04. 白馬に乗った王子様


 この日は、学校も休みの日曜日。
 美紅は2階の自室で髪を梳かした後、ちらりと時計に目をやる。
 そして部屋を出て1階のダイニングルームへと向かった。
 ダイニングに近づくにつれ、珈琲の良い香りが鼻をくすぐる。
 美紅はその香りにつられるように、廊下の突き当たりのドアを開けた。
「おはよう、美紅。ちょうど朝食ができたところだったよ」
 部屋に入ってきた美紅に、珈琲を淹れていた人物はにっこりと微笑みかける。
「おはよう、お父さん」
 美紅はそう言って、父の淹れた珈琲を注ごうと自分のマグカップを手に取った。
「私が注ぐから、美紅は先に朝食を食べていなさい。せっかくの朝食が冷めてしまったらいけないからね」
 紳士的な笑みを美紅に向け、彼女の父・椎名和彦(しいな・かずひこ)は娘のマグカップを受け取る。
 美紅は言われた通りに席に着くと、焼きたてのトーストにバターを塗り始める。
 美紅好みのミルクが多めに入った珈琲を彼女に出した後、和彦も娘の正面の席に座った。
 美紅の父である椎名和彦は、美紅も通っている秋華女子高等学校の理事長である。
 彼は一見、ダンディーという言葉がぴったりな紳士的な風貌であり、美紅の友人の葵のようなオジサマ好みな生徒に密かに人気があった。
 だが、しかし……。
 美紅はバターを塗る手を止め、ふと顔を上げる。
 そしてひとつ溜め息をつき、父に言った。
「何、お父さん?」
 自分をじっと見つめる父の様子に気がついた美紅は、彼に視線を返す。
 和彦は満足そうに紳士的な顔に笑顔を宿しながら、彼女の言葉にこう答えたのだった。
「ん? あまりにも美紅が可愛くてね、見惚れていたんだよ」
「…………」
 美紅は父の返答を聞いて、再び嘆息する。
 ダンディーな理事長のプライベートの顔。
 それは、娘を溺愛するただの親バカ以外の何者でもなかった。
 だが少々その度合いの過ぎる愛情に呆れてはいるが、美紅はそんな父親のことが嫌いではない。
 娘を溺愛する父の気持ちが理解できるからであった。
 美紅の母親は、彼女が幼い頃に病気で亡くなっている。
 その上に母親は昔から子供が出来難い体質であり、父と結婚して数年の治療を得て、ようやく美紅を授かったのだった。
 そんな経緯がある事情上、父の娘に対する愛情過多も仕方ないと美紅は思っていた。
 それにたまに呆れることはあるが、そんな愛情が特に嫌でもないし、男手一つで自分を育ててくれた父のことを尊敬もしている。
 ただ……たったひとつだけ、美紅には心配なことがあった。
 それは。
「今日は友達と遊びに行くって言ってたね、美紅」
 父の問いかけに、美紅はミルクたっぷりのカフェオレをひとくち飲んで答える。
「うん。葵と買い物に行くの」
「葵ちゃんか。いい子だよね、彼女は」
 にっこりと微笑み、和彦はコーヒーカップをソーサーに置いた。
 そして、ふっと表情を変えてこう続けたのだった。
「女の子は大歓迎だよ、いつでも家に連れておいで。だが……それが男だったら、多少問題が生じるがね」
「…………」
 美紅は父の顔をちらりと見て、心の中で深く溜め息をつく。
 顔は笑っているが、その目は全く笑っていなかった。
 娘を溺愛するがゆえ、和彦は過度に美紅に近づく男のことに敏感なのである。
 まさか可愛い娘に彼氏がいるなんて知ったら、この人は何をしでかすか分からない。
 しかも相手は、父の部下である早瀬先生なのである。
 美紅は内心ヒヤヒヤしながらも、誤魔化すように父に笑顔を見せる。
「女子校で周りは女の子ばかりよ、男の子と知り合う機会なんて全然ないし。心配しすぎよ、お父さん」
「可愛い娘の男なんて、存在自体認められないよ。私よりも劣った男は絶対に嫌だが、逆に完璧な男も嫌だな。父親心というのは複雑だよ」
 はははっと笑う和彦だが、相変わらず目は決して笑ってはいない。
 美紅は引きつった表情を懸命に隠すように、笑顔を作る。
 それから、ぱくっとトーストを口に運んだ。
 和彦はコホンとひとつ咳払いをした後、話題を変える。
「そういえば美紅、この間の実力テストの結果を見たんだが」
 美紅は再び、その表情を強張らせた。
 いや、順位的にはそれほど悪い結果ではなかったのだが。
 美紅は父が次に何を言うか、容易に想像ができたのだった。
 そんな表情の冴えない娘の様子をにこにこと見つめながらも、和彦は口を開く。
「数学は満点に近いし、ほかの教科もなかなか優秀だったね。ただ……問題は、英語かな」
 35点ではさすがに何も言い訳できず、美紅は返す言葉を失う。
 和彦はテストの点数が悪くても娘を叱ることはしない。
 だが逆にそれが、美紅にとって余計に気まずいのだった。
 それから和彦はブラックの珈琲を飲んだ後、こう続けた。
「そうだ、英語といえば。美紅のクラスの英語を担当しているのは、新任の遥河くんだったね」
 美紅は天敵の名前を耳にし、思わず顔を顰める。
 そして、気に食わないように父に訊いた。
「どうして、あんな遥河のヤツ……いや、遥河先生を採用したのよ?」
「どうしてって、彼は優秀な教師だからね。いい青年だよ」
 ……いい青年って、どこの誰が!? 
 思わず力いっぱいそう叫びたかった美紅だったが。
 喉まで出かかった言葉を必死に飲み込む。
 遥河が優秀なことといえば、自分に嫌がらせすることくらいだ。
 どこをどう見たら、そんなあの男がいい青年だというのだろうか。
 いや……確かに授業は分かりやすくて教え方は上手いし、顔だって黙っていればいいのかもしれない。
 だが、その性格は最悪。
 あの嫌がらせした後の、ニヤリと笑う嫌みったらしい表情。
 美紅は天敵である遥河のことを思い出し、苛々したように目玉焼きにフォークを突き刺して口に運ぶ。
 通常の英語の授業さえも、毎日のようにあるというのに。
 その上に脅されて、週2回もマンツーマンで英語を習う羽目になっているのだ。
 それよりも、美紅には疑問があった。
 どうして遥河は、自分が理事長の娘ということや早瀬と恋人同士ということを知っているのだろうか。
 理事長の娘だということに関しては、教師である遥河が知っていてもそうおかしくはないのだが。
 だが、父や葵以外の友人さえも知らない早瀬との関係を何故知っているのか。
 美紅は小さく首を傾げながらも、ふと時計を見た。
 そして席を立ち、食事の済んだ食器を重ねた。
「うわ、もうこんな時間……ご馳走様でしたっ」
 バタバタと後片付けをする娘を、和彦は微笑ましげに見つめている。
「あ、今日は夕食食べてくるから」
 父にそれだけ告げ、美紅は自室への階段を駆け上がって行った。
 そしてひとりダイニングに残された和彦は、優雅に珈琲のお替りをカップに注ぎながら、美紅と同じ色をした漆黒の瞳をふっと細めたのだった。



 それから、しばらくして。
 急いで身支度を整えて家を出た美紅は、駅前のロータリーにいた。
 そして待ち人の姿を見つけ、パッと表情を変える。
 そんな彼女の前に現れたのは。
「お待たせ、美紅」
 愛車の白のスカイラインから降りてきたのは、秋華のプリンス・早瀬歩だった。
 美紅は早瀬に駆け寄り、嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「ううん、私も今来たところだよ」
 そう言って美紅は慣れたように白のスカイラインの助手席に乗り込んだ。
 彼女がシートベルトを締めたことを確認し、早瀬はゆっくりと車を発進させる。
 美紅は、この白のスカイラインで彼が現れる瞬間がすごく好きだった。
 まるでそれは、白馬に乗った王子様が自分を迎えに来たようだから。
 そして彼が自分の名前を優しく呼ぶたびに、大きな幸せを感じるのだった。
 美紅は運転席の早瀬に視線を向け、思い出したように彼に言った。
「そうだ、先生。数学でね、分からないところがあるの。後で教えてくれないかな」
「じゃあ、今から僕の家に行こうか。夕食は、美紅が行きたいって言っていたレストランで食べよう」
 そう言った後、早瀬は赤信号で車を止める。
 それから美紅を見つめてこう続けたのだった。
「美紅。やっぱり僕たちのこと、理事長にちゃんと挨拶に行った方がいいと思うんだけど。僕は美紅とのことを真剣に考えているし、理事長に誠意を見せたいんだ」
 美紅はその言葉に大きく瞳を見開き、慌てて左右に首を振る。
「えっ!? ま、まだお父さんに挨拶に行くなんて早いよっ。もう少し、待ってくれないかな」
「でも、美紅」
「お願いっ、いつかはちゃんと挨拶に行くから……今はまだ待って」
 今朝の朝食の際、娘の彼氏なんて有り得ないと言われたばかりの上に、今日早瀬と会うことすら父には黙っているのに。
 挨拶に連れて行くなんて、できるわけがない。
 むしろあの父が何をしでかすか、考えただけで恐ろしい。
 それに早瀬は、理事長として仕事をしている時の父の姿しか知らない。
 だが実は娘のことをベタベタに溺愛しているあの親バカな様子なんて、見られたくないのである。
 早瀬は頑なに嫌がる美紅の様子に首を傾げてから、信号が青に変わったのを確認した。
 そして再び、ゆっくりと愛車を発進させたのだった。



「あ、ここはこうすれば解けるんだ」
 早瀬の住むマンションで、美紅は納得したようにうんうんと頷いた。
 そんな美紅に、早瀬はにっこりと優しく微笑む。
「美紅は理解が早いな。すごく教えやすいよ」
「ううん、先生の教え方が丁寧で分かりやすいから。それに数学は得意だし、好きだもん」
 理解し終えて問題集を閉じた後、美紅は早瀬の淹れたアップルティーをひとくち飲んだ。
 それからふと溜め息をつき、こう呟いたのだった。
「数学やほかの教科なら理解できるのに、何で英語は解けないのかな……」
 実力テストの35点の答案を思い出し、美紅はテーブルに頬杖をつく。
 ただでさえ、英語は苦手教科なのに。
 よりによって担当教師が、あの遥河である。
 この調子では、本当に英語が嫌いな教科になってしまいそうだ。
 遥河の憎たらしい顔を思い出しながら、それから美紅はふと何かを思い出したように顔を上げる。
 そして綺麗な早瀬の顔を見つめ、少し遠慮気味に彼に訊いたのだった。
「そういえば、早瀬先生ってさ……あの遥河のヤツと、同じ高校だったんでしょ?」
 美紅の問いに、早瀬は一瞬だけ表情を変える。
 だがその微妙な変化に美紅は気がつかなかった。
 早瀬はすぐさま何事もないようにプリンスのような優雅な笑顔を宿し、穏やかな声で答える。
「うん、遥河先生とは確かに同じ学校だったよ。でも同じ学校だったけど、あまり彼のことは知らないよ」
「そうだよね、同じ学校ってだけだよね。本当に女の子って噂話に尾ひれつけたがるんだから。早瀬先生とあの遥河が、幼馴染みなわけないよ」
 納得したようにそう言った後、美紅は安心したように近くのソファーに座り、アップルティーを口に運ぶ。
「…………」
 早瀬はそんな美紅を見つめて彼女の隣に腰掛け、ふとその瞳を細める。
 そして。
「美紅」
 そっと美紅の肩に優しく腕を回し、早瀬は耳元で彼女の名前を呼んだ。
 美紅は耳に吹きかかる吐息と急に感じたぬくもりに、顔を真っ赤にさせる。
「は、早瀬先生……」
 王子様のような彼の顔が、すぐ自分の近くにある。
 美紅の心臓は、異様なほどドキドキと早い鼓動を刻んでいた。
 早瀬はそんな美紅に優しく微笑むと、おもむろに彼女の顎をくいっと上げる。
 驚くほど長い睫毛と、透き通るような白い肌。
 その綺麗な容姿は、まさにプリンスと言われるに相応しいものであった。
 そして早瀬の両の目が、ゆっくりと伏せられる。
 美紅は耳まで真っ赤にさせながらも、自然と彼と同じように瞳を閉じた。
 それと同時に……柔らかく甘いキスが、美紅の唇に落とされる。
「! ん、ふ……っ」
 丁寧に重ねられる口づけの気持ち良さに、美紅は思わず声を漏らす。
 早瀬はそっと美紅の頭を撫で、今度は耳に唇を這わせた。
「好きだよ、美紅」
 思わずゾクッとするような、優しくて低い響き。
 うっすら瞳に涙を溜めながら、美紅は与えられる感覚に身を委ねる。
「私も先生のこと、好き……っ」
「美紅、愛してるよ」
 早瀬はすっかり紅潮した彼女の頬に手を添え、再びその唇にキスを落とした。
 美紅はその口づけをさらに受け入れるべく、彼の首に腕を回す。
 そして……ふたりの身体は、ゆっくりと柔らかなソファーに沈んだのだった。