Memory5 破れぬ夢をひきずって

 藍は賑やかな夜の街を歩きながら、自分の数歩前を歩く鳴海に漆黒の瞳を向けた。
 聖煌学園の副生徒会長である鳴海は、学校内で知らない人はいないだろうというほど名の知れた生徒である。
 もちろん藍も例外ではなく、実際に話をしたことはなかったが、彼のことは知っている。
 だが今まで、生徒会長の杜木とふたりで最強コンビと謳われている目の前の鳴海に対して、下級生である自分とは次元の違う遠い存在の人だという意識が強かった。
 そのせいか、藍にとって今のこの状況は妙に落ち着かないものとなっていたのだった。
 しかも自分が喧嘩して暴れているところを、彼にバッチリと見られている。
 素行に厳しそうな鳴海にそのことを説教されるのではないかと、藍は内心ドキドキしていたのである。
 そんな藍の気持ちを、知ってか知らずか。
 鳴海はおもむろに背後を振り返り、ブラウンの切れ長の瞳を藍に向けた。
 その視線を感じて、無意識的に藍は緊張した面持ちになる。
 逆に鳴海は相変わらず表情を変えず、ふと口を開いた。
「俺は副生徒会長を務める、2年Bクラスの鳴海将吾だ。君は、1年Dクラスの大河内藍だな」
 いきなりそう言われ、藍は驚いた表情をした。
 鳴海は誰にでも知られている有名な生徒であるが、自分は所詮大勢の中のひとりのごく普通の生徒である。
 そんな自分のことを何で彼が知っているのか疑問に思いつつも、藍はこくんと頷いた。
「はい。あ……鳴海先輩、さっきはどうもありがとうございました」
 そう言ってぺこりと頭を下げる藍に、鳴海は言った。
「礼には及ばんが、それよりも他校の生徒と揉め事とは感心しない。一体何があったのか説明しろ」
「え? いや、その……」
 鳴海の有無を言わせぬような口調でそう聞かれ、藍は思わず言葉を詰まらせる。
 まさか、想いを寄せる鷹瀬先生に好きな人がいたことがショックでヤケになって喧嘩したなんて、到底言えるわけがない。
 だが、ほかに何とも言いようがないのも事実である。
 どう答えていいのか悩んでいる藍をちらりと見た後、鳴海はこう言葉を続けた。
「君のプライベートなことまで聞く気はないが、生徒会の一員である身としては、我が校の生徒と他校生との揉め事は放っておくわけにはいかないからな。どういう経緯で事が起こったのか、要点を掻い摘んで話せばいい」
 藍は鳴海の問いにどう説明しようかと考える仕草をしたが、ゆっくりと思い出すようにようやく口を開く。
「えっと……道を歩いていたら、さっきのヤツらのひとりと肩がぶつかったんです。それでそいつが、俺に因縁つけてきたから……」
「だから、相手の胸倉を掴んで先に手を出したと言うのか?」
 しどろもどろ言う藍に、鳴海はすかさずそう口を挟んだ。
 藍は図星をつかれ、何も言えずに苦笑する。
 確かに相手が煽ってきたとはいえ、先に殴ったのは間違いなく自分なのだったからだ。
 それにしても、いつから鳴海は見ていたのだろうか。
 そう疑問に思いながらも自分に向けられている彼の視線に萎縮しつつ、藍は言い訳もできずにどう言葉を続けたらいいか考えるような表情を浮かべた。
 鳴海はそんな藍の様子に、はあっと大きく嘆息して言った。
「最近、他校の生徒とうちの学校の生徒が揉め事を起こす事がしばし起こっている。それに、相手に過度に因縁をつけて恐喝をする輩たちがいるとも聞いている。先程の彼らは、そんな問題を起こしている集団だろう。よって、もしこれが問題沙汰になったとしても君は普段は模範生のようであるから、詳細は言わず正当防衛だったと言い張ればそれが通るだろうからな」
「え?」
 鳴海のその言葉に、藍はふと意外そうな顔をする。
 そんな彼の様子に気がついた鳴海は、ちらりと藍に目を向けた。
「何だ、どうかしたか?」
「いえ、鳴海先輩って生活指導とかそういうことに対して堅物で潔癖そうなイメージあったんで……意外だな、と」
 どう考えても先に手を出して喧嘩を吹っかけ、揉め事の原因を作ったのは自分である。
 そして感情的に動いた自分が悪いと説教されるだろうと思っていた藍は、鳴海の言葉に意外な印象を持ったのだった。
 鳴海はそんな藍に、ふうっと小さく嘆息する。
 それから厳しい印象を与える切れ長の瞳を向け、言った。
「生活指導とは、教師が生徒に対して行うものだろう? 言っておくが、俺は教師ではなく生徒だ。ただ俺は、生徒会の一員として今回の件を放っておけなかっただけだ。今回は幸い大きな問題にならずに済みそうだが、今後はくれぐれもあのような感情的で軽はずみな行動は慎め」
 教師ではないと言いつつもやはり生徒らしからぬ鳴海のその言葉に、藍はこくんと頷く。
 それから、ふとあることに気がついた。
 確かに、感情的になって少年たちに喧嘩を吹っかけたのは紛れもなく自分だが。
 でもよく考えると、5人の少年たちをあっという間に伸したのは、自分ではなく鳴海なのである。
 だがそう思いつつも、近寄り難い雰囲気を醸し出している彼を目の前に、恐れ多くもそんなことを言う勇気は藍になかったのだった。
 それに鳴海のそんな行動も、もとはといえばヤケになって暴れる自分を助けるためのものであると思い直し、藍は素直に彼に侘びを入れる。
「迷惑かけてすみませんでした、先輩。俺、気分的にものすごく落ち込むことがあって、どうやってそんな気持ちを解消すればいいか分からずにムシャクシャしてたんで……」
 そう言ってぺこりと頭を下げる藍に、鳴海はちらりと視線を向ける。
 それから、こう言ったのだった。
「喧嘩は感心できないが、暴れて少しは気持ちもすっきりしたか?」
「え?」
 藍は彼のその言葉に、再び意外そうな表情を浮かべる。
 相変わらず無愛想で口調も淡々としてはいるが、この人は見た目よりも怖い人ではないのかもしれない。
 その鋭い切れ長の瞳と完璧主義な性格の印象が強いだけで、実は世話好きで思いやりのある人なのではないだろうか。
 そう思い、藍はスタスタと数歩前を歩く彼を改めて見た。
 そんな視線に気がついた鳴海は、ふと訝しげな表情を浮かべる。
「何だ、何か質問でもあるのか?」
「えっ? あ、いえ……」
 じろっと威圧的な視線を向けられ、藍は慌てて大きく首を振った。
 根はいい人なのかもしれないが、やはり彼が近寄り難い先輩であることは確かなのだった。
 鳴海はそんな藍の様子をちらりと見た後、言葉を続けた。
「何があったかは知らんが、ゆっくりと自分の気持ちを見つめ直してみるといい。何かを諦めるという潔さが必要な場合もあれば、見っとも無いくらい納得いくまで足掻くのもいいだろう。後は、君自身がどうすべきか時間をかけてでもいい、自分の気持ちを見極め考えて決めることだ」
「鳴海先輩……」
 藍はその言葉を聞き、おもむろに鳴海に視線を向けた。
 それから漆黒の瞳を細め、その顔にようやく笑みを浮かべる。
 下手に何があったか干渉されるよりも、今の藍にとって彼のその言葉が何よりも嬉しかったのだ。
 その口調は相変わらず冷たかったが、一歩を踏み出す道標として藍の背中を押すのには十分なものだったのである。
 藍は改めて、ぺこりと彼に頭を下げた。
「ありがとうございます、鳴海先輩」
 鳴海はそんな彼に切れ長の瞳を向けただけで、無言のままスタスタと再び先を歩き始める。
 藍は足早に歩みを進めると、鳴海の隣に急いで並んだ。
 それからふっとその顔に笑顔を浮かべて、言ったのだった。
「俺、今日のことでめちゃめちゃ先輩のこと尊敬しましたっ。あ、それに鳴海先輩、何か格闘技とかやってたんですか? びっくりするくらい喧嘩強くて、見てて興奮しましたよ、俺っ」
「…………」
 藍のその言葉に、鳴海は立ち止まって少し複雑な表情をする。
 それから大きく嘆息し、じろっと切れ長の瞳を藍に向けて言ったのだった。
「俺のことを尊敬するなど、くだらん」
 素っ気無くそれだけ言うと、鳴海は再び足早に歩き始める。
 そんな風に揺れる彼のブラウンの髪を見つめながら、藍はふとすっかり真っ暗になった空を見上げた。
 闇が支配している空には、柔らかな光を放つ月がきれいに顔をみせている。
 そして藍はそんな淡い月光に目を細め、ぽつりとこう呟いたのだった。
「こうなったら、見っとも無いくらい足掻いてみるかな……」


 ――次の日の朝。
 生徒たちの声で賑わうホームルーム前の朝の校舎を、藍は自分の教室に向かって歩みを進めていた。
 思い返してみても、昨日は本当にいろいろなことがあった目まぐるしい一日だった。
 だがそれが逆に藍にとって、自分の気持ちを再確認できるいい機会になったのである。
 一時は感情的になって後先考えずに行動を起こしてしまった藍だが、今の彼の表情は何かを吹っ切れたように晴れ晴れとしている。
 そんな藍に、もう迷いはなかった。
 自分の気持ちに素直に進んで行こうと、強く決心したからである。
 その気持ちとは……。
「おーっす! おはよー、大河内ぃっ」
 背後からぽんっと出席簿で頭を叩かれ、藍はふと振り返った。
 そして、背後から現れたその人物の姿を確認して笑顔を浮かべる。
「あ、おはようございます……鷹瀬先生」
「本当におまえって、優等生なんだか何だか分かんないよなぁっ。面白いヤツっ」
 眼鏡着用の優等生バージョンの藍をまじまじと見つめ、その人物・鷹瀬先生は笑った。
 そんな彼女の様子は、いつも自分の前でみせる元気で明るいものであった。
 確かに真っ赤な夕日に彩られた憂いを帯びた彼女の表情も、ドキドキするくらい色っぽかった。
 だが何よりも、普段のこの明るい笑顔が、藍に元気を与えてくれるのである。
 ……今はまだ、先生にとって自分はただの生徒でしかないけれど。
 自分の気持ちに正直に、見っとも無いくらい納得いくまで足掻こう。
 藍は目の前で無邪気に微笑む先生を一層愛しく感じながら、そう決意を新たにしたのだった。
 先生はそんな藍の決心も知らず、ニッと口元に笑みを浮かべて言葉を続ける。
「大河内ぃ、予習バッチリしてきたか? 今日の古典、昨日言った通りおまえ一番に当てるからなっ」
 それから先生はぽんっと藍の肩を叩いて、茶色の髪をそっとかき上げる。
 そして、ふっと彼の耳元でこう言ったのだった。
「大河内……昨日は本当に、ありがとな」
 先生の吐息が微かに耳にかかり、藍の胸がトクンと鼓動を刻む。
 笑いながらそんな藍の頭をもう一度出席簿でパコッと叩くと、鷹瀬先生はひらひらと手を振り、再びおもむろに歩き出した。
 ふわりと彼女の背中で、茶色の髪が小さく揺れている。
 そんな彼女の後姿を見送った後、藍はその顔に嬉しそうに微笑みを浮かべた。
 そしてゆっくりと、教室に向かって再び歩みを進めたのだった。