そこまで話をした大河内先生は、ふっと一息つくように那奈の淹れたお茶を口に運んだ。
そしてほろ苦いその時の気持ちを思い出してか、無言で漆黒の瞳を伏せて俯く。
那奈はそんな先生をじっと見つめると、彼にピタリと身体を寄せた。
大河内先生はふわりと鼻をくすぐった彼女のほのかなシャンプーの香りに、無意識的に瞳を細める。
そして那奈の頭を自分の胸に引き寄せ、ぐりぐりと撫でて言った。
「あの時は本当にショックだったな……あーおまえが余計なこと聞くからよ、何か思い出してブルーじゃねーかよ」
「ほろ苦い思い出も、月日が経てばいい思い出になるって言うじゃない。あ、もしかして先生、まだ引きずってるとか? そうだったら……ちょっと、妬けるな」
先生の胸に身体を預けて、那奈はそうぽつんと呟く。
大河内先生はぽんっとそんな彼女の頭を軽く叩いた後、溜め息をついた。
「んなワケあるか、何年前の話だよ。ていうかよ、もともとはおまえが聞きたいって言ったんだろ? ったく、だからこんな恥ずかしい話したくなかったんだよ」
ぶつぶつそう言う大河内先生に、那奈はふと漆黒の瞳を向ける。
そして上目遣いでじっと彼のことを見つめ、ゆっくりと言った。
「ねぇ、先生……キス、してくれる?」
「あ? ったく、仕方ねーな」
那奈の言葉にそう言いつつも、大河内先生はスッと目を閉じた。
彼の長い睫毛が、ふっと漆黒の綺麗な瞳にかかる。
それから那奈の顎をくいっと上げると、先生は彼女の唇にそっと自分のものを重ねたのだった。
那奈は柔らかくて甘いその感触に照れくさそうにストレートの黒髪をかき上げ、先生ににっこりと微笑む。
それからぎゅっと彼に抱きつくと、今この瞬間の幸せをかみ締めるように呟いたのだった。
「先生……大河内先生、大好き」
「ああ。俺も好きだぜ、那奈」
彼女の黒髪をそっと撫で、先生はそのハンサムな顔に微笑みを宿す。
そして那奈の前髪を軽く持ち上げると、今度はその額に優しくキスをした。
那奈はその柔らかな唇の感触と身体を包む先生のあたたかい体温を感じ、満足そうに目を細める。
それから顔を上げ、言ったのだった。
「それで、それからどうなったの? 話の続き、聞かせて」
「あ? まだ話すのかよっ!? ったく、もう勘弁しろよな……」
せがむ様な視線を自分に向けている那奈に、先生は大きく嘆息してテーブルに頬杖をついた。
そんな先生の様子に、那奈は大きく頷く。
「ちゃんと約束なんだから、最後まで話してよ。鷹瀬先生と光源氏のことも気になるし、それに失恋した大河内少年のその後も知りたいしねっ」
大河内先生はもう一度はあっと溜め息をついた後、ザッと前髪をかき上げる。
そしてお茶をぐいっと飲むと、ぼそっと呟いたのだった。
「つーか、これってぶっちゃけ軽いイジメじゃねーか? それに勝手に失恋って決めるなよな。まだこの時は、失恋したわけじゃなかったんだからよ」
「え? そうなの? ねぇ早く続き話してよ、先生」
自分の言葉でますます興味深々になった那奈の表情を見て、大河内先生はうっと言葉に詰まる。
そして観念したように、渋々頷いた。
それから大河内先生は、ふと何かを思い出したように顔を上げて話を始めたのだった。
「あ、そうだ。そういえばよ、鷹瀬の話を聞いたその帰りなんだけどよ……」
Memory4 灼熱の人
夕焼けで染まっていた真っ赤な空も、今ではすっかり漆黒の闇で覆われていた。
だが夜の繁華街は煌々と輝くネオンで明るく、これから賑わいを見せ始めようとしている。
そんな繁華街をひとり歩きながら、藍は何度目か分からない溜め息をついた。
そして鬱陶しそうに漆黒の前髪をかき上げて、ぎゅっと唇を結ぶ。
あれから鷹瀬先生と分かれた藍は家に真っ直ぐ帰る気にもなれず、あてもなく繁華街をフラフラと歩いていたのである。
夕陽で赤く染まった、先生の憂いを帯びる表情。
光源氏に恋をするその顔は、学校で自分にみせているものとは明らかに違っていた。
彼女の頬を流れる涙を思い出し、藍は悔しそうにぐっと拳を握り締める。
自分なら、彼女にあんな辛い思いなんてさせないのに。
藍は鷹瀬先生の意中の相手である光源氏に嫉妬し、怒りの感情さえ感じていた。
だがその怒りや嫉妬を解消する方法も見つからず、かと言って自分の胸中にだけ気持ちをしまっておくこともできずに、もやもやとした感情は膨らむ一方だった。
今の藍にできることといえば、せいぜい地面に転がる石を思い切り蹴飛ばすくらいである。
そんな自分が空しくなり、藍は堪えられずにぎゅっと瞳を瞑った。
……その時。
ドンッと肩に衝撃がはしり、藍はふっと閉じていた漆黒の瞳を開く。
正面から歩いてきた人に、思い切り肩が当たったようである。
藍とぶつかったのは、彼と同じ年くらいの少年。
少年は5人いる同じ制服姿の集団の中のひとりであり、そしてその制服は素行の悪いことで有名な近くの高校のものだった。
ふと藍を見て、肩の当たった少年はニヤニヤと薄笑いを浮かべる。
それから周囲の少年たちにちらりと目を向けてから、言ったのだった。
「おー痛ぇなぁっ。どこ見て歩いてるんだぁ? 聖煌学園のおぼっちゃまがよぉ」
「……んだと?」
藍は射抜くような鋭い視線を少年に投げると、ガッとその胸倉を掴んだ。
それから声のトーンを落とし、言い放ったのだった。
「俺は今、半端なく機嫌が悪ぃんだよ。そんなにぶっ飛ばされたいのか、コラ」
「ぶつかってきたのはそっちだろ、それにこっちは5人だぜ? 金出せば大目に見てやるからよ、おぼっちゃま」
からかうようにそう言って笑い、少年は胸倉を掴む藍の手を振り払った。
……その、次の瞬間。
振りほどかれた手を素早く引いてグッと握り締めると、藍は少年の顔面にその拳を叩きつけたのだった。
「うあっ!」
ガッと鈍い音がしたと同時に、少年の身体が無様に吹き飛ぶ。
藍の起こしたそんな突然の行動に、ほかの少年たちは一瞬唖然とした表情を浮かべた。
藍は殴られて倒れた少年を一瞥すると、今度はぐるりと周囲の少年を見て言った。
「……聞こえなかったか? 俺はめちゃめちゃ機嫌悪ぃんだってな。次は誰だ」
「なっ、何しやがる、このっ!」
「構わねえ、やっちまおうぜっ!」
周囲を取り囲んでいる少年たちはその煽るような藍の言葉に表情を変え、そして一斉に彼に襲いかかる。
藍は漆黒の瞳をスッと細め、少年たちを見据えた。
それから自分目がけて放たれた二人目の少年の拳を避けると、その腹部に強烈な膝蹴りを突き上げる。
そして振り返り様、裏拳で思い切り三人目の少年の顔面を殴りつけた。
……ムシャクシャしたこの気持ちを、何とか振り払いたい。
後先考えずに暴れて殴り殴られれば、少しは気が紛れるだろうか。
この時の藍には、自分ではどうしようもない気持ちをこういうことで晴らそうとするしかなかったのである。
だが、昔から何気に喧嘩で負けたことのない藍だったが、さすがに今回は多勢に無勢であった。
四人目の少年に腕を掴まれて羽交い絞めにされると、次の瞬間別の少年の拳が藍の腹部を襲う。
「! かは……っ」
身体にドスッと響くその重い衝撃に、藍は思わずその顔を歪めた。
少年たちは不敵な笑みを浮かべると、からかうようにケラケラと笑い声を上げる。
「おい、さっきまでの威勢はどうした? おぼっちゃま」
「顔は痕が残るからな、やるんなら目立たないところを痛めつけろよ」
藍をしっかりと羽交い絞めにしたまま、背後の少年はそう言って笑う。
藍によって倒されていた残りの少年たちも、その言葉を聞いてようやくよろよろと立ち上がった。
「くそっ、痛ぇじゃねーかよっ。倍にして返してやるからな、覚えてろよっ」
最初に殴られた少年は、藍にじろっと視線を投げて頬を擦った。
だが羽交い絞めにされながらも、藍は怯む様子もみせずに負けじとそう息巻く少年を漆黒の瞳で睨みつける。
その刺すような視線に少年はチッと舌打ちすると、面白くなさそうな表情を浮かべた。
「何だよ、その目は!? 生意気なんだよ、おまえっ!」
そう言ってその少年は、グッと握り締めた拳を大きく振り上げる。
そしてそれが、藍目がけて放たれたと思った……その瞬間だった。
「!?」
藍は目の前で起きた状況に、瞳を大きく見開く。
自分に襲いかからんと唸りを上げていた少年の拳が、いつの間にか割って入ってきた掌にしっかりと阻まれていたからである。
そして藍はその掌が誰のものなのか確認した途端、驚いたように声を上げる。
「な……なっ、鳴海先輩!?」
印象的なブラウンの切れ長の瞳に、同じ色の髪。
少年の拳を受け止めている掌は、聖煌学園の副生徒会長である鳴海将吾その人のものだったのである。
いつの間にかに現れた鳴海は、そのブラウンの瞳をちらりと藍に向けた。
そして次の瞬間、藍を羽交い絞めにしている少年の腕をあっという間に掴むと、ぐいっと捻り上げる。
「あっ、痛たたたっ!」
情けない声と同時に羽交い絞めにしていた少年の腕の力が緩み、藍の身体に自由が戻ってきた。
「何をやっている? これはどういうことだ」
捻り上げていた少年の腕を離すと、鳴海は怪訝な表情を浮かべて藍にじろっと視線を移す。
藍はそんな鳴海に、おそるおそる目を向けた。
「えっと、あの、これは……」
相変わらず近寄りがたい鳴海のその雰囲気と迫力に、藍は何と答えていいか分からずに口篭ってしまう。
だが次の瞬間、鳴海はふと顔を上げてそんな藍から視線を逸らした。
それと同時に、周囲の少年たちがぐるりとふたりを取り囲む。
「聖煌の制服か、そいつの仲間だな!?」
「ふたりまとめてやっちまおうぜっ!」
少年たちは声を荒げてそう言うと、じりじりとふたりに近づいてきた。
だが鳴海はそんな少年たちの様子に少しも慌てることなく、藍に短くひとことだけ言った。
「……下がっていろ」
「えっ?」
藍は自分に向けられたその言葉に、瞳をぱちくりとさせる。
そして、ふっと隣の鳴海が動いたと思った……次の瞬間だった。
「! へっ!?」
藍は思わず声を上げ、大きく瞳を見開いた。
……まさにそれは、あっという間の出来事だった。
襲いかかってきた一人目の少年の拳を軽く左手で受け流すと、鳴海の左拳が少年の腹部に突き上げられる。
そしてその左腕を素早く引き、肘で背後にいる二人目の少年を打ち抜いた。
それから軽く身を翻して三人目の少年に蹴りを入れ、軸足を変えると四人目の少年に回し蹴りを叩き込む。
最後に闇雲に突っ込んできた五人目の少年の拳を軽々と避けると、瞬時に横から強烈な膝蹴りを放ったのだった。
一斉に鳴海に襲いかかった5人の少年たち全員が、藍の目の前で呻き声を上げて無様に地を這う。
そして藍はその状況に、ただきょとんとするしかなかった。
鳴海がどうやって彼らを倒したのか、それすらも把握できなかったくらい一瞬のことだったからである。
鳴海は表情も変えずふと藍に切れ長の瞳を向けると、息ひとつ乱れた様子もなく言った。
「これはどういうことか、詳しく説明してもらう。来い」
「あ、えっ? ちょっ、先輩っ」
ぐいっと強く腕を引かれ、藍はまるで連行されるかのように鳴海に連れられて歩き出す。
それから漆黒の瞳を何度も瞬きさせると、まだ動けないでいる少年の集団と隣を歩く鳴海の顔を、交互に見つめたのだった。