06. 俺様の作戦、腹黒の策略


 次の日――水曜日の朝。
 愛車の白のスカイラインを降りたプリンス・早瀬は、秋風に揺れる薄いブラウンの髪をそっとかき上げる。
 そして教職員専用の靴箱へと足を踏み入れると、ふとその表情を変えた。
 そんな彼の目に映ったのは。
「おはようございます、遥河先生」
 これでもかという爽やかな作り笑顔を宿し、早瀬は靴箱にいた彼・遥河俊輔にわざとらしく声を掛ける。
 逆に遥河はあからさまに顔を顰め、鋭い視線を早瀬に返した。
「……おはようございます、早瀬先生」
 それだけ言うと、遥河は乱暴に靴箱を閉めて職員室へと足を向ける。
 そんな遥河の様子に、早瀬は周囲を軽く見回した。
 そして誰もいないことを確認した後、表情を一変させて馬鹿にしたような口調でこう言ったのだった。
「遥河先生、調子はどうです? 美紅は落とせそうですか?」
「おまえの今の表情、おまえに騙されてる奴ら全員に見せてやりたいくらいだ」
 チッと遥河は気に食わないように舌打ちをし、大きく嘆息する。
 それからスッと神秘的な漆黒の瞳を細め、言葉を続けた。
「そんな余裕ぶっこいて笑ってられるのも今のうちだぞ、早瀬。椎名美紅は日が経つにつれ、この俺のことを意識し始める。そして最終的には、この俺を選ぶことになるからな」
「は? 本気でそんなこと言ってるのかい? おまえ如きが、この僕から美紅を奪うなんてね。そんなこと不可能だって早く気がついた方がいいよ」
 早瀬はそう言った後、履き替えた靴をパタンと靴箱にしまう。
 そして、こう遥河に訊いたのだった。
「ていうか、何で美紅に付き纏うんだ? わざわざ学校まで移ってきて。あ、もしかして……昔のこと、まだ根に持ってるとか?」
 早瀬のその言葉に、遥河はピクリと小さく反応を示す。
 そしてキッと視線を返し、彼の問いに答える。
「あ? 昔のことを根に持ってるのはおまえの方だろーが。ていうかおまえ、本当にあの椎名美紅のこと好きなのか? どうせおまえのことだ、また何かくだらないことにあいつを利用しようとしてるんだろうけどよ」
「遥河。そういうおまえこそ、美紅のことが本当に好きなのかい? てか、僕が彼女のことを好きなのかって? そんなこと決まってるだろう、僕は……」
 ――その時。
 早瀬はふと言葉を切り、遥河から視線を逸らした。
 そして普段通りの穏やかな表情を浮かべる。
「あ、早瀬先生に遥河先生、おはようございますっ」
 偶然その場を通りかかった数人の生徒たちが、ふたりに声を掛けてきたのだった。
 若くて人気のあるふたりの貴重なツーショットに、生徒たちは少し興奮気味である。
 もちろん――ふたりが今まで、どんな会話を交わしていたかも知らず。
 早瀬はプリンスと言われるに相応しい笑顔を彼女らに向け、先程とは全く印象の違う声で答えた。
「おはよう、今日は天気がいいね」
 にっこりと自分たちに向けられる微笑みに、生徒たちは頬を赤らめている。
 遥河は愛想良く生徒たちと会話を始めた早瀬の様子に、小さく顔を顰めた。
 それから、スタスタと職員室に向かって歩き出す。
 早瀬は生徒たちの話に耳を傾ける素振りを見せつつも、小さくなっていく遥河にちらりと視線を向けた。
 そして、ふっと口元に笑みを浮かべたのだった。



 1年Aクラスの教室で、美紅はもう何度目か分からない溜め息をついていた。
「ねぇ、美紅。どうしたの?」
 美紅は突然掛けられたその声に、ふと我に返る。
「えっ? どうしたのって、何が?」
「何か朝からずっと、心ここに在らずってカンジじゃない。何かあった?」
「何かって……」
 友人の葵の問いに、美紅は思わず言葉を切ってしまった。
 あんなこと、誰にも言えるわけがない。
 昨日……よりによって、あの遥河にキスをされてしまったなんて。
 いやいや、待て。
 あんなの、キスしたうちに入らない。
 ただのアイツの嫌がらせなだけで、それ以上の意味なんて何もない。
 むしろ動揺したら、あの男の思うツボだ。
 美紅はそう思いつつも、漆黒の瞳をおもむろに伏せる。
 ……でも。
 真っ直ぐに自分を見つめる神秘的な漆黒の瞳と、同じ色のサラサラの髪。
 恋人である早瀬も綺麗な顔をしているが、また雰囲気の全然違った整った容姿。
 耳をくすぐる、バリトンの声。
 性格は本当にどうしようもなく最悪だけど。
 黙っていれば、確かにいい男なのかもしれない……。
「美紅?」
 急に黙ってしまった美紅に、葵は首を傾げる。
 美紅はハッと顔を上げ、気を取り直すかのようにぶんぶんと大きく首を振った。
 ……何を考えていたんだ、私は。
 ただのアイツの嫌がらせを、こんなに意識してしまうなんて。
「ううん、何でもないよ」
 美紅は誤魔化すように葵にそう言った後、ふうっと嘆息する。
 ――その時だった。
「朝さ、早瀬先生と遥河先生が一緒にいたけど、いい男がふたり並ぶと目の保養になるよねー」
「あのふたりって、同じ慶城高校出身なんでしょ? 顔も頭もいいなんて、いいよねぇっ」
 後ろの席から、ふとそんなクラスメイトの話し声が聞こえる。
 その会話に、思わず美紅はビクッと反応をしてしまった。
 そして葵は美紅の様子を見て、ニッと意味あり気に笑う。
「何? プリンスと何かあった?」
「えっ? いや、早瀬先生とは、別に何も」
「プリンスとはってコトは……じゃあ、誰と何があったのぉ?」
 葵の鋭いツッコミに、美紅はウッと言葉を詰まらせる。
 それから顔を真っ赤にし、必死に弁解した。
「べっ、別に誰とも何にもないってっ」
「何にもないってカンジじゃ全然ない顔してるよぉ、美紅ちゃーん」
 追求してくる葵から視線を逸らし、美紅は机に頬杖をつく。
 そして教室内に響き始めたチャイムを聞いて、救いと言わんばかりに口を開いた。
「1時間目って、何の授業だっけ」
 そんな美紅の問いに、葵はふっと笑う。
 その後、こう答えたのだった。
「1時間目は数学だよ、プリンスの」
「早瀬先生の……」
 その呟きと、同時だった。
 教室のドアが開き、穏やかな笑みを宿した美紅の恋人が姿をみせる。
 そして、ふっと彼の瞳が美紅へとさり気なく向けられた。
 早瀬先生と付き合いだして、もう数ヶ月経つ。
 だが彼の王子様のような視線は、いつ感じてもドキドキとしてしまう。
 そしてその優しい笑顔は、一見誰にでも向けられているように見えるけれど。
 でもその王子様は……誰のものでもない、自分だけのプリンスなのだから。
 早瀬は美紅ににっこりと微笑んだ後、教壇に立った。
 美紅はそんな綺麗な早瀬の顔を見つめて、改めて思ったのだった。
 自分には、最高の恋人がいるんだと。
 噂好きなクラスメイトたちにも、そして遥河にも、この幸せを壊されてたまるもんか。
 そう思い直し、美紅は大きく頷く。
 早瀬はそんな美紅の心境も知らず、始業の号令が済んだ後、普段通りの柔らかな声で授業を始めたのだった。



 その日の放課後。
 葵と分かれて校門を出た美紅は、学校から少し離れた駅前にいた。
 そんな彼女の表情は、学校にいる時のものと違っていた。
 ……その理由は。
 美紅はふと、ロータリーに入ってきた一台の車を見つけるとパッと瞳を輝かせる。
 そして、タッタッとその車――白のスカイラインに駆け寄った。
「お待たせ、美紅。待たせてごめん」
 愛車から出てきた車の持ち主・早瀬は、助手席のドアを開けて優しく美紅に微笑む。
 美紅は白のスカイラインに乗り込み、嬉しそうに笑みを宿した。
「ううん、私も今来たところだよ」
 この日美紅は、恋人である早瀬とデートの約束をしていたのだった。
 もちろん、誰にも内緒で。
 早瀬は美紅の言葉に笑みを返した後、ゆっくりと愛車を走らせ始める。
 運転席の早瀬に目を向け、美紅は彼に言った。
「今日の職員会議の予定が明日になって、よかったよね」
 その美紅の言葉に、早瀬はにっこりと笑う。
「うん、そうだね。美紅とこうやって、早く会えるからね」
「早瀬先生……」
 美紅はそんな早瀬を見つめ、思わず頬を赤らめてしまった。
 綺麗な顔に宿る、プリンスの微笑み。
 早瀬は赤信号のため、ふと車のブレーキを踏んだ。
 そして助手席に座っている美紅の頭を優しく撫で、その手をそっと取る。
「美紅。大好きだよ」
 あたたかな大きな手のぬくもりと、柔らかで優しい声。
 美紅はドキドキと胸の鼓動を早めながらも、大きくコクンと頷いた。
 それからそっと彼の手を握り返し、早瀬にこう言葉を返す。
「私も大好きだよ、早瀬先生。ずっと一緒にいようね」
 そして早瀬はそんな美紅の言葉を聞いてもう一度笑顔を宿すと、ふっと綺麗なブラウンの瞳を細めたのだった。