SCENE5 眠れないのは誰のせい

 ――AM2:00。
 夜の海を後にした俺たちは、再びいろんな話をしながら夜中のドライブの続きを楽しんでいた。
 那奈は相変わらず機嫌良さそうに笑顔をみせながら、俺の話を楽しそうに聞いている。
 ……だが。
 さすがに夜も更けてきたためか、たまに眠そうにふわっと小さくあくびをしていた。
 ただでさえ眠さもピークにくる時間帯な上に、さっきまでの那奈は泣いたり怒ったり笑ったりと、感情の起伏も激しかった。
 だから、余計に疲れてるんだろうな。
「眠かったら、別に寝ていいんだぞ?」
 漆黒の瞳を何気に擦る那奈に、俺はそう声を掛ける。
 そんな俺の言葉に、那奈は大きく首を振った。
「ううん、大丈夫だよ。別に眠たくもないし、先生運転してるのに隣で寝てられないから」
 嘘つけ、本当はめっちゃ眠いくせによ。
 そんなトロンとした目しときながら、何言ってんだよ。
 そうツッこもうかと思ったが、やめた。
 一生懸命俺のために起きてくれようとしてる、そんな那奈の気持ちが嬉しかったからだ。
 恋人同士というのは、一緒にいても気を使うことなく、お互いが素でいられるような関係であると思う。
 でも、お互いがお互いのことを考え、苦ではない程度に気を使い合ってこそ長続きするものだと、俺はそうも思っている。
 いじましく俺の隣で起きている那奈を見ていると、俺たちは本当にいい関係なのだと自分のことながらに感じるのだった。
 そしてそんな那奈を見ていると、俺もコイツのためにできることは精一杯してやりたいって、そう思う。
 俺は信号に引っかかったために車を止めた後、胸ポケットからあるものを出した。
 それは、夜の海で見つけた、あるもの。
 後で那奈に渡そうと思って、拾って胸ポケットに入れていたものである。
 俺はそのことを思い出し、隣の那奈にそれを差し出した。
「おまえにやろうと思ってな、拾っておいたんだよ」
 那奈はそれを受け取ると、パッと表情を変える。
 そして、嬉しそうに瞳を細めた。
「わあっ、綺麗な貝殻! もらっていいの?」
 光の加減で微妙に色を変えるその貝殻を眺めた後、那奈は俺に視線を向ける。
 俺は頷き、信号が青に変わったためにアクセルを踏んだ。
「ああ。珍しい色してるだろ? プレゼントだよ」
「ありがとう、大河内先生。すごく嬉しい……」
 那奈はぎゅっと大事そうにその貝殻を握り締めた後、ふとそれを耳に当てる。
 そして、楽しそうにふふっと笑った。
「波の音、聞こえるかな?」
 一生懸命に耳を澄ましている姿が、何だか那奈らしい。
 俺はちらりと那奈に目を向けてから、訊いた。
「どうだ? 波の音、聞こえるか?」
「うん、聞こえるよ、先生っ。ザアッていう、波の音」
「本当かよ、おい」
 俺はそんな那奈の言葉に、思わず笑ってしまった。
 俺のことを子供っぽいとか言ってるけどな、お前の方がずっと夢見がちで子供っぽいんだよ。
 表情を見て俺の思ったことを察したのか、那奈はちょっとムッとした表情を浮かべる。
 そしておもむろに、今度は運転している俺の耳にその貝殻を当てた。
 それから、自信満々に言った。
「信じてないみたいだけど、ほら聞いてみてよ。聞こえるでしょ?」
 俺は耳に当てられた貝殻に、耳を澄ましてみる。
 言われてみれば聞こえるような、でも聞こえないような。
 俺はじっと隣で俺の反応を待っている那奈にニッと笑って、わざとらしく頷く。
「あー聞こえる、聞こえる。おーすげー波の音だな、おい」
「もう何よ、先生ったらっ。私のこと乙女チックとか夢見がちとか、どうせそうとしか思ってないんでしょ?」
 ますますムウッと気に食わない表情をする那奈に、俺はクックッと笑った。
「そう怒るなよ。聞こえるって言ってんじゃねーかよ」
 ぽんぽんっと那奈の頭を軽く叩く俺に、那奈はじろっと不服気な目を向ける。
 それから拗ねたようにぷいっと窓の方にそっぽを向くと、自分の耳に貝殻を当てて言った。
「いいもん、もう先生には聞かせてあげないから。ひとりで聞いてようっと」
 那奈はそう言って窓の外を見つめながら、再び貝殻に耳を澄ます。
 そんなにムキになって拗ねるところも、子供っぽいってんだよ。
 だがそんなこと言ったらますます怒りそうだったので、俺はふっと微笑んだまま口を噤む。
 車の中を、シンとした静寂が包んだ。
 何か声を掛けようかとも思ったが、俺は敢えて何も言わずに運転を続けた。
 ……それから、数分も経たないうちに。
 俺はふと、隣の那奈に目を戻した。
 そんな俺の瞳に飛び込んできたのは。
「ていうか、やっぱり眠かったんじゃねーかよ」
 スウスウと寝息をたてる、那奈の姿。
 貝殻を耳に当てたまま、気持ち良さそうに那奈は眠ってしまったのだった。
 俺は路肩に車を止め、羽織っていたシャツを脱いで那奈に掛ける。
 そしてハンドルに腕をもたれ、無邪気に寝ている那奈を見つめた。
 俺も少しは寝ておいた方がいいってのは、分かってるんだけどよ。
 でも……隣でこんな顔して寝られて、眠れるわけがないだろう?
 はあっと大きく溜め息をついて、俺は前髪をザッとかき上げる。
 それから、ふっと気を取り直して微笑んだ。
 ていうか、本当に幸せそうな顔して寝てるな、おい。
 伏せた瞳にかかるまつ毛は長く、漆黒の髪がふわりと色白の肌にかかっている。
 俺は少し乱れている那奈の髪を、起こさないようにそっと手櫛で整えた。
 それから、その顔をふと覗き込む。
 だが那奈は、見られてることにも全く気がつく様子はない。
 本気で爆睡してるぞ、コイツ。
 そう思うと何だか可笑しくなり、俺は思わず笑ってしまう。
 そして、改めて恋人の寝顔を見つめる。
 ていうか、そんなに無防備にスヤスヤ寝てんじゃねーよ。
 あまりに無防備だと……俺が、眠れなくなるじゃねーかよ……。
 俺は那奈の顔をそっと上げ、おもむろに瞳を閉じた。
 ――そして。
 気がついたら俺は……眠っている那奈に、唇を合わせていた。
 俺の口づけで、那奈のピンク色の唇がその潤いを増す。
 それから俺はもう一度、ゆっくりとキスを重ねた。
 そんな、キスの途中。
「ん……先、生……?」
 うっすらと瞳を開け、那奈が俺の名前を呼んだ。
 俺はそれに答えるように、さらに口づけを重ねる。
 那奈はふっと小さく吐息を漏らすと、再びスッと瞳を閉じた。
 そして俺の与える唇を、素直に受け入れたのだった。
 ……そんな長いキスを交わした、その後。
 那奈は照れたように瞳を細め、それから思い出すように言ったのだった。
「あ、今さっきね、夢を見てたんだ」
「夢?」
 俺の言葉にこくんと頷き、那奈はゆっくりと口を開いた。
「うん。私ね、夢の中で、ひとりで砂浜にいたの。目の前には延々と広がる海しかなくて。すっごく静かで、波の音しか聞こえないの。最初は砂遊びしたり、海に足をつけたりして遊んでたんだけど……でも何だか、急にひとりが寂しくなっちゃって。その時にね、思い出したんだ」
 そこまで言って言葉を切った後、那奈はおもむろに持っていた貝殻に視線を向ける。
 それから、再び言葉を続けた。
「私、その時思い出したの。そういえば、魔法使いから魔法の貝殻を貰ってたんだってことを。その貝殻は、困った時に悩みを解決してくれる魔法の貝殻で。だから私、その貝殻に言ったの。ひとりじゃ寂しいですって。そしたら、どうなったと思う?」
「そしたら、どうなったんだ?」
 俺はふっと瞳を細め、那奈の髪を撫でながら訊いた。
 那奈はにっこりと微笑み、そして俺の問いにこう答えたのだった。
「そしたらね、私の前に魔法使いが現れたんだ。そして、優しいキスの魔法をかけてくれたの。これでもう、ずっと自分が一緒にいてあげるから、これからは寂しくないぞって」
 いかにも那奈らしいその夢の内容に、俺は微笑みを浮かべる。
 本当に魔法使いだの魔法だの、そういうもんが好きなんだな。
 それから俺は、ふと那奈に言った。
「でもそれは、夢の中の話なんだろ?」
「え?」
 俺の意外な言葉に、那奈はその顔を上げる。
 そんな那奈の素直な反応を見て、俺は微笑みを浮かべる。
 そしてその後、こう言葉を続けたのだった。
「夢の中だけじゃなくて現実でも、おまえが寂しくないように魔法をかけてやるよ。ずっと、一緒にいるからな……」
 そう言って俺は、スッと那奈の頬に手を添える。
 そして夢の中だけでなく、現実でも那奈に魔法をかけてやったのだった。
 そう――キスという、幸せの魔法を。
「大河内先生……すごくすごく、大好きだよ」
 ふわりと軽い口づけの後、那奈は照れたようにそう言って幸せそうに笑う。
 俺は少し乱暴にそんな那奈の頭を撫でた後、再び車のエンジンをかけた。
 これ以上俺の気持ち的に、このまま涼しい顔して車を止めていることができなかったからである。
 すぐ隣で、あんな幸せそうな笑顔向けられると……。
 俺はシートベルトをしてから、那奈に視線を戻す。
 そして、言葉を返したのだった。
「俺もおまえのこと、愛してるよ。ずっと、俺たちは一緒だ」
 もう一度ぽんっと那奈の頭に手を添えた後、俺はゆっくりと車を出す。
 那奈は嬉しそうに笑って大きく頷き、俺の手をぎゅっと握った。
「うん。ずっと私たち一緒だよね、先生」
 那奈のひやりとした手の温度を感じ、俺も首を縦に振る。
 それから、ニッと笑って言った。
「それにしても寝るの早かったな、おまえ。ソッコーで落ちてたじゃねーかよ。寝てていいって言っただろ?」
「もう本当に眠たくないよ。ていうか、そんなに寝るの早かった? そう言う先生は眠くないの?」
 逆にそう訊かれ、俺はちょっと答えに困る。
 誰のせいで、目が冴えたと思ってんだよ。
 おまえが隣で、無邪気な顔して無防備に寝てるからだろうが……。
 だがそんなことは言えず、俺は誤魔化すように前髪をかき上げる。
 それから、苦し紛れに言ったのだった。
「……このくらいの時間なら、本とか読んでたらまだ起きてるからよ」
「ふーん、そっか」
 うんうんと、納得したように那奈は頷く。
 そんな素直な様が、妙にコイツらしくて。
 俺は思わず、またクックッと笑ってしまった。
「何、先生?」
 突然笑い出した俺に、那奈はきょとんとした表情をしている。
 俺はまだ笑いながらも、ふと視線を落とす。
 そしてちらりと那奈の持っている貝殻を見つめて、言った。
「那奈、その貝殻の波音だけどよ……もう一度、俺にも聞かせてくれよ」
 那奈はそんな俺の言葉に、嬉しそうに瞳を細めて頷いた。
 それから、耳にそっと貝殻を当てる。
 俺は耳を澄ましてから、思わずふっと瞳を細めた。
 そして、思ったのだった。
 間違いなく今、俺の耳には……寄せては返す波の音が、はっきりと聞こえていると。