01. TRAMP


 ――9月1日。
 楽しかった夏休みも終わりを告げ、どこの学校も今日は始業式である。
 それは、私立・秋華女子高等学校も同じだった。
 午前中で学校も終わり、その少女・椎名美紅(しいな・みく)は生徒の姿も疎らになり始めた廊下を歩いていた。
 スタンダードな紺のブレザーに、胸についた豪華なエンブレム。
 赤と紺のチェックのリボンとプリーツスカートの制服は、落ち着いた清楚なイメージを受ける。
 世間では『お嬢様学校』と言われているこの学校に、美紅は今年の春入学した。
 周囲のイメージ通り、確かにお金持ちなお嬢様も多いのだが。
 お嬢様学校という優美なイメージと、実際の校内の雰囲気は違うものなのだと美紅は強く感じていた。
 確かにパッと見た感じでは、一見平和そうである。
 だが、女の園で生きていく上で一番大切なこと。
 それは、『いかに目立たなく日々を過ごせるか』。
 派手な言動でもしようものなら、陰で何をされるか言われるか分かったものじゃない。
 それにウワサ話が広まるのも異様なくらいに早い。
 特に自分が被害に遭ったことはないのだが、美紅はそんな女だらけの園に少々うんざりしていた。
 何と言っても自分には、ウワサ好きなお嬢様の格好のネタがたくさんあるのだから。
 そのひとつが……。
「ねぇ、美紅。今日も学園長、すごくダンディーだったよねーっ」
 美紅の隣を歩いている友人・佐田葵(さた・あおい)は少し興奮気味にそう言った。
 美紅はそんな葵の言葉に、慌てた様に周囲を見回す。
「ちょっと、葵っ。あんた声が大きいってばっ」
 漆黒の瞳を何度も瞬きさせた後、美紅は周囲に人がいなかったことに胸を撫で下ろした。
 葵は暢気に笑いながらも、少し小声で言葉を続ける。
「いいなぁ、美紅。あんなダンディーで格好良いお父さんがいるなんて。声も渋いし、モロ好みだよ」
「あんたって、本当にオヤジ趣味よね」
 はあっと大きく嘆息しつつ、美紅は肩ほどまである黒髪はかき上げた。
 友人の葵もお気に入りの秋華女子高等学校の学園長こと、椎名和彦(しいな・かずひこ)。
 実は彼は、美紅の父親なのである。
 だが美紅はその事実を親友の葵にしか言っていなかった。
 きっと心無い同級生に知られたら、こう言われるに違いない。
 父親が学園長だから、優遇して学校に入れてもらったんだと。
 秋華女子は、そこそこ名門の進学校でもある。
 美紅は英語こそ苦手で壊滅的な成績ではあるが、あとの教科はどれも何気に成績優秀で。
 父親の権限で優遇されて入学したわけでは決してない。
 なので、事実と違うことでヒソヒソ陰口を叩かれるのが嫌なのだ。
「オヤジ趣味だなんて心外な。年上のオトナな人が好きなだけよ?」
 葵は美紅にそう反論した後、ニッと笑う。
 そして何かに気がつき、楽しそうにこう言ったのだった。
「美紅はミーハーで美形が大好きよね。何たって、ねぇっ」
 葵はふと言葉を切って顔を上げる。
 葵の様子に首を傾げながら、美紅も彼女の視線を追った。
 そんな、彼女たちの正面から歩いて来ているのは。
「あっ、早瀬先生」
 パッと表情を変え、美紅は思わずそう呟いてしまった。
 スラリとした体格に綺麗な顔。
 恋人である早瀬の姿を見つけ、美紅は自然と頬を緩ませる。
 葵はぽんっと美紅の肩を叩くと、くるりと回れ右をして手を振った。
「そうだ、私、事務室に行かなきゃいけなかったんだ。じゃあ美紅、またねっ」
「えっ? あ、葵!?」
 突然の葵の行動に、美紅は驚いた表情をする。
 葵は軽くウインクをした後、美紅を置いてタッタッとその場を去った。
 きっと葵は、気を使ってくれたのだろう。
 だが下手にふたりのところを誰かに見られでもしたら、大変だ。
 しかも早瀬はその王子様のような容姿から、『秋華のプリンス』と言われていて。
 ただでさえ若い男性がいない環境のため、彼に群がるファンは大勢いる。
 顔が格好良いということももちろんなのであるが、早瀬は穏やかで優しく、その顔から微笑みを絶やさない。
 そんな彼の物腰柔らかな雰囲気が、ますますお嬢様たちの心を掴んでいるのだった。
 だが美紅はそんなファンの生徒達を遠くから見ながらも、少し優越感も感じていた。
 何せ彼女らの憧れのプリンス・早瀬は、誰でもない自分の彼氏なのだから。
 しかし、ふたりの関係が公になるといろいろと問題がある。
 なので学校では、なるべく彼とは接点を持たないようにしている。
 とはいえ美紅のクラスの数学は彼が担当しているので、ごく自然に会話を交わすことはよくあった。
 そして今のところ周囲に気付かれることもなく、ふたりは順調に愛を育んでいるのだった。
「あ、椎名さん」
 美紅に気がついた早瀬が、彼女の名前を呼ぶ。
 嬉しそうににっこり微笑んだ後、美紅はペコリと一礼する。
 早瀬は彼女に笑顔を返した後、何気なく周囲に人がいないことを確認した。
 そして、彼女の耳元でこう言ったのだった。
「明日と明後日の実力テスト、頑張ってね。テスト終わったら、ふたりでデートしよう」
 午前中で学校は終わったとはいえ、明日から2日間は実力テストが実施される。
 そのため、生徒達は早々に帰宅していた。
 人のいない廊下で、美紅は耳をくすぐる彼の穏やかな声にドキドキしながらも大きく頷く。
 早瀬はそんな美紅の頭に軽く手を添えてにっこり笑ってから、再び廊下を歩き出した。
 彼の後姿を一瞬だけ振り返り、美紅も教室に向けて歩みを進める。
 彼と付き合いだしたのは、入学して2ヶ月ほど経った時だった。
 入学当初からよく質問に言ったり雑談を交わしたりと仲良くしていたし、美紅も格好良くて優しい早瀬のことが気になっていた。
 そんなある日、数学教室で彼に抱きしめられて。
 柔らかな声が耳に響いた。
『僕と君は教師と生徒だけど……でも僕は、君のことが好きなんだ』
 見た目スラリとしているように見える彼だが、その胸は思った以上に広くて大きくて。
 ふわりとあたたかな温もりが、全身を包み込む。
 この日から美紅と早瀬は、教師と生徒という関係だけでなく、恋人同士となったのだった。
 そしてそんな当時のことを思い出す美紅の顔は、自然とニヤケてしまっていた。
 付き合い出して、もうすぐ4ヶ月。
 まだまだふたりの仲は、ラブラブで幸せ真っ只中なのである。
 ――そんな幸せな思い出に浸っていた、その時。
 ふと美紅の前で、誰かの足音が止まった。
 美紅はようやく人の気配に気がつき、我に返って顔を上げる。
 そして。
「……えっ!?」
 次の瞬間、声を上げて驚いたように瞳を見開いてしまったのだった。
 その理由は。
「やっと見つけたぞ。1年Aクラス、椎名美紅」
 聞き覚えのある声と顔。
 いや、忘れたくても忘れられない。
 だって、こいつは……。
「なっ、何でアンタがここにいるのよっ!?」
 美紅の目の前に立っていたのは、紛れもなく。
 夏休みに図書館で会った、最悪男だったのだ。
 漆黒の髪をザッとかき上げた後、その男は再び口を開いた。
「おまえな、教師にアンタはないんじゃねーか?」
「は!? ちょっとアンタ、教師ってっ」
 ニッと口元を上げ、男は美紅の反応に楽しそうに笑う。
「アンタじゃねーよ、遥河俊輔(はるか・しゅんすけ)だ。今日から、この学校の教師だよ」
 美紅は遥河と名乗った男を見て、唖然とする。
 この最悪男が教師!?
 美紅は思わず、軽い眩暈さえ覚えてしまった。
 そして、その上。
 遥河はさらに美紅にとって信じられないことを言い出したのだった。
「おまえのクラスの英語担当って、確か山岡先生だったよな」
「それがどうしたのよ」
 確かに、美紅のクラスの英語は山岡という若い女の先生である。
 わざと無愛想に答えて、美紅は遥河から視線を逸らした。
 遥河はそんな美紅の様子にもお構いなしで話を続ける。
「その山岡先生って、春に結婚したんだろ? 本当は3月までは仕事続けるみたいだったけど、子供ができた上に体調悪くて、今自宅安静なんだと。んで、急なことでまだ生徒には言ってないみたいだけど、急遽もう退職したんだ。それで、この俺がその山岡先生の後任ってワケだよ」
 それから遙河は、ふっと笑みを浮かべる。
 そして、こう言ったのだった。
「てなわけで、俺が2学期からおまえのクラスを教えるってことだ。楽しみにしとけよ?」
「え……ええっ!?」
 美紅は、急激に血の気が引いていくのを感じる。
 何で、この最悪男の授業なんて受けなきゃいけないんだ。
 しかもよりによって、自分の苦手な英語。
 目の前が真っ暗になるような感覚に、美紅は頭を抱える。
 こんなの嘘だ、嘘だと言ってくれ。
 また語学留学の夢が、遠ざかっていく気がした。
 呆然としている美紅とは逆に、遥河は楽しそうに彼女の様子を見ている。
 そして満足そうに、神秘的な漆黒の瞳を細めたのだった。