったことを口にする。
「ていうか、あんたと早瀬先生って高校の同級生だったんでしょ? 高校の時の早瀬先生って、どんな感じだったの? あんたなんかと違って、やっぱモテてたんだろうけど」
「早瀬?」
 遥河は一瞬眉を顰め、表情を変えた。
 それから少し考えた後、面白くなさそうに短く答える。
「あいつは昔から、全然変わってねーよ」
「やっぱり? 昔からプリンスだったんだ、早瀬先生」
 遥河の言葉に頷き、美紅は満足そうにそう呟く。
「…………」
 遥河は複雑な顔をしつつ、漆黒の瞳を細めた。
 そしてふっと嘆息すると、美紅に言った。
「ていうかな、俺は今も昔もモテモテだ。ま、俺様に釣り合ういい女なんて、そこら辺にはいないけどな」
「は? よく言うわね、その嫌味ったらしい最悪な性格で。少しは早瀬先生を見習ったら?」
 はあっとわざとらしくそう言った後、美紅は再び遥河に目を向ける。
 それから、再び口を開いたのだった。
「ていうかね、もし早瀬先生が火曜か金曜に会おうって言ってきたら、どーすんのよ!? 早瀬先生の誘いを断ってあんたと補習するなんて、絶対に嫌だからねっ」
 遥河はそんな美紅の言葉に、ふっと笑みを浮かべる。
 それから、何も問題はないかのように言った。
「いいぜ、別に。早瀬から誘われたら、そっちに行ったってな」
「……え?」
 思いもしなかった遥河の答えに、美紅は驚いたように瞳をぱちくりさせた。
 きっとまた脅しをかけて、それでも補習に来いと。
 そう言うだろうと思っていたのに。
 遥河はニッと笑ってから、問題集を手にする。
「お喋りは終わりだ、さっさと続きを解け。ただでさえ半端なくヤバイくらい遅れてんだ、無駄話する暇あったらな、単語のひとつでも覚えろ」
 美紅は相変わらずな嫌味な言葉に、ムッとした表情をする。
 だが言われた通り、渋々と問題に取り掛かり始めた。
 そんな美紅の様子を見て、遥河は漆黒の前髪をかき上げる。
 それから、彼女には聞こえない程度の小声でこう呟いたのだった。
「絶対に早瀬は、火曜と金曜はおまえのことを誘えないからな……」



 ――その頃。
 一足先に学校を出た早瀬は、愛車の白のスカイラインを走らせていた。
 赤信号に引っかかってブレーキを踏んだ後、ふと1枚のCDを手にしてデッキに入れる。
 それと同時に流れ始めたのは、優雅なバイオリンの音色。
 その美しい旋律に耳を傾けながら、早瀬は賑やかな街を通り過ぎる。
 金曜日の夕方ということもあり、街はいつも以上に活気に満ちていた。
 そして――しばらく走った後。
 早瀬はある場所に到着して車を止める。
 車に積んでいた荷物を手にしてから、彼は白のスカイラインを降りた。
 そんな彼が向かった先は。
「いらっしゃい、待ってたわ。どうぞ」
 ある家の呼び鈴を押した早瀬にドアを開けてそう声を掛けたのは、ひとりの綺麗な女性。
 年は早瀬と同じくらいだろうか。
 ストレートの長い漆黒の髪に、同じ色の優しげな瞳。
 彼女の醸し出す雰囲気は清楚で、大和撫子を思わせる落ち着いたものだった。
 その女性は早瀬に柔らかな微笑みを向けた後、彼を室内へと促す。
 早瀬は女性に笑顔を返してから、慣れたように歩を進める。
 そしてパタンとドアが閉まり……早瀬は、その女性の部屋へと姿を消したのだった。