03. 契約成立


 ――爽やかな秋空が広がる、週末の放課後。
 帰りのホームルームが終わった校舎内は、生徒たちの声で満ち溢れている。
 掃除当番日誌を小脇に抱えた美紅は、そんな賑やかな廊下をひとり歩いていた。
 だが窓の外の晴れ晴れとした空とは逆に、美紅の表情は冴えない。
 美紅は大きく嘆息し、自分の教室である1年Aクラスへと入って行った。
 どうして英語という教科は、毎日毎日決まって時間割に組み込まれているのだろうか。
 おかげで、見たくもない遥河の顔を毎日見なくてはいけない。
 いや、ただ授業を受けるだけなら何とか耐えられるのだが。
 遥河は決まって、姑息に難易度の高い問題を美紅に当てるのだった。
 その時の、あのニヤリと浮かぶ笑み。
 自分に嫌がらせをして、明らかに楽しんでいるあの表情。
 美紅は遥河のそんな様子を思い出し、苛々したように風に揺れる漆黒の髪をかき上げた。
 それから席につき、掃除当番日誌を広げる。
 美紅はペンケースからシャープペンシルを取り出してから、おもむろにぽつりと呟いた。
「それにしても、どこで忘れたんだろ……」
 小首を傾げた後、美紅は掃除日誌に記入を始める。
 美紅には、ずっと愛用していたお気に入りのシャープペンシルがあった。
 だが、ある時を境に見当たらなくなったのだった。
 どこで使ったのが最後だったか、全く思い出せない。
 うーんと少し考える仕草をしてから、美紅は気を取り直して日誌の記入を続けた。
 その時だった。
「あ、美紅」
 教室に入ってきたクラスメートが、美紅の名前を呼ぶ。
 美紅はふと顔を上げ、そのクラスメートに視線を向けた。
 クラスメートは美紅の近くまで駆け寄り、そして彼女にこう言ったのだった。
「遥河ちゃんがね、美紅が教室にいたら職員室に来るように言ってくれって。何か、英語のプリントのことで話があるって言ってたよ」
「……遥河、先生が?」
 途端に顔を顰め、美紅は気に食わない表情を浮かべる。
 ていうか、英語のプリントのことって何のことだ。
 いや、きっと自分を呼び出すための口実に決まっている。
 それよりも、何か用があるんなら自分の方から来いっての。
 美紅ははあっと大きく嘆息し、苛立つように前髪をかき上げる。
「美紅?」
 険しい表情をしている美紅に、クラスメートは不思議そうな顔をした。
 美紅はハッと我に返り、誤魔化すように笑顔をクラスメートに向ける。
「えっ、ありがとっ。分かったよ」
 一体あの最悪教師は、自分に何の用があるのだろうか。
 どうせろくなことじゃないだろう。
 そう思いつつも、行かなければ後で何て言われるか分からない。
 美紅は大きく嘆息しつつ、記入し終わった掃除日誌とカバンを手にして再び教室を出た。
 職員室までの足が、こんなに重いなんて。
 すれ違うクラスメートに愛想笑いしながら軽く挨拶を交わし、美紅は何度目か分からない溜め息をつく。
 そして、ついに職員室に到着した。
 担任教師の机の上に掃除日誌を提出してから、美紅はきょろきょろと周囲を見回す。
 だが、自分を呼び出した遥河の姿は見当たらなかった。
 美紅は首を捻りながらも、遥河の席に近づく。
 人を呼び出しておいて、あいつはどこにいるんだ。
 このまま、もういっそのこと帰ってしまおうか。
 そう思った――その時だった。
「……!」
 遥河の机までやってきた美紅は、何かを見つけて瞳を見開く。
 そして、机の上に置かれてあった1枚の紙を手に取った。
 それに書かれていたのは。
『1年Aクラス、椎名美紅。英語準備室に来い』
「なら、最初から英語準備室って言えっての……っ!」
 わざわざ嫌みったらしく極太のペンで書いてある手紙をグシャッと握り締め、美紅はそれをゴミ箱に叩き込む。
 そして職員室を出て、指定された英語準備室へと向かった。
 美紅は込み上げてくる怒りを抑えきれず、階段を駆け上がる。
 絶対に嫌がらせだ、わざとに決まっている。
 何せ職員室と英語準備室は、学校の端と端にあるのだ。
 1年Aクラスからだったら、こんなに遠回りせずに済んだのに。
 英語準備室のある別棟へ続く渡り廊下をズンズンと進んでから、美紅は遥河がいるだろう英語準備室の前までやって来た。
 そして、ガンガンと乱暴にノックして勢いよくドアを開ける。
「どーいうことよっ、用があるならアンタが来いってのっ!」
 乱れる息を整えることもせず、美紅は教室内にいた遥河に第一声そう言い放った。
 遥河は机に頬杖をつき、ふわっと大きくあくびをする。
 そして、ニッと口元に笑みを浮かべて言ったのだった。
「遅せーな、おい。待ちくたびれて寝そうだったぞ」
「何よっ、アンタがあっちこっち行かせたんじゃないっ。最初から英語準備室って言えばいいでしょ!?」
 そんな美紅の言葉に、遥河は悪戯っぽく笑う。
 それから美紅を自分の目の前の席に促した後、こう口を開いたのだった。
「ここに座れ。ていうか、おまえに英語準備室に来いって言えって、クラスメートに言ってよかったのか? ふたりでこんな離れの準備室にいるなんて、おまえと早瀬のようなアヤシイ関係だと誤解されるぞ? いいのかよ」
「……えっ!?」
 遥河のその言葉に、美紅は驚いた表情を浮かべる。
 今、『おまえと早瀬みたいなアヤシイ関係』って。
 確かに遥河はそう言った。
 どうして……。
「どうして、早瀬先生と私のこと知ってるのよ!?」
 動揺する美紅の様子に漆黒の瞳を細め、遥河はもう一度自分の目の前の椅子を指差す。
「そこに座れって言ってんだろ、椎名美紅」
 美紅は信じられないような表情のまま、取りあえず言われた通りに席に座った。
 美紅が席に着いたのを確認して、遥河はその顔に再び笑みを宿す。
 そして、真っ直ぐに美紅に視線を向けて言ったのだった。
「俺はな、おまえのことなら何でも知ってるんだよ」
 自分だけを映す、遥河の神秘的な両の目。
 美紅は一瞬ドキッとしながらも、その気持ちを誤魔化すようにふいっと彼から目を逸らす。
 遥河はそんな美紅の様子を見た後、さらに言葉を続けた。
「もちろん、こんなことも知ってるぜ? おまえが学園長のお嬢だってこともな」
「なっ!?」
 美紅は再び顔を上げて、遥河を見る。
 何で知られたくないことを、こんなにこいつは知っているんだろうか。
 そう思いながらも、美紅は唖然として何も言えないでいた。
 遥河はおもむろに席を立ち、美紅の座っている席の真横まで来て口を開く。
「それで、今日何でここにおまえを呼んだかと言うとだ。喜べ、おまえにとっていい話があるんだよ」
「いい話?」
 自分の横に立つ遥河に視線を向け、美紅は怪訝な顔をした。
 絶対にろくな話じゃないに決まっている。
 嫌な予感を感じながら、美紅は遥河の次の言葉を待った。
 遥河はニッと笑うと、こう美紅に言ったのだった。
「毎週火曜と金曜の放課後、ここに来い。この俺様が、マンツーマンで直々に英語を教えてやる」
「……は!?」
 美紅は思い切り顔を顰め、眉間にしわを寄せる。
 そしてわざとらしく大きく嘆息し、キッと遥河を睨み付けた。
「絶対イヤよっ、冗談じゃない。それのどこがいい話なのよ」
「あ、そう。ならいいんだぜ」
 そう言って遥河は、おもむろに胸ポケットからあるものを取り出す。
 それから、それを美紅の目の前で左右に揺らした。
「おまえが承諾しないってなら、これを早瀬に渡す。椎名美紅が俺んちに忘れてったから、返しといてくれないかって言ってな」
「なっ、何でっ!? 何でアンタがそれ持ってるのよっ!?」
 美紅は遥河の持ってるそれを見て、思わずそう声を上げる。
 遥河の持っていたものは、美紅愛用のシャープペンシルだったのだ。
 失くしたと思っていたのに、どうして遥河が。
 慌ててシャーペンを取り返そうとした美紅の手をひょいっと避け、遥河は笑う。
「あ? おまえが夏休み、図書館に忘れてったんだろーが。それをわざわざこの俺が預かっといてやったんだよ、全力で感謝しろ」
「じゃあ、さっさと返してよっ!」
「おまえがさっき俺の言ったことを承諾すればな。おまえにとっても、悪い話じゃないだろ?」
「…………」
 美紅は遥河に鋭い視線を向けながらも、考える仕草をした。
 お気に入りのシャーペンのことはともかく。
 それを恋人であるプリンス・早瀬に、誤解されるような返され方をされてはたまらない。
 こんなヤツのためにふたりの幸せが壊されるなんて、冗談じゃないから。
 美紅はふうっとひとつ溜め息をついた後、遥河に訊いた。
「ていうか、何で私に英語を教えようとしたりすんのよ?」
 美紅の問いに、遥河はニッと笑う。
 そして、漆黒の瞳を細めて答えたのだった。
「この俺はな、教師の鑑だ。バカの方が教え甲斐あるだろーが。要するに、俺の自己満足」
「ちょっとっ、誰がバカよっ!?」
「実力テストで35点しか取れないヤツが、違うってのか?」
「苦手なのは英語だけよ、あとはそんなに悪くないんだからっ」
「他の教科のことなんて知らねーよ。俺は英語教師なんだからな」
 すかさずそう言葉を返され、美紅は言葉に詰まる。
 確かに英語の成績だけ見れば、学年でも下から数えた方が断然早い。
 秋華女子は女子高ということもあり、学校自体が文系寄りで英語が得意な生徒が多いのだった。
 そんな中で、極端に英語が苦手な美紅の点数はより目立っていたのである。
 それにしても、どうして自分がこいつの自己満足に付き合わなければいけないのか。
 美紅は何も言い返せないながらも、納得いかないように遥河を睨む。
 遥河はそんな美紅の様子にも構わず、言葉を続けた。
「おまえが俺の言うことを聞けば、早瀬とのことも学園長のお嬢ってことも黙っといてやる。どうだ、承諾する気になったか?」
 これだけ弱みを握られているからには、もう頷くしかない。
 美紅は気に食わない表情を浮かべながらも、渋々遥河の言うことに承知した。
「……分かったわよ」
 美紅の返事を聞いて、遥河は満足そうに瞳を細める。
 それから元座っていた席に戻ると、数枚のプリントを取り出した。
「んじゃ、契約成立だな。ていうか、おまえの英語力は半端なく壊滅的だ。これからビシバシ鍛えてやるから覚悟しとけ。今から早速学力テストをする、筆記用具出せ」
「は!? 今から!?」
「当たり前だ、今日は金曜だろーが。それにおまえの英語力は、遅れてるって程度の生半可なもんじゃないからな。とりあえず今日は、このテストでどれだけおまえの英語力が有り得ないか確認する。分かったらさっさと筆記用具出せ。時間は90分だ」
 そう言って、遥河は問題用紙と解答用紙を美紅に手渡す。
 美紅は乱暴にテスト用紙を受け取り、シャーペンを握り締める。
 有り得ないとか壊滅的とか、いちいち嫌みったらしいったらありゃしない。
 ていうか、契約というよりもこれは脅しじゃないか。
 そう思いながらも、美紅は仕方なく英語の問題に取り掛かった。
 遥河はちらりと時計を見た後、問題に四苦八苦している美紅に漆黒の瞳を向ける。
 そして、ふっとその口元に笑みを宿したのだった。