02. 戦いの火蓋
「最悪だ……」
2学期が始まって、数日。
少しザワついた教室で、思わず美紅はそう呟いてしまった。
そんな彼女の手に握られているのは、1枚の紙。
先日行われた、夏休み明け実力テストの答案が返って来たのである。
しかも教科は、美紅の苦手な英語。
「美紅、どうだった? って、聞くまでもないみたいね」
表情の冴えない美紅の様子に、友人の葵は苦笑した。
美紅ははあっと大きく嘆息してから、半ばヤケになったように葵に答案を見せる。
「見てよコレ。もう自分でも有り得ないよ……夏休み、英語頑張ったんだけどなぁ」
その答案にしっかりと書かれた点数、35点に美紅はガクリと肩を落とした。
「でも美紅、ほかの教科は全部80点以上だったんでしょ? それに美紅が英語悪いのはいつものことだし」
「……慰めになってないんですけど、それ」
あまりにもショックを隠しきれない顔をしている美紅にフォローを入れた葵だったが、逆効果のようである。
「ていうか、勿体無いよねぇ。英語がせめて平均点くらいあれば、上位者に余裕で名前乗るってのにね」
葵はもう下手に慰めるのを止め、しみじみとそう言った。
美紅ははあっと大きく息を吐き、机に頬杖をつく。
今まで赤点を取っていたこともあった英語が、夏休み少し勉強しただけでグンと点数が上がるとは、美紅自身もさすがに思ってはいなかったが。
でも夏休みは、あんなに英語に力を入れて勉強したはずなのに。
その成果もなく普段と全く変わらない点数に、美紅は現実の厳しさを思い知らされる。
しかもその35点だって、勘で記号を選んだものがたまたま正解だったものもあって。
すなわち、本当の実力は35点以下だということなのだ。
そんなに簡単に、すぐ苦手教科が克服できるとは思っていない。
苦手と言っても、そのレベルも著しく低いものであることくらい自分で分かっている。
得意な数学が80点であっても、ショックだけど。
英語に関しては、全然そんな贅沢なんて言わない。
むしろ英語で50点取れてたりなんてしたら、泣いて喜んだだろう。
だが実際は、夏休み前とそう変わらない35点。
美紅は35点の答案を早々にカバンにしまい、再び深々と嘆息した。
しかも、答案が返ってきただけでもブルーなのに。
「おい、静かにしろ。授業始めるぞ」
教壇に立っている教師は、まだザワザワしている生徒達にそう言った。
その教師は言うまでもなく。
――あの、遥河俊介である。
最悪だ、本当に最悪。
美紅は眉を顰め、教壇の遥河を睨むように見た。
『秋華のプリンス』と言われている早瀬とは、全く印象の違う雰囲気を持つ遥河であるが。
端正でクールなその容姿に、生徒たちが騒がないわけがなかった。
どこがいいんだ、あんなヤツ。
うっとりと遥河を見つめて一生懸命授業を聞いている同級生たちに、美紅は呆れたように溜め息をつく。
確かに、ちょっとだけ顔はいいかもしれない。
でもその中身は最悪だ。
口も悪いし、人を小馬鹿にしたあの態度。
美紅は遥河の今までの言動を思い出してムカムカしながらも、英語の問題集を開く。
――その時だった。
美紅は教壇の遥河と、バッチリ目が合ってしまったのだった。
何か、めちゃめちゃ嫌な予感がする……。
美紅は眉間にしわを寄せながら、そう直感的に感じる。
そしてそれは、現実のものになったのだった。
「んじゃ、17ページの応用B長文問題。椎名、黒板に答え書け」
ニッと口元に笑みを浮かべ、遥河は美紅を指名する。
美紅はいきなり当てられて驚いた顔をしたが、仕方なく席を立って黒板に向かった。
それからキッと遥河を睨みつけ、チョークを握る。
そして、当てられた英文を黒板に書き始めた。
その問題は難易度の高いもので、テストが35点だった美紅には到底解けないレベルのものであったが。
事前に英語の得意な葵に答えを見せて貰っていたので、何とか助かった。
それよりも、きっと美紅が解けないだろうと踏んで、遥河はわざと指名したのだろう。
遥河のそんな考えが分かった美紅は、ガッガッと派手な音を立て強い筆圧で黒板に英文を書いていく。
ある意味すごい勢いで黒板に書かれていく解答をじっと見ていた遥河は、ふっとひとつ息をついた。
そして、美紅にしか聞こえない小声でこう言ったのだった。
「よかったな、英語得意な友達に答え教えて貰っててよ。あの壊滅的な英語力じゃ、こんな問題解けるワケないからな」
「な……っ」
美紅はカアッと顔を赤らめ、思わず手を止める。
そんな彼女の様子に、遥河はニヤリと笑った。
……その憎々しい横っ面を、今ここでグーで思いっきり殴ってやりたい。
懸命にそんな衝動を抑えながらも、美紅は何とか英文を書き終わる。
そして鋭い視線を投げてから、ズカスカと自分の席に戻った。
遥河は美紅を見てふっと笑みを浮かべると、何事もなかったような涼しい顔をして問題の解説を始める。
その態度がまた、憎々しい。
英語は苦手な美紅だが、嫌いな教科ではないのに。
このままだと、遥河のせいで嫌いになってしまいそうだ。
美紅は渋々遥河の解説をノートに取りながらも、ますます憂鬱な気持ちになったのだった。
――その日の、放課後。
職員室で仕事をしていた美紅の恋人・早瀬は、人の気配を感じてふと視線を上げる。
「早瀬先生。話があるんですけど、お時間よろしいですか?」
顔を上げたと同時に自分に掛けられたその声に、早瀬は少し表情を変えた。
だが、すぐに微笑みを作って相手に向ける。
「ええ。構いませんよ、遥河先生。ここでは何なので、小会議室に移動しましょうか」
椅子から立ち上がり、早瀬は遥河の言葉にそう答えた。
そしてふたりは職員室を出ると、小会議室に入って行ったのだった。
……その頃。
「あ、そうそう! ねぇ美紅、知ってた!?」
1年Aクラスの教室で、葵は突然美紅にそう訊いた。
主語のない葵の問いに、美紅はきょとんとして彼女に訊き返す。
「知ってるって、何を?」
「何をって、遥河ちゃんと秋華のプリンスのことよーっ」
「てか、遥河ちゃんって一体誰よ」
気に食わない顔をして、美紅は大きく嘆息する。
何故か生徒たちは、こともあろうにあの最悪教師を「ちゃん」付けし始めたのである。
頭にくる遥河の話題に顔を顰めた美紅だったが、すぐに葵に目を向けた。
「それよりも、早瀬先生がどうしたの?」
遥河のことは癇に障るが、葵の話は恋人の早瀬にも何か関係するものらしい。
小首を傾げる美紅に、葵は少し興奮したようにこう言ったのだった。
「それがさ、遥河ちゃんとプリンス、同い年の幼馴染みらしいよ? しかもふたりの出身校って、あの超エリート学校の慶城高校なんだって。それに遥河ちゃんって、うちの学校来る前はその慶城の教師してたんだってよ! 顔もハンサムだけど、すっごい頭もいいんだねーっ」
「顔がハンサム? 誰が?」
冷たくそうツッこみ、美紅は深々と息を吐く。
驚くかと思っていた美紅の意外な薄い反応に、葵はうーんと首を捻る。
それから葵は、続けて美紅に小声でこう訊いたのだった。
「ていうか美紅。今までプリンスに、遥河ちゃんのこと何も聞いてなかったの?」
「……え?」
葵のその言葉に美紅は考える仕草をする。
恋人である早瀬と美紅は、2学期に入ってからも何度もデートを重ねていた。
だが考えてみれば、彼から遥河の話は一度も聞いたことがない。
とは言っても、別に不自然なことなんて何もないのだが。
大好きな恋人と一緒の時に、美紅はわざわざ気に食わない遥河のことなんて話したくなかった。
彼だって、プライベートで同僚の話をしたくなかったのかもしれない。
そう思った美紅は、冷めたように葵に言葉を返す。
「幼馴染みっていうか、ただ学校が同じなだけでしょ? 別にどうってこともないわよ」
「ま、そう言われればそうかもなんだけどさぁ」
興味なさそうな美紅に小さく頷いて、葵はもう一度首を傾げる。
美紅は葵の様子をちらりと見てから帰り支度をしながらも、何度目か分からない溜め息をついた。
それにしても、何と情報の早いことか。
恋人の早瀬の出身校は当然知っていた美紅だったが、遥河のことは初めて聞いた。
それよりも、どこで誰がそんなことを調べてきたのだろうか。
つくづく女子校の情報網の凄さに嫌気がさしながらも、美紅は気持ちを引き締める。
自分達の交際のことがバレたら、あっという間に広がってネタにされるだろう。
幸せなふたりの関係も、崩れてしまうかもしれない。
学校での言動には気をつけないといけないと改めて思いながらも、美紅はカバンをパタンと閉めたのだった。
――その頃、小会議室では。
「何か僕に用ですか? 遥河先生」
相変わらず穏やかな声で、『秋華のプリンス』こと早瀬は訊いた。
遥河は漆黒の瞳を早瀬に向けると、わざとらしく嘆息する。
そして、こう切り出したのだった。
「おまえ、その気持ち悪い喋り方と作り笑顔やめろ。鳥肌が立つ」
「遥河先生、僕に話って何でしょうか」
早瀬は穏やかな口調でもう一度そう言って、遥河に目を向ける。
そんな早瀬の様子に、遥河は顔を顰めた。
「ていうか、おまえと同じ部屋の空気を吸ってるってだけで不愉快だ。さっさと用件を言う」
遥河は漆黒の瞳を細め、ザッと同じ色の髪をかき上げる。
それから声のトーンを落とし、ゆっくりとこう早瀬に言ったのだった。
「おまえから、椎名美紅のことを奪ってやる。覚悟しとけ」
「…………」
遥河の言葉に、初めて早瀬は表情を変える。
しかしすぐさま、ふっと再びその顔に笑みを浮かべた。
……だが。
「それだよ、その人を見下したような表情。プリンスだなんて笑わせやがる、それがおまえの本性だろーが」
笑みは笑みでも、今までと全く印象の違う表情をしている早瀬に、遥河はチッと舌打ちする。
早瀬はふうっと溜め息をつくと、近くの壁に背を預けた。
そして、呆れたように口を開く。
「遥河、おまえって懲りないヤツだな。僕から美紅を奪うだって? そんなこと、百万年経ったっておまえなんかにできるわけないだろ? 相変わらず、身の程知らずもいいところだな」
その声は穏やかの欠片もなく、人を馬鹿にしたような響きさえ感じる。
遥河は、そんな早瀬に鋭い視線を向けた。
「あ? 百万年どころか、今年のクリスマスまでには絶対奪ってやる。後で泣く目を見るのはおまえだ、早瀬」
険しい表情をしている遥河とは逆に、早瀬は自信に満ち溢れた顔をしている。
「ふっ、馬鹿馬鹿しい。美紅はもうすっかり、心も身体も僕にベタ惚れだ。できるものならやってみればいいだろ? 君が惨めになるだけだよ」
プリンスと呼ばれる面影もない冷たい視線を向け、早瀬は鼻で笑った。
遥河はそんな早瀬の態度に眉を顰めながらも、言葉を続ける。
「ていうかおまえ、椎名美紅を利用して何しようと企んでんだ? 腹黒いおまえのことだ、打算もなくあいつに近づくわけないからな。あいつの父親は学園長だ、この学校の乗っ取りでも考えてるのかよ?」
「乗っ取り? 浅はかな考えだな、遥河。それに例え何かあったとしても、おまえなんかに教える義理なんてないし。それよりも余計なこと言い過ぎると、おまえの方が泣く目に遭うぞ?」
遥河の言葉を敢えて否定はせず、早瀬はそれだけ言うなり小会議室のドアを開ける。
そして、うって変わってにっこりと王子様のような作り笑顔を宿すと、遥河に言った。
「それでは、遥河先生。話も終わったようですので、失礼します」
わざとらしく丁寧に頭まで下げてから、早瀬は会議室を出てスタスタと廊下を歩き出す。
「チッ、いつ会ってもムカつくヤツだなっ。ていうか、レースに勝つのはこの俺だ」
遥河はその変わり身の早さに気に食わない表情を浮かべ、小さくなっていく早瀬の背中にそう吐き捨てる。
それから八つ当たりのようにガツンと近くの椅子を蹴飛ばした後、早瀬に遅れて小会議室を出たのだった。