05. 奪われた××


 火曜日――1年Aクラス。
 午前中最後の4時間目の終業チャイムが鳴り、教室は賑やかな声とともに昼休みを迎えた。
 美紅はパタンと教科書を閉じて、はあっと大きく嘆息する。
 そして机に頬杖をつき、教壇で生徒たちに囲まれている人物をちらりと見た。
 その人物とは。
「遥河先生、この問題が分からないんですけどぉっ」
「先生、またゆっくり質問に来ていいですかっ?」
 キャッキャとはしゃいだように遥河に質問をするクラスメイトに、美紅は信じられないと言ったように首を振る。
 いくら女子高で若い男が少ないとはいえ。
 相手はあの天敵である、遥河俊輔。
 美紅にとっては、そんな遥河に群がる生徒たちの心境が信じられなかった。
 確かに顔だけ見ればハンサムなのかもしれないが。
 でもその性格は、どうしようもなく最悪。
 いつも自分の癇に障ることをわざとしては、ニヤリと頭にくる笑みを浮かべる。
 しかもそんな時の遥河の表情は、美紅の反応を見て明らかに楽しんでいるものである。
 周囲を取り囲んでいるたくさんのファンの生徒にちょっかいかければいいものを。
 何を考えているのか、遥河は執拗に美紅に対して嫌がらせをしてくるのである。
「美紅、今日あんた日直じゃない?」
 生徒に囲まれてなかなか教室を出て行けない遥河の姿を見て憂鬱な表情をしている美紅に、友人の葵はそう声を掛ける。
「あっ、そうだった……ありがと、葵」
 美紅はそう言ってから、授業の黒板を消そうと席を立った。
 そして黒板消しを手にし、黒板を消しだしたのだった。
 ――その時だった。
「……椎名美紅」
 思わずゾクリとするような、耳をくすぐる吐息。
 急に耳元で囁かれたその低い声に、美紅はビクッと反応してしまう。
 それから気を取り直して一息をつくと、あからさまに嫌な顔をして振り返った。
 そこにいたのは、もちろん。
「何ですか、遥河先生」
 わざと冷たい声でそう言い放ち、美紅は遥河から視線を逸らして再び黒板を消し始める。
 遥河はそんな美紅の様子にニッと満足そうに笑みを宿すと、周囲の生徒には聞こえないくらいの声でこう言ったのだった。
「今日が何曜日か、分かってるだろうな?」
 美紅はその言葉に、さらに気に食わない顔をする。
 遥河と交わしてしまった契約。
 毎週火曜と金曜、こともあろうにマンツーマンで遥河の英語の補習を受けることになってしまったのだった。
 遥河は自分をわざと無視する美紅に、ふっと神秘的な漆黒の瞳を細める。
 そして、続けてこう口を開いた。
「放課後、怖気づいて逃げんなよ? 椎名美紅」
「な……っ」
 遥河のその言葉に、美紅はムッとしたように振り返る。
 それから遥河を睨み付け、トーンの低い声でボソリと言った。
「分かってます、ちゃんと行きますから」
 何故か遥河は、美紅が早瀬と恋人同士であることや学園長の娘ということを知っている。
 下手に逆らって言いふらされるようなことになっては堪らない。
 大袈裟に溜め息をつき、美紅はふいっと遥河から視線を外す。
 遥河はそんな彼女の言葉を聞いてから不敵に笑い、ようやく教室を出て行ったのだった。
「何なのよ、あいつっ」
 誰にも聞こえない小声でそう呟いて、美紅はニヤけた遥河の顔を思い出して苛立ちを募らせる。
 そして力を込めて、遥河の書いた授業の黒板を消したのだった。



 遥河は美紅のクラスを出てから、職員室へ向けて廊下を歩き出した。
 だがその途中でも、幾人ものファンの生徒からの質問を受ける。
 若くてハンサムな新任教師は、女の園で学校生活を送る生徒たちの興味の的なのである。
 分かりやすく端的に生徒の質問箇所を解説した後、遥河は再び歩を進めた。
 だが、すぐにその足を止めることになるのだった。
 その理由は。
「遥河先生、大人気ですね」
 これでもかというくらいに作った穏やかな声が、そう背後から聞こえる。
 遥河は眉をひそめた後、ふと振り返った。
 偶然同じように職員室に向かっていたプリンス・早瀬歩は、そんな遥河にわざとらしい笑顔を向ける。
「もうこの学校には慣れましたか? 遥河先生」
「ええ。おかげさまで」
 無愛想にそう短く答え、遥河は鋭い視線を早瀬に返す。
 それから周囲に誰もいないことを確認すると、負けずに言った。
「そういう秋華のプリンス・早瀬先生の方が、生徒に大人気なんじゃないですか? その最悪な本性を隠してな」
「本性? 何のことでしょうか」
 そう柔らかく言った後、早瀬はおもむろにブラウンの瞳を細める。
 そして今までとは全く印象を変えた声で、こう続けたのだった。
「悪いことは言わないよ、遥河。美紅を僕から奪うなんて無駄なこと諦めて、さっさと君は元いた慶城高校に戻ったら? 言っただろう、美紅はこの僕にベタ惚れだってね」
 プリンスと呼ばれているとは思えない程の蔑んだ冷たい早瀬の視線に、遥河は顔を顰める。
 それからスタスタと歩き出してから、言い放ったのだった。
「あ? この俺様に不可能はないんだよ。泣く目に逢うのはおまえだ、早瀬」
 早瀬はそんな遥河の言葉に、ふっと一瞬だけ表情を変える。
 その後すぐ、普段の作り笑顔を湛えて言った。
「そうですか。それでは、せいぜい頑張ってくださいね」
「…………」
 遥河は嫌味ったらしい早瀬の言葉に振り返りもせず、階段を下り始める。
 そして、気に食わないようにチッと舌打ちしたのだった。



 ――その日の放課後。
 美紅は、離れの校舎にある英語準備室にいた。
 そしてもちろん、この男も。
「この前の金曜日にやった、学力テストを返す」
 そう言って遥河は、美紅に採点した解答用紙を手渡した。
 それを奪い取るように乱暴に受け取り、美紅はおそるおそるその結果を見る。
 それから、その固かった表情を一瞬緩めた。
「60点って、なかなかいいじゃない」
 点数を確認した美紅は、そう呟いてホッと安堵の息をつく。
 実力テストが35点だった美紅にしてみれば、60点という点数はかなり高得点なのである。
 だがそんな美紅の様子を見て、遥河はクックッと笑いながら言った。
「バーカ、それのどこがいい点数なんだよ。そのテスト問題、全部中学レベルの基本問題だぞ? しかも基礎で60点って、中学生の平均点より低いぞ」
「ちゅっ、中学レベルってっ」
 どうりで何となく解けたと思ったら。
 それにしても中学英語の問題を黙ってやらせるなんて、本当に嫌なヤツ。
 カアッと顔を赤くさせながらも、美紅は遥河に言い返す。
「あんたね、何黙って中学英語の問題させてんのよっ」
「あ? その中学英語でも60点しか取れなかったのは、どこのどいつだ?」
「う、うるさいわねっ。てか、何で私があんたなんかとふたりでこんなトコにいないといけないのよ!?」
 キッと遥河に鋭い視線を向け、美紅は耐え切れずにガタッと席を立つ。
 ふてぶてしく教壇に頬杖をつき、遥河は彼女に言った。
「ガタガタうるせーのはおまえだろ、席に座れ」
「だいたいね、教師が生徒を脅していいって言うわけ!?」
 遥河は反抗する美紅の様子にふうっとひとつ溜め息をついてから、おもむろに立ち上がる。
 それから美紅のすぐ目の前まで歩み寄り、こう言ったのだった。
「席に座れって言ってるだろーが。この俺様の言うこと聞かないと、キスするぞ?」
 真っ直ぐに自分に向けられる、遥河の漆黒の瞳。
 美紅は不覚にも、その視線にドキッとしてしまう。
 だがすぐに大きく首を振り、気を取り直して言い返した。
「キスってね、もう少しマシな冗談言えないワケ!? ていうか本当にあんたって、最低最悪の教師ねっ。それが教師の言う台詞!? むしろ、セクハラで訴え……っ!」
 ――その時だった。
 美紅は一瞬、何が起こったか分からなかった。
 漆黒の瞳を大きく見開き、言葉を失う。
 いや……正確には、声を出せなかったのだ。
 遥河の唇が、スッと美紅の唇を覆ったのである。
 柔らかい感触に、美紅は何度も何度も瞬きをする。
 ちょっと待って。
 もしかして、もしかしなくても。
 今――自分は、遥河とキスをしているということなのだろうか。
 そう思った瞬間、美紅はハッと我に返る。
 そして。
「なっ、なっ、何やってんのよっ!!」
 美紅は咄嗟に机の問題集を掴み、遥河の顔目がけてそれを投げつけた。
 その問題集をひょいっとかわし、遥河はニッと笑う。
「言っただろーが、言うこと聞かないとキスするってな。今日はキス程度だったけどな、今度俺様に逆らったら襲うぞ?」
「襲うってねっ、あんた教師でしょ!? 信じられない……っ」
「何だよ、おまえだって教師の早瀬と、いつもキス以上のことしてるんだろ? キスくらいでギャーギャー言うな。ほら、さっさと始めるぞ」
 美紅の投げた問題集を拾ってから、遥河は何事もなかったかのようにパラパラとページをめくり始める。
「なっ、キス以上のことって……っ」
 美紅は耳まで真っ赤にさせながら、目をぱちくりとさせた。
 それから遥河を睨み付けた後、渋々席に着く。
 セクハラでこいつを訴えたら、間違いなく勝てる。
 そう思いつつも弱みを握られている手前、逆らうこともできない。
 それに、本当に襲われたら洒落にならないし。
 美紅はあからさまに反抗的な態度を取りながらも、仕方ないようにシャープペンシルを手にする。
 本当にこいつは、とんでもない最低最悪な教師だ。
 生徒に学校でキスをするなんて、信じられない。
 だが……そう思いつつも。
 何故か美紅の胸は、異様なくらいに鼓動を早めていた。
 自分を見つめる神秘的な漆黒の瞳と、重なる柔らかな唇。
 その感触を思い出し、美紅は思わず再び顔を赤らめる。
 だが、すぐに大きく首を左右に振った。
 ……落ち着け、美紅。
 相手は、あの最低男の遥河なんだから。
 キスなんかじゃない、これは単なるあいつの嫌がらせだ。
 意識したら、遥河の思うツボじゃないか。
 そう思い直しすぐに気を取り直し、美紅は小さく深呼吸をする。
 そしてまだおさまらない胸のドキドキ感を誤魔化すように、カチカチとシャーペンを数度鳴らしたのだった。