**. プロローグ


 ――夏休みも残り僅かの、蒸し暑い夏の日。
 ジリジリと照りつける太陽の下、私は白のスカイラインを降りた。
「行ってらっしゃい、美紅(みく)。仕事が終わったら、連絡するから」
 私を送り出す、優しくて柔らかな印象の声。
 私はコクンと頷き、運転席の恋人に微笑みを返した。
 彼の名前は、早瀬歩(はやせ・あゆむ)。
 雪のような真っ白な肌にサラサラの薄茶色の髪。
 くっきりとした二重に大きな瞳、睫毛も驚くほど長い。
 まるで、お人形のような綺麗な顔。
 そんな王子様のような彼が、この私の自慢の彼氏なのである。
 そして。
「うんっ、早瀬先生も行ってらっしゃい」
 小さく彼に手を振り、私はパタンとスカイラインのドアを閉める。
 ……そう。
 彼は恋人であると同時に、私の高校の数学教師でもあるのだった。
 もちろん学校には内緒で付き合っている。
 そんな秘密の恋人というのが、また何ともドキドキするもので。
 私は大人で格好良くて優しい彼と、毎日密かに恋を育みながら充実した毎日を送っていた。
 自分で言うのは何だけど、今めちゃめちゃ幸せ。
 いわゆる、ラブラブ状態なのだ。
 彼は運転席で軽く手を上げると、ゆっくりと車を走らせ始めた。
 私は小さくなる白のスカイラインを見送ってから、ムッと熱気の立ち込めるアスファルトの上を歩く。
 さっきまでクーラーの効いてる車内にいたためか、少し歩いただけでじわりと汗が出てくる。
 夏は嫌いな季節ではないけど、どちらかと言えば冬の方が好きだ。
 私は耳につくセミの声に少しだけ顔を顰めてから、足早に目の前の建物に足を踏み入れた。
 うるさくて暑い外とは違い、建物の中はシンと静まり返っている。
 それもそのはず、 ここは街の図書館なのだから。
 私はきょろきょろと周囲を見回し、かろうじて空いていた隅っこの机に座る。
 そしてバッグから英語の参考書を取り出して広げた。
 よーし、やるぞっ。
 グッと気合を入れるように小さく拳を握り締め、私はシャープペンシルをカチカチ鳴らす。
 図書館に来た目的は、涼しくて静かな環境で勉強するため。
 そしてそんな私には、夢がある。
 アメリカに語学留学すること。
 正直言って、英語は少し……いや、かなり苦手教科だし。
 しかも留学したいと思ったのも、実は昨日からなんだけど。
 昨日テレビで、語学留学して英語をマスターし、世界相手に仕事している女の人の特番があってて。
 そんな姿がめちゃめちゃすごく格好良くて、私もああなりたいって思ったんだ。
 まだ高校1年だし、今からバリバリやればイケそうな気がする。
 まずは何事も、初めの一歩が大切よね。
 テレビの女の人だって学生時代は英語得意じゃなかったって言ってたし。
 私は買ったばかりの真新しい参考書のメージをめくって、早速張り切って問題に向かったのだった。



 ――それから、数分後。
(……ていうか、全然分かんないんだけど)
 はあっと大きく溜め息をつき、私はシャーペンを放り投げるように置く。
 そして貴重品だけ持って、気分転換でもしようと席を離れた。
 自分が英語がすごく苦手だってことは分かってたけど。
 何だかもしかして……留学への道は、結構遠いかもしれない。
 私は嘆息してから、気を取り直してある本棚の前で足を止める。
 いやいや、もう諦めてどうする、私。
 今から頑張ればきっと間に合う。
 そう思い直し、私はズラリと本の並ぶ棚に目を移して一冊の本を手に取った。
 それは、『留学ガイドブック』という分厚い本だった。
 この本を読んで、士気を高めよう。
 そしたら、効率もグングン上がるかもしれない。
 私はひとつ大きく頷いてから、元の席に戻る。
 ……その時だった。
「あれ?」
 私は思わず、ピタリとその場に足を止めてしまった。
 さっきまで私が座っていた席の前に、人が立っていたのだ。
 年は二十代半ばくらいだろうか。
 黒髪と同じ色の瞳が印象的な、男の人。
 彼氏である早瀬先生も王子様のような綺麗な顔をしているが、その男の人は先生とはまた全然違った印象を受ける、端正な容姿をしている。
 席を間違ったんだろうか。
 私は首を傾げつつも、数歩男の人に近づく。
 そして、チラリと机の上に広げてある参考書を確認した。
 いや、間違いなく私の座っていた席だ。
 私の荷物の置いてある席の前で、何してるんだろうか?
 私は瞳をぱちくりさせながら、男の人に視線を向けた。
 ――その時だった。
 ふっと、男の人の漆黒の瞳が私の姿を捉える。
 神秘的な印象の目元が魅力的で、私は思わずドキッとしてしまった。
 ……だがこの数秒後、私は一瞬でも胸をトキめかせたことをひどく後悔することになるのだった。
 男の人は、机の上に広げてある参考書をおもむろ手にとってじろじろと眺める。
 そして、こう言いやがったのだった。
「何だぁ? この答え、一体何語だよ。ヤバいくらい壊滅的な英語力だな、おい」
「……は?」
 私はそいつの口から出た言葉に、眉を顰める。
 何なんだ、この男は。
 ていうか、何て失礼なヤツっ!
 男はそんな私の様子にも構わず、さらに続ける。
「おまえ、まさかこんな破滅的な英語力で留学しようとしてんのか? 身の程知らずもここまでひどいと、ある意味天晴れだな」
 チラリと私の持っている『留学ガイドブック』を見て、男は呆れたようにわざとらしく嘆息した。
 何なの、一体!?
 どうして見も知らずの人に、そんなこと言われないといけないのよ。
「なっ……放っといてよっ!」
 私は男から参考書を奪うように取り上げる。
 何かめちゃめちゃムカつくんですけど、こいつ!
 ていうか、誰よ!?
 じろっと睨む私に、男はニッとイヤな笑みを浮かべる。
 そして、小馬鹿にしたように言ったのだった。
「ま、留学って言ってもこんな英語力じゃ、駅前留学しかできないだろーけどな」
 ――私の頭の中で、プチンと何かが切れる音がした。
 その、次の瞬間。
「! いてっ!」
 バコーンッという豪快な音と、ムカつくその男の声が同時に館内に響いた。
 周囲の人がみんな一斉に、何事かと私たちに視線を向ける。
 だがその時の私は、怒り心頭でそんな視線なんてどうでもよかった。
 ていうか、ざまぁみろだわ。
 私は思いっきりそいつの顔目掛け、持っていた『留学ガイドブック』を叩きつけてやったのだった。
 男は思わぬ衝撃に一瞬言葉を失っていたが、殴られた頬に手を添えて漆黒の瞳を細める。
 そして、さらにこんなことを抜かしやがった。
「おまえな、俺様の家宝に何てことしやがるっ」
 はあ? もしかして家宝って、顔のことかよ。
 ああ、どこまで最悪な男なんだ。
 私はあからさまに男の言葉を無視して顔を逸らし、英語の参考書を無造作にバッグにしまう。
 そしてキッとそいつに鋭い視線を向けてから、スタスタと図書館を出たのだった。



「あーもうっ、ムカつくっ!」
 外に出た瞬間感じるムッとする熱気よりも、私の脳内は怒りで沸騰しそうだった。
 私は腹立たしさを隠しきれず、ズンズンと大袈裟に足音を立てながら街を歩く。
 せっかく、輝かしい夢への第一歩を踏み出そうとしてたっていうのに。
 あのムカつく男のせいで台無しだ。
 まぁ……確かに、英語はめちゃめちゃ苦手教科なんだけど。
 ああいう言い方しなくてもいいじゃない。
 ていうか、全然知りもしないヤツに言われたくない。
 何だったんだ、一体。
 でもアイツのムカつく顔をガツンと殴ってやったのは、気持ちが良かった。
 家宝だか何だか知らないけど、ざまぁみろだわ。
 それにあんな最低男の邪魔くらいで、夢を諦めるような私じゃない。
 あいつのことなんて忘れて、家で勉強の続きしよう。
 私は気を取り直し、駅に向かって歩みを進めた。
「あ、早瀬先生にメールしとこうっと」
 携帯電話を取り出して、私は愛しの早瀬先生にメールを打ち始める。
 同じ男でも、優しい早瀬先生と最悪なあいつじゃ天と地の差だ。
 王子様のような上品な恋人の顔を思い出し、私はふと頬を緩める。
 もう二度とあのムカつく男とは会わないだろうし。
 イヤなことは忘れよう、うん。
 私は打ち終わったメールを早瀬先生に送信した後、気を取り直してそっと前髪をかきあげる。
 そして、目の前に見える地下鉄の階段をタッタッと駆け下りた。


 だが……まさか、この時。
 すでに壮絶なレースが始まっていたなんて、私は全く知る由もなかったのだった。