「ねぇ、鳴海先生って……あの鳴海先生だよね」
 そこまで大河内先生の話を聞いた那奈は、瞳を数度ぱちくりとさせる。
 自分の知っている数学の鳴海先生は、いつも精密機械のように時間にも正確で近寄り難く、フレンドリーな雰囲気皆無の厳しい教師というイメージが強い。
 そんな鳴海先生の人間的な内面が垣間見れて、那奈は意外に思いながらも少し自分の中の彼に対しての印象が変わった気がした。
 大河内先生が鳴海先生を尊敬しているということは聞いていたが、そんなことがあったなんて。
 それに今とあまり変わっていない大河内先生の子供っぽい行動に、那奈は思わず微笑みを浮かべてしまう。
「何だよ、ニヤニヤしてよ」
 そんな那奈の表情に気がつき、大河内先生は首を傾げる。
 那奈はくすくすと笑いながら、その問いに答えた。
「先生って、昔から本当に変わってないんだね。何だか言動が単純で、可愛い……」
「うるせーなっ、可愛いって言うなっ。悪かったな、単純でよ」
 漆黒の瞳を愛しそうに細める那奈とは逆に、大河内先生は拗ねたようにテーブルに頬杖をつく。
 那奈はまだ笑いながら、ちらりと彼に目を向けた。
「何か高校生の先生、頭をヨシヨシって撫でてあげたいカンジなんだもん。あ、今もしてあげたいけど」
「全っ然嬉しくねーぞ、それっ。ていうか、するなよっ!?」
 ムッとした表情を浮かべて自分の行動を警戒する先生の様子に、那奈はさらに楽しそうに笑う。
 それからお茶を飲んで一息ついた後、改めて大河内先生に言った。
「それからどうなったの? 鷹瀬先生のこと、まだ諦めなかったんでしょ?」
「ん? ああ、まぁな。でもなかなかそんなこと、鷹瀬本人には言えなかったんだけどよ……高校3年になって、俺はあいつの担任のクラスになったんだ」

 Memory6 裸足の女神

 鷹瀬先生の涙を見たあの日から、かなりの時間が経った。
 相変わらず藍は彼女に対しての想いを胸に秘めながらも、恋に勉強に充実した高校生活を送っていた。
 この時の藍にとっては彼女と話をするだけで楽しかったし、幸せだったのである。
 もちろん自分が彼女の特別な存在になれればいいと、そうは思っていたのだが。
 だが、自分が気持ちを伝えることによって今の親しい関係が壊れるかもしれないということが、正直怖かったということもあった。
 ただでさえ、自分と彼女は生徒と教師という難しい立場である。
 それに先生は、涙を見せたあの日以来一切その話をしてこなかった。
 藍は例の光源氏と先生がどうなったのか気になりながらも、そのことを直接聞けないでいたのだった。
 そして高校3年になった藍は、その想いを寄せる鷹瀬先生の担任クラスになった。
 もちろん藍にとって、この上なく嬉しかったのは言うまでもない。
 ――そんな、高校3年のある日の放課後。
 藍はジュースを買おうと、校内に設置してある自動販売機にお金を入れた。
 そしてコーヒーを買うために、ボタンに指を伸ばす。
 ……その時だった。
「あっ! ちょっ、何っ」
 藍は眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、思わず声を上げる。
 スッと伸びてきた細い指が、藍よりも先にアップルジュースのボタンをポチッと押したのだった。
 藍は驚いた表情をしつつ、訝しげに背後を振り返る。
 そんな彼の視線の先にいたのは。
「サーンキュー、大河内ぃっ。奢ってくれるの?」
「鷹瀬先生……」
 そこには、悪戯っぽい笑顔を浮かべた鷹瀬先生の姿があった。
 彼女は出てきたアップルジュースを手に取ると、ふっと笑う。
「何おまえ、そんな素っ頓狂な顔してんの? 冗談だよ、冗談っ」
 そんな鷹瀬先生の言葉に、藍はスッと無意識に眼鏡を外した。
 そしてザッと瞳と同じ色の前髪をかき上げ、じろっと彼女に視線を向ける。
「おまえなぁっ、生徒にたかる教師がどこにいるってんだよ!? ふざけんなよ、コラ」
「どこにって、ここにいるだろ? そうケチケチすんなって」
 あははっとのん気に笑う彼女に、藍はガクリと肩を落とした。
「あのな、おまえ……呆れて、もう何も言う気になんねーよ」
 はあっと大きく嘆息する藍に、鷹瀬先生はくすっと笑う。
 それから自分の財布からお金を取り出し、自動販売機に入れた。
「冗談だって言ってんだろ? 仕方ないな、特別に私もおまえに奢ってやるよ」
「それって奢るって言わねーだろっ、日本語は正しく使えっ」
 藍はもう一度嘆め息をついた後、ようやくお目当てのコーヒーのボタンを押した。
 ガタンと出てきた缶コーヒーを手に取る藍に、先生は楽しそうに笑う。
「本当におまえって、反応が単純で面白いよなー。ついからかいたくなるもんな」
「生徒をからかって楽しむなっ、ったく……」
 そうブツブツ言いながらぐいっとコーヒーを飲む藍に、鷹瀬先生はふっと視線を向けた。
 それから少し表情を変え、ゆっくりと口を開く。
「あのさ、大河内……おまえの進路調査表、見たんだけど」
「あ? ああ」
 藍は珍しく真剣な表情をしている先生の様子に気がつき、漆黒の瞳を彼女に向けた。
 鷹瀬先生はそんな藍を見て、言葉を続けた。
「おまえさ、進路調査表の志望学部が全部経済学部になってたけど……いいのか?」
「いいって、何がだよ」
 そう首を傾げる藍に、先生は茶色の髪をそっとかき上げる。
 それから彼に、こう聞いたのだった。
「前に一度聞いたよな。おまえの将来の夢って何だ、って。おまえ、その時自分が何て答えたか覚えてるか?」
「…………」
 その鷹瀬先生の言葉に、藍は表情を変えて口を噤む。
 彼女が何でそんな話をしだしたか、この時藍には分かったからである。
 藍はもうひとくちコーヒーを飲んで、彼女からふいっと視線を逸らすと言った。
「ああ、覚えてるよ。俺は好きな歴史に携わる職業につきたい、教師になりたいって言った」
「じゃあ、何で全部経済学部なんだ? 歴史系も教育系もひとつもないじゃないか」
 藍は眉を顰め、それからふっと彼女に目を向ける。
「歴史は好きだし、教師にだってなれるならなりてーよ。でもな、夢は夢だ、俺が家業を継がなきゃいけないってことは、小さい頃から分かってたことだしな。親に反抗して、自分の我が侭を通すのも嫌だしよ」
「だから、夢を捨てるってのか?」
 鷹瀬先生は、藍の言葉を遮るようにそう口を挟んだ。
 はっきりとそう言われ、藍は思わず言葉を失う。
「…………」
 漆黒の瞳をふっと伏せると、藍は無意識に俯く。
 歴史の好きな藍は、少し前から社会科教師になりたいと思うようになっていた。
 それと同時に、自分が親の家業の跡を継がなければいけないことも分かっていた。
 だから彼は、自分の教師という夢を今まで誰にも言わなかった。
 だがたった1度だけ、鷹瀬先生に胸に秘めていた自分の夢を話したことがあったのである。
 再放送で見た「3年B組金八先生」に感動したから自分も教師になりたいと話す藍の言葉に、鷹瀬先生は笑うこともなく逆に頑張れと励ましてくれた。
 そんな彼女の激励を嬉しく思いながらも、藍は現実を考えると素直にそれを受け止めることができないでいた。
 自分の夢はあるが、今までいい子として親に大きな反抗もせず育ってきた藍にとって、教師になりたいなど到底言えなかったのだった。
 鷹瀬先生は目の前で俯く藍に、ふうっと溜息する。
「おまえな、そう簡単に夢を諦めんなよ。それとも、そんな軽いもんだったのか? ていうか、どうせいい子ちゃんなおまえのことだから、親にも夢のこと何も相談もしないで自分の中で勝手に結論出して諦めたんだろ」
 藍は顔を上げ、そう言う彼女にじろっと漆黒の瞳を向けた。
「うるせーな、いい子ちゃんで悪かったなっ。おまえに俺の気持ちが分かるってのか!?」
「分かるワケないだろ、んなコト。ただ、担任としてひとりの人生の先輩として、それでいいのかって聞いてるんだ」
 険しい顔をしている藍とは逆に、先生は表情を変えずにそう言った。
 それから、ゆっくりと話を始める。
「以前、おまえに話したことがあったよな。私は高卒な上に素行も最悪な生徒だったんだけど、源氏物語はすごく好きだった。それで、古典教える教師になりたいって思ったんだ。それから気持ちを改めて教員養成所通って教職免許取ったんだけど、学生時代素行悪かったからなかなか採用してくれる学校もなかったんだ。その時、この学校の経営者っていう紳士に会ったんだよ」
「経営者の、紳士?」
「ああ。ほら、去年卒業したけど、おまえのひとつ上の学年に鳴海っていただろ? あいつの親父さんがこの学校の経営者なんだ。鳴海は無愛想で説教大好きの堅物なやつだったけど、あいつの親父さんはめちゃめちゃ穏やかで話の分かる紳士で、私の熱意を認めてくれて採用してくれたんだ」
 藍はその話を聞き、ようやくその顔に少しふっと笑みを浮かべた。
「鳴海先輩のお父さんが……ていうか、先輩が説教好きってよりも、おまえが教師らしくねー言動であの人のこと困らせてたんだろーがよ」
「そういえばおまえって、鳴海のこと尊敬してたんだったな。頼むから、あいつみたいになるなよっ。あいつの顔見ると、何かガミガミ説教されそーで本能的に身体が勝手にUターンしちゃうんだよなぁ」
 鳴海の威圧的な切れ長の瞳を思い出し、先生は微かに眉を顰める。
 それから気を取り直し、藍に言った。
「私は夢を捨てなくてよかったって、今本当に思ってる。それに、おまえが決めたことに文句を言う気はないんだ。ただ私は、おまえに後で後悔して欲しくないんだよ」
「鷹瀬……」
 藍はその言葉を聞いて、何か考えるように漆黒の瞳を細める。
 そんな藍の肩をぽんっと叩き、先生は笑った。
「たまには履いてる重たい靴を脱いで、裸足になってみてもいいんじゃないか? 裸足で歩くと心も軽くなるし、気持ちいいぞ?」
 そう言って茶色の髪をかき上げる彼女の綺麗な笑顔を、藍はじっと見つめた。
 自分はいつも、この彼女の笑顔に助けられている。
 その言葉通り、裸足で縦横無尽に駆け回るそんな彼女の生き方が自分はとても好きなのだ。
 そしてそれは自分には決して真似できない生き方だと、藍は思っていた。
 鷹瀬先生はふっと笑うと、一枚のプリントをおもむろに彼に手渡す。
「ほら、特別に提出期限延ばしてやるからな。もっとよく考えて、もっともっとよく悩めよっ」
 藍は手渡されたそのプリントに、視線を落とした。
 それは……自分が彼女に提出した、進路調査表だった。
 先生は藍が調査表を受け取ったのを見て、ちらりと時計に視線を移す。
「今から私、会議あるからな。んじゃ、よく考えろよ、大河内ぃっ」
 そう言って彼女は、もう一度彼の肩をぽんっと叩いて笑った。
 そして、その時。
「あ、鷹瀬先生。もうすぐ教科別の指導会議、始まりますよ? 一緒に行きませんか」
 おもむろに鷹瀬先生に声をかけてきたのは、吉沢という国語教師だった。
 穏やかな笑顔が印象的な、物腰柔らかな教師である。
 藍は授業を習ってはいなかったが、彼は容姿もいいために女生徒にも人気があるらしい。
 同じ国語教師でも、自由奔放な鷹瀬先生とは正反対のタイプだというイメージを藍は持っていた。
 そんな彼の言葉に、鷹瀬先生はこくんと頷く。
「吉沢先生……会議、一緒に行きましょーか」
 そう吉沢先生に言ってから鷹瀬先生は視線を藍に向けると、ニッと笑った。
 そして彼の頭をグリグリと撫でると、ゆっくりと歩き出す。
「んじゃーなー、大河内ぃっ。ジュース奢ってくれてありがとなっ」
 藍は彼女の言葉に軽く手を上げて答えると、持っているコーヒーをぐいっと全部飲み干す。
 それから小さくなっていく先生の後姿を見送った後、飲み終わった缶を捨てて漆黒の髪をかき上げる。
「あいつ、結果的には奢ってねーっての。ていうか……たまには裸足になって、後悔しないようにか」
 教師という夢はもちろん、藍にはほかにも胸に秘める強い想いがある。
 そして鷹瀬先生と話をして、その想いはますます強くなったのだった。
『おまえには後悔して欲しくない、たまには裸足になってもいいんじゃないか?』
 この彼女の言葉が、頭の中を駆け巡る。
 夢が叶うかどうかは、正直分からない。
 だが教師になりたいという自分の夢を、今度思い切って親に話してみよう。
 ……そして。
 藍はこの時、決心したのだった。
 心にずっとしまっているこの気持ちを……いつかきちんと、彼女に伝えようと。