SCENE8 眩しいサイン

 ――AM5:00。
「じゃあね、先生。また、昼過ぎくらいには先生の家に行くから」
 楽しかったドライブも、もう終わり。
 先生の青のフェラーリは今、私の家の前で止まっている。
 私はシートベルトを外して窓の外に視線を向け、朝日の眩しさに思わず目を細めた。
 もうすっかり太陽も顔を出して、世界をジリジリと照らしている。
 今日も、とてもいい天気みたい。
 私は助手席のドアを開ける前に、もう一度隣の大河内先生に視線を向ける。
 その時、私は思わずドキッとしてしまった。
 先生の綺麗な漆黒の瞳が……私だけを、じっと優しく見つめていてくれていたから。
「先生、ありがとう。朝までずっと付き合わせちゃって、ごめんね……」
 散々振り回して迷惑かけたのに、先生は最後まで私のことを見守っていてくれている。
 先生がいてくれて、本当によかったって思う。
 私はそんな先生に、何かしてあげられているんだろうか。
 そう思って俯いてしまった私に、大河内先生はふっと腕を伸ばす。
 そしてわざとぐしゃぐしゃ乱暴に私の頭を撫でた後、ニッと悪戯っぽく笑った。
「ごめんじゃねーって言ってんだろ? 俺が、朝まで付き合うって言ったんだからな。ていうか今日の晩飯、うまいカレー作ってくれるんだろ? カレーのためなら、このくらい何てことねーよ」
 ……先生のこんな優しさが、すごく嬉しい。
 大河内先生の気持ちに応えるため、私も俯いてなんていられないよ。
 私は気を取り直して顔を上げ、こくんと大きく頷いた。
「ふふ、じゃあ今日はいつもより頑張って美味しく作るよ。あ、でもニンジンはいつも通りいれるからね」
「げっ、いつも通りかよっ。あーていうか、何でカレーにニンジンなんて入ってるんだ? カレーの美味さが台無しだよ、まったく」
「そんなことないよ、ニンジン入れるから美味しいんじゃない」
 ブツブツとニンジンに対して不満を言う先生の姿が、何だか妙に可笑い。
 私はまた、思わずくすくすと笑ってしまった。
「あ? 何でおまえ、ニンジンなんかの肩持ってんだよ」
 先生はニンジンを庇う私の言葉に、さらに不服そうに漆黒の前髪をかき上げる。
 本当にもう、こういうところが子供っぽいんだから。
 でも、先生のそんなところも……大好き。
 大河内先生はそれから、乱れた私の黒髪をそっと撫でて整える。
 そしてぽんっと私の頭に手を添えると、ふっと瞳を細めて言った。
「もう、大丈夫だな」
 優しく響く、先生の声。
 私をふわりと包んでくれるような、大人なあたたかさ。
 大河内先生のこういうところも、私は大好きだ。
 私は先生の言葉に、こくんと頷く。
 本当は、先生とずっとずっと一緒にいたいけど。
 でも……もう、大丈夫。
 先生が、朝まで私の隣にいてくれたから。
 私はふと、長いようで短かった真夏の夜のいろいろな出来事を思い出す。
 何だかすごく不思議で、幸せな時間だった。
 真夏の夜の夢のような……魔法のかかったような、そんな時間。
 そして先生と過ごした楽しい思い出に浸った瞬間、途端に視界がぼやけた。
 私は瞳に溜まった涙が流れないように、ぐっと我慢する。
 こんなに幸せなのに、何で泣くんだろう、私。
 いや……幸せだからこそ、涙が溢れてくるのかもしれない。
 大河内先生はそんな涙を堪える私の様子に気がつき、笑った。
 そして、いつもの台詞。
「本当におまえは、すぐ泣くんだからよ」
 そう言って先生は、おもむろに私の身体をぐいっと自分の胸に引き寄せる。
 それから、宥めるように優しく頭を撫でてくれた。
 先生の大きな手にこうやって撫でられていると、何だか不思議と心地よくてすごく落ち着く。
 私の身体を受け止めてくれるその胸は、思った以上に広くて。
 そして……すごく、あったかいんだ。
 先生のぬくもりを感じた途端、私の瞳からは自然と涙がぽろぽろと零れていた。
 離れたくないっていう、寂しい気持ちもあるけど。
 でもこの涙は、そんな悲しい時に流れる涙じゃない。
 先生のあったかさが私の心に春を運び、冷たい雪をじわりと溶かしてくれている。
 きっと、今流れているこの涙は……そんな、雪解けのような涙。
「那奈」
 先生が、耳元で私の名前を呼んだ。
 それと同時にふっと吹きかかる吐息を感じ、思わず背筋がぞくりとする。
 ドキドキと胸がその鼓動を早め、カアッと身体が熱くなる。
 先生はそんな顔が真っ赤になってしまった私を力強く抱きしめ、そして言ったのだった。
「おまえのこと、愛してるからな……好きだよ、那奈」
 真っ直ぐ私を見つめる先生の目は、闇のように深い黒を湛えているけど。
 その漆黒の瞳には、一点の曇りもなかった。
 そして何度聞いても、毎日聞いても、この言葉は飽きることはない。
 恋人たちにとって、それは月並みな言葉だけど。
 でも……何よりも変えがたい、愛の呪文。
「大河内先生、私も大好きだよ。先生のこと、愛してる」
 首に腕を回して、私はぎゅっと先生に抱きつく。
 先生もそれに応えるように、私のことを強く抱きしめ返してくれた。
 ――そして。
 私たちは、同時に瞳を閉じる。
 愛の呪文を唱えた魔法使いが、魔法をかけてくれる瞬間。
 キスという名の――幸せの、魔法を。
 唇が触れる瞬間、気持ちが溢れ出して止まらなくなる。
 幾重にも重なる先生の唇は、先生自身みたいにとても優しくて。
 柔らかいそのキスは、溶けちゃうように甘い。
 私はそんな先生の口づけを受け止めながら、こう改めて強く思うのだった。
 大河内先生、大好き。
 大好きだよ……。
 私たちはゆっくりと名残惜しいように唇を離すと、微笑みを浮かべた。
 私はいつも何だかこの時が、一番照れくさくて。
 耳まで真っ赤になって、俯いてしまうのだった。
 そんな火照って紅潮した私の頬に、先生はスッと大きな手を添える。
 そして、こう言ったのだった。
「じゃあ、またな。おやすみ、那奈」
「先生……うん、おやすみなさい」
 もう朝になったから、帰らないと。
 先生と分かれるのは、寂しいけど。
 でも、先生の誠意に私も報いないと。
 私は小さく頷いて助手席のドアを開け、それから笑った。
「でも朝なのにおやすみだなんて、何だか妙な感じね」
「だって、おはようじゃないだろう? ていうか、ややこしいな……」
 うーんと考える仕草をして、大河内先生は漆黒の前髪をかき上げる。
 それから髪と同じ色を湛える瞳をふっと細め、こう言ったのだった。
「ややこしいから、やっぱりこうだな……愛してるぜ、那奈」
 先生の言葉に、私も大きく頷く。
 そしてもう一度、先生の胸の中に身体を預けた。
「私も。私も、愛してるよ」
 先生はポンポンッと私の背中を優しく叩いた後、ふと私に綺麗な瞳を向ける。
 それから私たちは、もう何度目か分からない、羽のように軽いキスを交わしたのだった。
 そしてそのキスが――真夜中のドライブの、最後の魔法だった。


      *   *


 家に帰った私は、玄関まで駆けつけた愛犬のトトを撫でて抱き、リビングへと足を向ける。
 まだ、パパは帰ってきてはいない。
 でも私の中には、もうパパに対しての怒りの気持ちはなかった。
 確かに約束を破られたことはショックだったけど、でも私も感情的になって怒鳴ってしまった。
 パパが帰ってきたら、謝ろう……。
 私はリビングでパパを待っていようと思い、とりあえずカーテンを開けた。
 眩しい朝日が急に目の前に姿を現し、その光に私は瞳を細める。
 太陽の眩しいサインが、先生とのドライブの終わりを告げたけど。
 それは同時に、次のステップへと続く、始まりのサインでもあるのだろう。
 まず私は、パパに怒鳴ったことを謝ることから始めなきゃ。
 誕生日を覚えてくれてたっていうだけでも、すごく嬉しかったんだから。
 そして睡眠を取って、それから。
 大河内先生に、美味しいカレーを作ってあげないとね。
 私はトトを撫でてから、ソファーに座った。
 フカフカのソファーに座ると、気持ちよくて眠気が襲ってくる。
 私は瞳を擦り、ふとバッグからあるものを取り出した。
 それは光の加減で色を変える、貝殻。
 先生からもらった貝殻を耳に当て、私は貝殻から聞こえてくる波の音に耳を済ませた。
 ザアッと、寄せては返す波の音が心地よくて。
 そして私の意識は……そこで、途絶えた。
 ――でもね。
 その時、こんな夢を見たの。
 私の目の前に広がるのは、どこまでも続く砂浜と青い海。
 また私は広い海を前に、ひとりで佇んでいたんだ。
 そんな私の耳に聞こえるのは、静かに打ち寄せる波の音だけ。
 いや……波の音だけじゃ、なかった。
『……那奈、こんなところで寝ていたら、風邪をひくよ?』
 波の音と一緒に微かに聞こえてくるのは――あの人の声。
 寝てなんかないよ、私。
 そうその声に言い返そうと思ったけど。
 でも、やめた。
 だってその声を聞いた瞬間……ひとりで寂しかった気持ちが、パアッと消え失せたから。
『すまなかったね、那奈……』
 その言葉と同時に、大きな手で頭を撫でられるような感触を覚える。
 先生に撫でてもらうのも、すごく好きだけど。
 この人に撫でられるのも、昔からすごく私は好きだった。
 そして次に感じたのは、ふわりと持ち上げられるような、ゆらゆらした心地よい感触。
 私は波に揺られるようなその感覚に、身をまかせた。
 それから、無意識のうちにこう呟いていたのだった。
「……パパ……」


 そして――次に目が覚めた、その時。
 私は、自分の部屋のベッドで寝ていた。
 そして起き上がってそっと頭に手を沿えた後、夢の中で撫でられた感触を思い出す。
 優しくて、そして懐かしい……あの大きな手。
 私はふっと微笑むと、ひとつ伸びをしてベッドを出た。
 それから大好きな先生にカレーを作りに行くために、出かける準備を始めたのだった。

FIN



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