SCENE4 美しき世界
――AM1:00。
私が家を飛び出して、5時間あまりが経った。
先生の青のフェラーリも、もう結構な距離を走っている。
一体、今どの辺なんだろう?
それすらも分らないほど、私は遠くまで来ていた。
そしてこの頃はもう、どうして自分が家出をしたのか、それすらも忘れかけていた。
先生は相変わらずそのキラキラした瞳で、楽しそうにマニアックな話をしてくれている。
私は先生が買ってきてくれたペットボトルのお茶を飲んで、ホッと一息ついた。
今は、縁側でひなたぼっことは程遠い、真夜中の車の中だけど。
でも……それでも、私の心は幸せで満ち溢れていた。
隣に――大好きな大河内先生が、いてくれるから。
――その時。
先生はおもむろにハンドルを切り、そして車を止めた。
それから、きょとんとする私に笑う。
「夜の海でも眺めながら、休憩だ」
その言葉に、私は眼前に広がる風景を見た。
目の前に広がるのは、真っ暗な深遠の闇。
誰もいない夜の海は、怖いほどに静かで。
窓を開けると、微かに波の音が聞こえる。
「ま、眺めるって言っても、ここからじゃ真っ暗で何も見えねーけどな」
先生は缶コーヒーを一口飲んでから、車のシートを少し倒した。
そして小さく息をつき、背をもたれる。
ずっと運転しているんだから、先生も疲れているんだろう。
私は何だかまた申し訳なくなって俯いてから、先生の手をぎゅっと握った。
先生はそんな私の手を握り返し、そしてふとその身体を起こす。
「那奈」
短く、先生が私の名前を呼んだ。
私はそれに答えるかのように、ふっと顔を上げる。
夜の海のような深い漆黒の瞳が、真っ直ぐに私だけを映していた。
そっと頬にかかった私の髪を軽くかき上げてから、先生はその綺麗な瞳を閉じる。
そして、次の瞬間。
ふわりとした――柔らかな、唇の感触。
軽く口づけを交わした後、私は照れたように俯く。
もう、先生とキスを交わすのは何度目か数え切れないけど。
でもこの瞬間は、いつだってドキドキする。
身体全体で心地よさを感じ、胸の中はあたたかい気持ちでいっぱいになる。
先生はいつも、キスという魔法で私に幸せを与えてくれるのだ。
それから大河内先生は、下向き加減だった私の顎をスッと持ち上げる。
それと同時に、私の瞳に先生の整った顔が再び飛び込んでくる。
先生は再び、そんな私の唇に自分のものを重ねた。
その幸せの魔法は、先程のものよりもゆっくりと、長くて。
途端に胸の鼓動が早くなり、カアッと身体が熱くなるのを感じる。
先生は幾重にもキスを重ねながら、そっと私の頭を撫でてくれた。
大きくてあたたかい、先生の手。
私は先生の首に両腕を回し、彼の幸せの魔法を精一杯受け止めたのだった。
……そんな、長い口づけの後。
先生はふと唇を外し、私から離れる。
それから大きく溜め息をつき、漆黒の前髪をかき上げて言った。
「何かやっぱり、車の中で休憩なんてできねーな……外、出ないか?」
「え? あ、うん」
小さく首を傾げた後、私は運転席のドアを開けて外に出た先生に続いた。
外に出た瞬間、ビュウッと強い海風が吹きつける。
肌にべたりと纏わりつくようなその独特な風を感じながら、私は先生の隣に並んだ。
風で乱れた私の髪を手櫛で整えた後、先生はゆっくりと砂浜の方へ歩き出す。
砂浜を一歩ずつ歩いて海に近づくにつれ、波の音がはっきりと耳に聞こえてきた。
夜の砂浜は、私たち以外に誰もいない。
私はそっと、先生の手を握り締める。
大河内先生も、そんな私の手を強く握り返す。
そんな恋人の手のぬくもりを感じながら、私は静かな夜の海をしばらく眺めていた。
そして先生も、何かを考えるようにじっと漆黒を湛える海を見つめていたのだった。
――それから、数分後。
大河内先生はふと視線を私に戻し、ニッと悪戯っぽく笑う。
そして、持っていたコンビニの袋を私に渡した。
「さっき、コンビニに行った時に見つけたんだよ」
私は渡されたその袋を受け取って首を捻った後、入っていたものを取り出す。
そして出てきたものを見て、パッと表情を変えた。
「あっ……花火?」
「ああ。夜の海で花火なんて、なかなか夏っぽいだろ?」
ポンッと私の頭に手を添えた後、先生は花火を1本取り出し、持っていたライターで火をつける。
シュッと火薬のような匂いが鼻をついたと同時に、色鮮やかな光が弾けた。
バチバチと音を立てて咲く光の花が、真っ暗だった海を赤や黄色に照らす。
それから数秒後に花火が散った後、海は再びまた静かな漆黒へと戻った。
「私にも花火やらせて、先生っ」
はやる気持ちを抑えられず、私は1本の花火を手にとって先生に視線を向ける。
そんなはしゃぐ私に、先生はふっと笑った。
「そう焦るなよ、おまえは。今、火つけてやるからよ」
「先生、早く早くっ」
「もう点くからな……わっ、ていうか、俺の方に向けるなよなっ」
それから私たちは……まるで子供に戻ったように、無邪気に笑い、そしていくつもの光の花を咲かせた。
こんなにはしゃいだのは、いつ以来だろうか。
昨日のことも、そして明日のことさえも、この時の私たちにはどうでもよかった。
ふたりにとって――今という時間が、とても大切な宝石だから。
そしてやがてその宝石は、思い出という名のふたりだけの宝物に変わるだろう。
「あ、先生……花火、最後1本だけ残っちゃった」
散々はしゃいだ後、私は1本だけ残った花火を手にとって先生に視線を向けた。
先生はそんな私を見つめ返し、ふっと漆黒の瞳を細める。
そしてライターを点けてから、私の手をそっと取って言ったのだった。
「じゃあ、最後はふたりで一緒にするか」
「うん、そうだね」
先生の提案に、私は大きく頷く。
重なる先生の大きな手から、じわりとあたたかさがこみ上げてくる。
私が頷いたのを確認した先生は、最後の花火に火をつけた。
瞬間、バチバチと目の前に光の花が咲いた。
私は先生の手のぬくもりを感じながら、花火をじっと見つめる。
今、色とりどりの光が弾ける幻想的な美しき世界にいるのは、先生と私のふたりだけ。
ふたりだけの――美しき世界。
私はふと、隣にいる大河内先生を見上げる。
そして、驚いたように瞳を見開いた。
赤や黄色の光に照らされた先生の瞳は、目の前の花火ではなく、私を見つめていたのだった。
先生は花火を持っていない逆手で私の頭をそっと撫でると、光の映った瞳をスッと伏せる。
私もそんな先生につられ、ゆっくりと目を閉じた。
そして、色鮮やかな光が弾ける中……私たちは、再びキスを交わした。
美しき世界で交わされた、恋人たちの甘い口づけ。
私はその気持ちよさに、軽い眩暈さえ覚えたのだった。
それから、ふたりが唇を離したその時――すでに最後の光の花は散って消え、いつの間にか静寂を湛える夜の海だけが、私たちの目の前に広がっていた。