――今は、夏休み真っ只中。
 とはいえ、いくら学校が休みだと言っても、俺たち教師は生徒と同じように毎日が休みというわけではない。
 この日は当番で、俺は夕方まで学校に出勤していた。
 夏真っ盛りな8月の中旬、うだるような冗談じゃない暑い日がここ最近続いている。
 そのため、仕事が終わって晩飯を食って帰って来た時には、気持ち悪いくらいに汗をかいていて。
 そして家に着くやいなや、玄関からソッコーで風呂に向かった。
 それからシャワーを浴びてようやくさっぱりした俺は、読みかけの歴史小説でも読みながら風呂上りのビールでも飲もうと思って、キッチンへと足を運ぶ。
 あとは適度に入ったアルコールの心地よさに身を任せて、寝るだけだ。
 そう、この時は思っていた。
 だが……この日の夜が、あんなにも長いものになるなんて。
 この時の俺には、全く想像すらつかなかったのである。

 SCENE1 憂いのGYPSY

 ――PM22:00。
「明日の晩飯は、カレーライスか?」
 冷えたビールとお気に入りのビアカップを手に取った後、俺は冷蔵庫の中身を見てそう呟く。
 冷蔵庫の中には、明らかにカレーを作りますと言っているような材料が入っていた。
 きっと、恋人のあいつが買って入れておいたのだろう。
 あまり料理をしない俺でも、カレーライスの材料くらいは分かる。
 嫌いなニンジンの姿を見つけて少しブルーになりながらも、俺は妙に明日の晩飯が待ち遠しくなる。
 よく小学校の時の給食だって、次の日の献立がカレーだったら前の日の夜からワクワクするだろう?
 いわゆる、それと同じ感覚だ。
 でもそんなことを口に出そうものなら、年下の恋人にまたこう言われるだろう。
 大河内先生って本当に小学生みたいなんだから、ってな。
 一回り近く年上に向かって、しかも教師である俺に対して、小学生はないだろう!?
 いつもそう反論しても、あいつはますます笑うばかりで。
 何だか年上の威厳がないって言われているみたいで、かなり腑に落ちない。
 でも……いつもあいつは、楽しそうにくすくすと笑っている。
 あいつのそんな顔を見てると、何だかこっちまで楽しい気分になってしまって。
 腑に落ちなかった気持ちなんて、どうでもよくなる。
 あいつが俺の隣で笑ってくれれば……それだけで、ほかには何もいらない。
 俺はふっと微笑み、パタンと冷蔵庫を閉めた。
 それからリビングに戻り、ソファーに座る。
 今日は出勤のために恋人に会えなかったが、明日は約束をしている。
 読みかけの歴史小説の続きもかなり気になっていたが、今日は小説もそこそこに、ビール1本飲んで明日に備えて早めに寝るか。
 まだ風呂上りで少し濡れている髪をタオルでゴシゴシ拭いてから、俺はビールを開けようとプルトップに指を掛けた。
 ……その時だった。
 おもむろに、ピンポーンと家のチャイムが鳴る。
 こんな時間に、一体誰だよ?
 そう首を捻りつつ、俺は玄関に向かった。
 時間は、夜の22時を回っている。
 しかもこのマンションは、1階のエントランスがオートロックになっているはず。
 直接うちのチャイムが鳴るなんて、滅多にない。
 俺はもう一度首を傾げ、そしてガチャリとドアを開けた。
 そんなドアの向こうに立っていたのは。
「……那奈? おまえ、どうしたんだよ」
 俺はその場に立っていた恋人の姿に、驚いた表情を浮かべる。
 どうして、こんな時間に那奈がうちに来るんだ?
 とにかく俺は、ドアの前で俯いたまま黙っている恋人の那奈を家の中に招きいれた。
「どうしたんだよ、おまえ。こんな時間にいきなり来たりして。驚いたぞ」
 ソファーにちょこんと座った那奈に、俺はもう一度訊いた。
 だが那奈はやはり、何も言わずにただ俯いたままである。
 絶対に、何かあったに違いない。
 伏せ目がちな漆黒の瞳には、心なしかじわりと涙が浮かんでいた。
 俺は那奈の隣に座ると、彼女の身体を引き寄せてゆっくりと頭を撫でる。
 それから、数分も経たないうちに。
「大河内先生っ、私……っ」
 俺の胸の中で、那奈はヒックヒックと泣き出してしまった。
 何で那奈が泣いているのかは分からなかったが、とりあえず彼女が落ち着くまで、俺は敢えて何も訊かないでおいた。
 さらに、その数分後。
「ちょっとは落ち着いたか? 今、茶でも淹れるから、おまえは座ってろ」
 少し落ち着いてきた恋人にそう言って、俺はソファーから立ち上がろうとする。
 だが、俺のTシャツの裾をギュッと握り締め、那奈は首を大きく振った。
 それから涙の溜まった瞳で俺を見上げると、ようやく口を開いたのだった。
「先生、あのね……私……」
 俺は再び那奈の隣に座り、彼女の次の言葉を待つ。
 だがこの次に那奈が言った言葉に、俺は面食らってしまった。
「大河内先生、今日はもう家に帰りたくない……家出、してきちゃった」
「……は?」
 俺は一瞬、きょとんとしてしまった。
 ちょっと待て、今日はもう帰りたくないって……それって、うちに泊まるってコトか!?
 しかも、家出!?
 確かに俺と那奈は恋人同士だが、同時に生徒と教師という関係でもある。
 ただでさえロリコンだの犯罪だの言われるくらい年が離れてるっていうのに、俺はコイツの先生でもあるのだ。
 ずっと一緒にいたいのは山々なのだが、俺は俺なりの誠意を持って那奈と付き合っている。
 だから、遅くなっても絶対に家には帰すようにしていた。
 なのに今日は帰りたくないと、目の前の那奈は言っている。
 その上に、家出って。
 ご両親にバレたら、恋人という以前に教師としての責任問題になり兼ねない。
 それって、ものすごくヤバイだろ。
 いや、どう考えてもめちゃめちゃヤバイ。
 今後のふたりのためにも、俺はガツンと那奈に駄目だと言おうと決心する。
「あのよ、那奈。おまえと一緒にいたいって、俺だって思うんだけどよ……」
「今日は、家でひとりでいたくないの。お願い、先生」
 ふっと潤んだ瞳が、真っ直ぐに俺に向けられた。
 そんな那奈の視線に、俺はうっと言葉を詰まらせる。
 この涙に、俺は弱い。
 強く言えなくなって、俺は前髪をザッとかき上げた。
 那奈はそんな俺の顔を見て、そして言った。
「大丈夫だよ。今日もお父さんとお母さん……出張で、帰って来られないんだって。だから、朝帰ればバレないよ。ね? お願い」
 いや、バレるバレないの問題じゃない。
 むしろ両親の留守の時に生徒を家に泊まらせるなんて、もっと状況が悪いだろう!?
 俺は那奈の潤んだ瞳をなるべく見ないようにしながら、彼女の頭を宥めるように撫でる。
 そして、那奈に言った。
「でもよ、やっぱり駄目だ。いつも言ってるだろう? 送ってやるから、家に帰るぞ」
「イヤよっ。送ってもらったって、また家に押しかけるから。家に入れてくれないんなら、繁華街で朝まで時間潰すもん。とにかく……家に、ひとりでいたくないの」
 そんなこと言われても、じゃあ泊まっていけよとは簡単に言えない。
 かといって無理やり家に帰して、その後夜の繁華街をフラフラされても困る。
 今の那奈の思い悩んだ表情をみると、本当にひとりででも朝まで家に帰りそうにない。
 俺ははあっと大きく嘆息し、うーんと考える仕草をする。
 いや、家に泊めたいという気持ちはぶっちゃけ大きいんだけど。
 でもやっぱり、さすがにヤバイ。
 自分の欲望を抑え、俺はもう一度首を振った。
「駄目だ、ワガママ言うなよ……な、送ってやるから帰ろうぜ」
「イヤよ、絶対イヤ。お願いだから一緒にいて、大河内先生」
 俺に向けられる、すっかりお願いモードのその瞳。
 俺はどうしていいか分からなくなり、はあっともう一度溜め息をつく。
 どう言っても、素直に帰りそうにないし。
 無理に帰したとしても、また家を飛び出すと宣言までしているし。
 俺は少し考える仕草をして、何かいい方法がないかと考える。
 それからふと、思いついたことを口に出した。
 後から考えたら……この考えが、長い長い真夏の夜のそもそもの始まりだった。
「分かったよ、一緒にいてやる」
「本当!?」
 俺の言葉に、那奈はパッと瞳を輝かせる。
 俺はそんな那奈を見て、続けた。
「ただし、だ。うちに泊まるのは絶対に駄目だ。さすがにヤバイしな……そうだな、んじゃ朝までドライブでもするか」
「え? ドライブ?」
 きょとんとする那奈に、俺は頷く。
「ああ。そのかわり、ちゃんと朝になったら帰るんだぞ。それは約束な」
「うんっ。それは約束するよ、先生」
 俺の出した条件に、那奈は嬉しそうに微笑んで大きく首を縦に振った。
 これでも、生徒を朝まで連れ回しているという事実には変わりないのであるが。
 でも、家に泊めるのはもっとヤバイ。
 それに今の那奈は、たとえ家に強引に連れて帰ったとしても、また家を出て夜の繁華街をフラフラするとまで言っていた。
 教師として、それは未然に防がなければならない。
 そのために、これから朝まで一緒にいるんだ。
 そう自分の中にある罪悪感のようなものに言い聞かせてから、俺は立ち上がる。
「出かける用意するから、ちょっと待ってろ」
 俺の言葉に、那奈はこくんと頷いた。
 ていうかコイツ、一体何が原因で家出とかしてんだ?
 まぁまだ時間もあるし、ゆっくり訊けばいいか。
 そう思い直し、俺はクローゼットのある寝室へと足を運ぶ。
 それからハンガーに掛かっていたシャツを羽織り、ジーパンに履き変えてから、財布と携帯電話と車のキーを手に取った。
 そして最後に胸ポケットに眼鏡を入れてから、俺はひとつ溜め息をつき、那奈の待つリビングへと戻ったのだった。