Memory7 恋じゃなくなる日
「どこに行ったんだろう……」
人も疎らになった職員室を覗いた藍は、そう呟いてからドアを閉めた。
開け放たれた窓の外から入ってくるのは、頬を撫でる生ぬるい風と生徒たちの声。
そして藍の手には、小さな花束と卒業証書の入った筒が握られている。
――この日は、聖煌学園高校の卒業式であった。
卒業式典も終わり、しばらくは生徒たち同士での写真撮影会と化していた校舎内であったが、それから時間も経って人もかなり捌けてきた。
藍は眼鏡の奥の漆黒の瞳を伏せ、少し考えるような仕草をする。
それからスッと眼鏡を外して前髪をかき上げると、おもむろに歩き出した。
「ったく、どこ行きやがったんだよ、鷹瀬のやつ……」
少し前から藍は、鷹瀬先生のことを探していた。
式典終了直後は生徒たちとはしゃぐように写真を撮っていた先生だったが、いつの間にかその姿が見えなくなっていた。
藍は彼女がいそうな心当たりを探してみたが、まだ見つけられないでいたのである。
職員室の彼女の机にはまだ荷物があったため、校内にいるのは間違いない。
はあっと大きく嘆息し、藍はきょろきょろと周囲を見回す。
「こんな時に、どこにいるんだよ……」
そう呟き、藍はぎゅっと持っている小さな花束を握り締めた。
卒業式の今日、藍はある決心を固めていた。
高校生活最後のこの日……自分の3年間の想いを、彼女に伝えようと。
自分が彼女の生徒でなくなるこの日に、ひとりの男としてけじめをつけようと。
そう、藍は心に決めていたのだった。
だが、肝心の鷹瀬先生がいなければ話にならない。
藍はもう一度深い溜め息をつくと、特別教室のある別館の階段をゆっくりと上り始める。
そして、ふっと見慣れた窓の外の景色に視線を向けた。
風に枝を揺らす桜はまだ全く咲く気配はないが、きっと1ヵ月後には綺麗な満開の花を咲かせるのだろう。
でもその時、もうここに自分の姿はない。
今見ているこの風景も、今日で見納めである。
そう思うと、少し寂しい気持ちが藍の心にこみ上げてくる。
それと同時に、4月からの新しい生活への期待も同時に沸き上がってくる。
藍は4月から、聖煌学園大学の経済学部への進学が決まっていた。
並行受験をした歴史系の学部も教育系の学部も受かったのだが、親の意向を尊重して経済学部を選んだのである。
だが、教育者になるという夢を諦めたわけでは決してない。
経済学部を卒業しても、教職課程を履修していれば高等学校社会科の教職免許が取れるのである。
親や担任である鷹瀬先生とよく相談し、藍も納得した上での選択だった。
そして、そんな将来の夢への展望は目の前に開けた藍だったが。
もうひとつの、胸に秘めた想い。
ずっと抱いてきた鷹瀬先生への気持ちを、早く彼女に伝えたい。
どんな返事になるかは全く分からないが、今までの感謝の気持ちも含めて藍は先生とふたりで話をしたかった。
藍は鷹瀬先生を探して、別館校舎の階段を一段ずつ上る。
その時。
「あ、吉沢先生」
階段を下りてきたひとりの教師を見つけ、藍は咄嗟に声をかける。
彼は、鷹瀬先生と同じ国語担当の吉沢先生だった。
生徒から貰ったのだろう、たくさんの花束を抱えた吉沢先生は美形の顔をふと上げ、藍に視線を向ける。
それから穏やかな印象の笑顔を浮かべ、言った。
「あ、大河内くん。卒業おめでとう」
「ありがとうございます。あの……鷹瀬先生、見ませんでしたか?」
「鷹瀬先生なら、国語準備室にいらっしゃったよ」
藍の問いに、吉沢先生はすぐにそう答える。
藍はその言葉にパッと表情を変え、それから先生に頭を下げた。
「あ、そうですか。ありがとうございます」
ぺこりともう一度軽くお辞儀をした後、藍は足早に階段を上り始める。
鷹瀬先生に自分の気持ちを伝えようと強く決心していた藍であったが、実際にそれが現実味を帯びてくると緊張して胸がドキドキと早い鼓動を刻む。
じわりと汗ばんできた掌をぐっと握り締め、そして藍は鷹瀬先生のいる国語準備室の前までやってきた。
はあっと大きく深呼吸をした後、藍はゆっくりと国語教室のドアをノックする。
それから、遠慮気味にそのドアを開けた。
「失礼しまーす……」
「あ、大河内。どうしたんだ?」
ふっと振り返って笑顔を見せるのは、紛れもなく藍の愛しの鷹瀬先生である。
藍はもう一度小さく深呼吸をすると、彼女に言った。
「いや、おまえに話したいことがあったからな。探してたんだぞ?」
「ちょうどよかった、私もおまえに話したいことがあったんだよ。ま、そこ座れ」
藍に椅子を勧めた後、先生はおもむろにふたり分のお茶を淹れ始める。
だが藍は勧められた椅子には座らず、彼女に持っていた花束を差し出した。
「あのよ、これ……その、今まで世話になったからな、一応お礼なんだけどよ……」
「おっ、何だよ改まって。ま、散々世話してやったからな」
「あ? どっちが世話してやったってんだよ。おまえに散々振り回された3年間の記憶は、俺の気のせいか?」
そう言う藍の花束を受け取り、鷹瀬先生は無邪気に笑う。
「まーまー、そう言うな。嬉しいよ、ありがとな」
それから先生は、花束に視線を向けて瞳を細めた。
「可愛いな、チューリップの花束か」
藍のあげた花束は、小さなチューリップを貴重とした可愛らしい印象のものだった。
藍は花束を見つめる彼女に、真っ直ぐに視線を向ける。
――チューリップの花言葉は、“愛の告白”。
その花言葉通り、藍は彼女に自分の気持ちを伝えようと意を決し、口を開こうとした。
……その時だった。
「なあ、大河内。おまえにさ、かなり前だったけど……光源氏の話、したよな?」
「え?」
先にそう言われ、藍は慌てて出かかっていた言葉を飲み込む。
それから、小さくコクンと頷く。
鷹瀬先生は藍のあげた花束をそっと机の上に置くと、その綺麗な顔に微笑みを浮かべた。
藍はそんな先生の表情に、漆黒の瞳を細める。
そして、ふと複雑な表情をした。
その先生の表情を見た藍は、あることに気がついたのだった。
あの時と同じ……自分に好きな男の話をした時と同じ表情を、目の前にいる先生がしていることに。
女性としてのその表情は普段の元気で明るい彼女のものと印象が全く違い、見違えるほどに色っぽい。
藍はそんな彼女の笑顔に見惚れつつ、言葉を失っていた。
先生はおもむろに、花瓶に生けてある花束に目を向ける。
それは……真っ白な薔薇を貴重とした、豪華で大きな花束であった。
そして白い薔薇の花を見つめたまま、鷹瀬先生はこう言ったのだった。
「今日な、その光源氏からプロポーズされたんだよ。この真っ白な花束と一緒にな」
「……え?」
藍は一瞬、自分の耳を疑った。
そして改めて鷹瀬先生を見つめる。
彼女の中性的な顔には、この上なく幸せそうな笑みが宿っていた。
藍は突然聞かされた言葉に何と言っていいか分からず、何度も漆黒の瞳を瞬きさせる。
そんな藍の心情も知らず、先生は続けた。
「卒業式の後、光源氏からこの花束を渡されて、結婚しようって言われたんだ。この白い薔薇の花言葉は“私はあなたにふさわしい”僕こそ貴女に相応しい男だと思うから、だって。本当におまえは光源氏かってくらいキザだよな」
「それで、プロポーズに……返事したのか? それに、光源氏って……」
藍はやっとのことで口を開き、そう彼女に聞く。
わざわざ聞かなくても、彼女の顔を見れば彼女が光源氏に何と答えたか分かっているのだが。
愛しそうに白薔薇を見つめた後、鷹瀬先生はすぐに藍の予想通りコクンと首を縦に振った。
「ああ、もちろんオッケーしたよ。私の光源氏は、あの国語の吉沢先生なんだ。新任でこの学校に来た時から、ずっと好きだった……大河内、おまえには前に話聞いてもらってたし、報告しないとなって思ってたんだよ」
「国語の、吉沢先生……」
藍は、ついさっき階段ですれ違った吉沢先生の様子を思い出す。
確かに穏やかな笑顔を湛えるその容姿は美形であり、女生徒にも人気のある教師である。
だが、彼が鷹瀬先生の想い人である光源氏だったなんて。
藍は信じられない現実に目の前が真っ暗になるような感覚に陥りながらも、必死にその顔に笑顔を作る。
「そっか、よかったじゃねーかよ」
「ああ。いろいろありがとな、大河内。おまえは私にとって、特別な生徒だったよ。結婚したら学校も辞めるからな……教師生活最後の担任がおまえのクラスで、本当によかったって思ってるよ」
「特別な、生徒……」
自分は、彼女にとって生徒の域を超えることは決してなかったのだ。
そう改めて強く感じ、藍はぎゅっと締め付けられる胸に手を当てる。
だが生徒としての自分を、鷹瀬先生は大切に思ってくれていた。
それが分かっただけでも、少しだけ救われた気がする。
そう思い直し、藍は漆黒の瞳をおもむろに伏せた。
そしてふっと瞳を開き漆黒の前髪をかき上げると、端正な顔に笑顔を浮かべた。
それは先程の作ったものとは違い……今度は、心からの祝福の微笑み。
「よかったな、本当に。幸せになれよ」
そう言って、藍はスッと手を差し出した。
鷹瀬先生はにっこりと藍に笑いかけると、その手を握った。
しなやかで柔らかな、彼女のあたたかい手。
じわりと心に染みてくるようなそのぬくもりに、藍は漆黒の瞳を細める。
それから藍は彼女の手をぎゅっと握り締め、言ったのだった。
「3年間、ありがとな。俺もおまえに、どれだけ助けられたか分かんねーよ。これで俺も……やっと、新しいスタートが切れそうだ」
先生は茶色の髪をそっとかき上げ、そんな藍の言葉に大きく頷く。
「お前も頑張って教師になって、この学校に戻って来いよ」
「ああ。本当に今まで、ありがとな……」
そして、次の瞬間。
藍は握っていた手をふっと引き、彼女の身体を自分の胸に引き寄せる。
それから、ぎゅっと彼女の身体を抱きしめたのだった。
「大河内……」
先生はそんな藍の行動に少し驚いたが、すぐに綺麗な顔に笑顔を浮かべる。
その後、ぽんぽんっと彼の背中を労うように数度叩いた。
藍は鼻をくすぐる甘い香水の香りに瞳を細めると、彼女からふっと離れる。
そしてこの時こそ……藍の心の中に秘められた儚い恋が、終わりを告げた瞬間だった。
それから藍はわざとらしく嘆息をした後、悪戯っぽい笑みを浮かべて彼女に言った。
「それにしても吉沢先生も物好きだな、おまえみたいなガサツで源氏物語マニアな女を選ぶなんてな」
「悪かったな、ガサツでマニアックで。歴史オタクのおまえに言われたくないってのっ」
バシッと藍の背中を思い切り叩き、鷹瀬先生は笑う。
「うるせーな、オタクって言うなっ。最後まで校内暴力してんじゃねーってのっ」
藍はその衝撃に顔を顰めながらも、自分をずっと元気付けてくれた彼女の明るい笑顔を見つめる。
自分の淡い想いは、彼女には届かなかったけれど。
不思議と藍は、その心に清々しさを感じていた。
それから漆黒の前髪をそっとかき上げ、ふっと視線を窓の外に向ける。
そしてそんな藍の恋の卒業を見守るかのように、窓の外には恋じゃなくなった日の空が青々と広がっていたのだった。
*
「結局鷹瀬先生には言わなかったんだ、好きだって」
大河内先生の話を聞き終わり、那奈ははあっと溜め息をつく。
そんな那奈を見て、大河内先生は頷いた。
「ああ。ていうか、あんな状況で言えるかよ。でもまぁ、ちゃんとトドメ刺されたからよ、自分の中ではケジメつけられたんだけどな」
その時のことを思い出してか、漆黒の瞳を伏せて先生は小さく一息ついた。
那奈はそんな先生をじっと見つめた後、ふっと微笑む。
それから先生にピタリと身体を寄せると、自分の腕を彼のものと絡めて言った。
「でもよかった、大河内先生がフラれて」
「あのな、人の辛い思い出をよかったって言うな、おまえはっ。ま、でもよ……」
大河内先生は隣で身体をくっつける那奈に、ちらりと漆黒の瞳を向ける。
それから彼女と腕を組んでいない方の手で、那奈の漆黒の髪を優しく撫でた。
そして照れたようにこう言葉を続けたのだった。
「ま、あの時どうなっていようが、結局はおまえとこうやってるだろーからよ」
「大河内先生……」
那奈はその言葉を聞いて、おもむろに顔を上げる。
そんな那奈を見つめ、大河内先生はふっと笑顔を向けた。
そして。
「那奈……誰よりもおまえのこと、愛してるからな」
おもむろに漆黒の瞳を閉じると、先生は彼女に優しくキスをする。
それを受け入れた後、那奈は嬉しそうに頷いた。
「うん。私も先生のこと、大好きだから」
那奈の言葉に漆黒の瞳を細めた後、大河内先生はもう一度彼女の頭を優しく撫でる。
那奈はそれから、ふと気がついたように口を開く。
「あ、ねぇ、そういえば。もしかして鷹瀬先生の光源氏の吉沢先生って、今のうちのクラスの担任の吉沢先生?」
「……今頃気がついたのかよ、おまえ」
バツの悪そうにそう言って、大河内先生は小さく嘆息した。
那奈は逆に、興味深々な表情を浮かべる。
「へーえ、吉沢先生って、若い頃はモテてたんだぁ。確かに若い頃は格好良さそうだった顔してるし、穏やかで優しいけどね。ふーん、そっかぁ」
「おまえっ、絶対学校で余計なコト言うなよなっ!?」
慌てたようにそう言う大河内先生に、那奈はくすくすと笑った。
「どうしよっかなぁ。じゃあ、口止め料払ってよ」
「……口止め料?」
訝しげな顔をする大河内先生に、那奈はにっこりと微笑む。
そして、こう言ったのだった。
「うん、口止め料。キスして、先生」
「何だ、そんな口止め料なら、いくらでもしてやるよ」
那奈の言葉にニッと笑みを浮かべると、先生は彼女の顎をくいっと持ち上げる。
それから彼女に、柔らかで優しい口止め料を払ったのだった。
那奈は先生の広い胸に身体を預けた後、悪戯っぽく笑う。
「また何か賭けて勝負しようねっ、先生っ」
「あ? もうこんな恥ずかしいこと、正直こりごりだぜ……でもな、やるんなら次は負けねーからなっ」
そう言って先生は、那奈の身体を強くぎゅっと抱きしめたのだった。
……大河内少年の淡い恋心は、儚く散って綺麗な思い出と化してしまったけれど。
でも今は、もっと大切な想いが彼の心をあたたかく満たしている。
そして自分に身体を預ける大切な人の体温を感じながら、大河内先生は今の幸せをかみ締めるかのように愛しそうに漆黒の瞳をふっと細めたのだった。
Another Season -FIN-
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