「どうして!? あんなに約束したじゃない、今日は一緒にディナーだって……また今度? 今度っていつ!? いつも今度、今度って、一体いつなのよっ。どうせ私のことなんかより、仕事のほうがずーっと大事なんでしょ!? もう、いいわよっ!」
……こんな思いをするのは、一体何度目だろうか。
私はガチャンッと乱暴に家の電話の受話器を置いて、いつの間にか溢れてきた涙をぐいっと拭った。
でも、拭っても拭っても、涙は止まらなくて。
『今月は那奈の誕生日だから、お祝いに食事にでも行こうか』
仕事人間の父親が数日前に言った、その言葉。
私は小さい頃から、家庭をかえりみない父親のことが嫌いだ。
でも……その言葉は、心から嬉しかった。
まさか仕事第一なパパがそんなことを言うなんて、思ってもいなかった。
――それなのに。
最初は、仕事が長引くから遅れるという連絡だった。
パパの仕事が忙しいことくらい知ってるし、それは仕方ないって思ったけど。
でも、結局は。
仕事が終わりそうにないから、食事に行くのは今度にしよう、と。
……小さい頃から、そうだった。
遊園地に連れて行ってくれるって約束した時も、結局パパに仕事が入って行けなかった。
動物園に行った時もパパは仕事の都合がつかず、知らない秘書のお姉さんと行くことになったし。
その度に、今度、今度って……今度って、一体いつなの?
裏切るくらいなら、あんなこと言わないでよ。
すごく、すごく楽しみにしてたのに……。
私はこの日のために新調していたワンピースを、クローゼットにしまった。
それからリビングに戻り、ソファーに座ってテレビをつける。
いつも観ているテレビドラマも、もう予約録画する必要もなくなったし。
よかったじゃない、ちょうどドラマの続きも気になってたし。
その後のバラエティー番組だって、食事がキャンセルになったから観れるんだし。
よかったって、思いたいけど。
「全然……よくなんて、ない……っ」
ぎゅっとソファーにあったクッションを握り締め、私は大きく首を振った。
抱きしめたクッションに、再び流れ出した涙が落ちる。
そんな私を、愛犬のトトが心配そうに見上げていた。
テレビの音だけが響く、広いリビング。
ひとりでこの空間にいることが、今の私には辛かった。
私は少しでも気を紛らわそうと、バッグの中から1冊の本を取り出す。
それは、大河内先生が貸してくれた歴史小説。
面白いから読んでみろと、半ば強引に貸してくれたものだった。
それから先生は、この小説のこのシーンが最高に興奮しただの、ここの台詞の掛け合いが痺れただの、そんなことを延々と語っていた。
「大河内先生……」
私は楽しそうに話をする恋人のキラキラした瞳を思い出し、手にした本をぎゅっと抱きしめる。
今ひとりで家にいるなんて、堪えられない。
大河内先生に、会いたい――。
そして私は、気がつけば家を飛び出していた……。
SCENE2 遠くまで
――PM23:00。
「……でよ、大阪冬の陣で真田幸村の命を受けて家康の動きを探った霧隠鹿右衛門っていう忍者が、霧隠才蔵なんだけどよ。この小説ではな、猿飛佐助と才蔵が忍術比べをしてだな……」
首都高速を走る青いフェラーリを運転しながら話をする先生は、いつもと同じように見えた。
好きなことを話している時の、キラキラした瞳。
でも、私には分かっていた。
大河内先生が今、私に気を使っていることを。
家出した理由を、先生は訊いてこない。
きっと私の気持ちを考えて、敢えて訊かないのだろう。
私が話す気になったら、その時には聞いてやろうと、そう思っているんだろう。
大河内先生は、そういう人だ。
ひとりで家にいることがつらかったとはいえ……いきなり押しかけて、先生を困らせてしまった。
先生が私との交際を真剣に考えてくれてて、誠意を持って行動してくれているのを私は知っている。
それなのに、私がワガママ言ったから……。
「おい、おまえな、そんな暗い顔してんじゃねーよ。せっかく真田十勇士の話してやってんだからよ」
俯いてしまった私に、先生は溜め息をついてそう言った。
私は先生に申し訳なくて、顔を上げることができない。
話したいこともたくさんあるのに、言葉が出てこない。
「ごめんね、先生……」
それだけ言うのが、やっとだった。
大河内先生はもう一度嘆息し、漆黒の前髪をザッとかき上げた。
そして。
片手をハンドルから離すと、私の顎を軽く上げる。
それから自分の方に私の顔を向けると、ふっと笑顔を浮かべた。
「おまえな、謝るくらいなら家出なんてするなよな。それにな、俺が朝まで付き合ってやるって決めたんだ。朝までそんな辛気臭い顔されてた方が冗談じゃねーよ。もうこうなったら、朝までパーッと遊ぶぞ」
「先生……うん、そうだね」
先生のその言葉が、すごく嬉しかった。
私はようやく微笑みを取り戻し、隣の先生に向ける。
それから……どうして家出をしたのか、その理由を話した。
先生も大河内建設の御曹司だから、私の気持ちを分かってくれるだろう。
きっと同情して、慰めてくれるだろう。
そう、私は思っていた。
でも、話し終わった私に先生が言った言葉は、意外なものだった。
私の話が終わった直後、大河内先生は突然クックッと笑い出したのだった。
何が可笑しいんだと、私は半分ムッとした表情で先生を見る。
心が傷ついて、それを一生懸命真剣に話したというのに。
そんな私の心情に気がついて、大河内先生は私の肩をポンポンッと軽く叩く。
それから、言ったのだった。
「何だよ、おまえ。父親のことが嫌いとか何とか言ってるくせに、結局実は父親のこと大好きなんじゃねーかよ」
「なっ……」
何を言ってるんだ、パパなんて大嫌いなのに。
そう言い返そうとした私に、先生は言葉を続ける。
「あのな、考えてみろよ。父親が嫌いな娘が、約束破られたからって怒るか? 本当に嫌いなら、顔も見たくないはずだろ? なのにおまえは、めっちゃめちゃ父親との食事楽しみにしてんじゃねーかよ。素直じゃねーな」
「なっ、そんなことないっ。だってパパは、私のことなんてどうだっていいって思ってるんだし。そんなパパのこと、好きなわけないじゃないっ」
「本当にどうでもいいなら、娘の誕生日なんていちいち覚えてねーよ。それに、ギリギリまで遅れるって連絡入ってたんだろ? 仕事だって、おまえのためにしてんだよ。おまえの気持ちも分かるけどな、そんなガキみたいなワガママ言ってんじゃねーよ」
自然と瞳に涙が溜まり、視界がぼやける。
子供っぽいこと言ってるって、分かってるよ。
でも、本当に傷ついたんだから。
なのに先生は、あんな嘘つきなパパの肩なんて持ったりして……。
「……先生なら、分かってくれるって思ってたのに。そういう大河内先生も父親になったら、うちのパパみたいに平気で約束破ったりするの!? 仕事だから仕方ない、また今度って……埋め合わせする気がない、ただの気休めの言葉言ったりするわけ!? 先生だって、いつまでも教師してられないんでしょ? いずれは建設会社の役員になって、家族のこと放ったらかしにしちゃうの!?」
「おいおい、そんな怒るなよ。だから、おまえの気持ちも分かるって」
「分かんないからそんなこと言うのよっ、違う!?」
怒りがこみ上げてムキになる私に、大河内先生はふっと漆黒の瞳を向ける。
そしてスッと腕を伸ばし、ぐりぐりと大きな手で私の頭を撫でる。
それから、ニッと笑って言ったのだった。
「言っとくけどな、俺はマイホームパパになる自信満々だぞ。休みの日はな、家族で歴史博物館とか、歴史に所縁のある土地とかに足を運んだりするんだ。まぁ、男として家庭守んなきゃいけないから仕事もバリバリするけどよ、歴史より仕事を好きになれる自信はないしな」
「先生……」
私は楽しそうにそう話す先生の顔を見て、言葉を切った。
あんなに湧き上がっていた怒りも、不思議と消えてなくなっていた。
私はようやく顔を上げ、先生の綺麗な瞳を真っ直ぐに見つめる。
そんな私に、先生は優しく微笑む。
そして、前方に視線を向けて言った。
「ほら見てみろよ、夜景が綺麗だ。怒ったり俯いたりしてたら勿体無いぞ、おまえ」
私は先生の視線を追い、顔を上げた。
目の前には、ちょうどレインボーブリッジとお台場が見える。
夜にも関わらず、東京の街はキラキラと美しい輝きを放っていた。
何だかそんな夜景が、じわりと心に染みて。
窓の外の視界が、ぼんやりと滲んだ。
「本当におまえは、すぐ泣くんだからよ」
ぽろぽろと泣き出した私の頭をそっと撫で、先生は運転をしながら笑う。
私は綺麗な夜景を見つめながら、改めて思ったのだった。
大河内先生、ありがとう……大好き、と。
「これからだけどよ、どこか行きたいトコとかあるか? まだまだ時間はいっぱいあるしな」
その言葉を聞いて、私は視線を大河内先生に戻した。
それから、ふっと笑顔を浮かべて言ったのだった。
「大河内先生と一緒に、遠くまで……遠くまで、行きたいよ」
「遠くまで? やたら抽象的だな、それ」
そう言った後、先生は瞳と同じ黒髪をかき上げる。
それから、ニッと笑みを浮かべて頷いたのだった。
「よし、んじゃ行くか。遠くまで」
「うん、先生」
私は大きく頷き、ハンドルに置かれている先生の手に自分のものを重ねる。
冷たい私の手と先生の温かい手のぬくもりが混ざり合い、ふわりとした心地よさを感じた。
私は心を溶かすようなそのあたたかさに瞳を細めてから、そして溜まっていた涙をそっと指で拭ったのだった。