Memory3 赤い河

「泣いて、少しは落ち着いたか?」
 眼鏡を外した漆黒の瞳を鷹瀬先生に向け、藍はそう彼女に声をかけた。
 まだ少し涙の残る潤んだ瞳を細め、彼女はこくんと頷く。
 それからそっと茶色の髪をかきあげると、ぽつりと言った。
「悪いな、大河内……」
 そう言って俯く彼女に、藍はふっと笑う。
「別に何も悪いことなんてねーよ。いつもはもっと巻き添えくらってるからな」
「巻き添えってなんだ、巻き添えって」
 まだ少し無理をしている感は否めなかったが、鷹瀬先生は中性的で綺麗な顔にようやく笑顔を浮かべた。
 そして……そんな憂いを帯びた先生の笑顔は普段見るものよりもずっと色っぽく、藍の胸はドキドキと早い鼓動を刻んでいた。
 ふたりを照らす夕陽が空を真っ赤に支配し、いつの間にか世界の色が塗り替えられている。
 先生のその大人っぽい笑顔も、美しい夕焼け色に染まっていた。
 鷹瀬先生は藍の顔をじっと見つめた後、ゆっくりと言った。
「……何も、聞かないんだな」
 藍はそんな先生にふっと笑うと、その問いにこう答える。
「別に話したけりゃ聞いてやるけどよ、話したくないことを無理に聞く気はねーからな」
「優しいんだな……おまえは」
 藍はその言葉に無言で作った笑みを返しながらも、おもむろに瞳を伏せた。
 自分は……優しくなんて、決してない。
 口では格好つけたような言葉を言っているが、本当は違うのだ。
 藍は、泣いていた理由を聞かないのではない。
 聞けなかったのだ。
 今自分の目の前にいる先生は、藍の知っている彼女とは違っていた。
 その表情は学校での無邪気で明るい彼女のものではなく、明らかに女性としての顔に変わっている。
 それが、藍には分かったのだった。
 そのことに気がついた瞬間、藍は彼女が泣いている理由が何となくだが予想できたのである。
 そしてそれを、彼女の口から直接聞くのが怖かったのだった。
 そんな彼の気持ちを知らない鷹瀬先生は、ふと視線を夕焼け色に染まった赤い川へと向ける。
 そして俯き、呟いたのだった。
「よりによって、光源氏を好きになるなんてな……」
「光源氏?」
 高瀬先生の言葉の意味がよく分からず、藍は彼女に目を移す。
 先生は藍を見て、ふっと悪戯っぽく言った。
「言っとくけどな、光源氏って言ってもローラースケート履いたアイドルじゃないからな」
「バーカ、んなコト分かってるよっ。ていうか寒い上にネタが古いんだよ、おまえは」
 はあっと大きく嘆息する藍に笑うと、先生は風に揺れる茶色の髪をかき上げる。
 だがそれからすぐに再び瞳を伏せ、こう言ったのだった。
「私さ、好きな人がいて……そいつが、源氏物語の主人公の光源氏みたいなヤツなんだよ」
「好きな、人……」
 藍はその言葉を聞いて、ガツンと頭を殴られたような衝撃を受ける。
 やはり、予想通りだった。
 ――先生の、好きな人。
 それは確実に、自分ではない。
 涙の理由が薄々分かってはいた藍だが、実際に彼女自身の口から聞くとショックは大きい。
 ドクドクと心臓が妙な鼓動を刻み、ぎゅっと胸が締め付けられる。
 そして藍は、その見知らぬ光源氏とやらに強く嫉妬してしまっていた。
 だがそんな態度を彼女に悟られまいと、懸命に口を開く。
「光源氏みたいなヤツって、何が光源氏なんだよ?」
 藍の心情を知らない鷹瀬先生は、ふっと再び憂いを帯びた笑顔を浮かべた。
 そんな先生の女性としての表情を見て、藍の胸がちくりと痛む。
 先生は赤い川をじっと見つめた後、それから言った。
「ちょっと前に授業でもやっただろ? 桐壺の巻で、光源氏の容姿はこう書かれてるんだ。“世になくきよらなる玉の男皇子めづらかなるちごの御容貌”とか“この皇子のおよすけもておはする御容貌心ばへ、ありがたくめづらしきまで見えたまふ”とか“ものの心知りたまふ人は、かかる人も世に出でおはするものなりけりと、あさましきまで目を驚かしたまふ”とかな。さ、訳してみよーか、大河内っ」
「ていうか、イキナリ言われて訳せるかっ。要は、とにかく光源氏はすげー容姿端麗だってことだろ?」
「ま、そうだけどな。でもテストでそんな解答書いても、△もやれないぞ」
 藍の答えにふっと笑ってそう言うと、先生は続ける。
「訳はな、“またもないような美しい皇子がお生まれになった”、“成長される皇子の美貌と聡明さが類のないものだった”そして“有識者はこの天才的な美しい皇子を見て、こんな人物も人間の世界に生まれてくるものなのかと驚いていた”だよ。光の君は、世俗を超越する美しさと、そして人を吸引する魅力も兼ね備えていたんだ」
「そんなヤツなんだな……先生の好きな、光源氏も」
 そう呟き、藍は複雑な表情を浮かべた。
 先生は大きく嘆息し、こくんと頷く。
「ああ。しかもタチ悪いことにな、光源氏と同じでプレイボーイなんだよ。今日だって、あいつ……」
 そこまで言って、鷹瀬先生は言葉を切る。
 その瞬間、スウッとひとすじの涙が夕陽に染まった頬を伝った。
 藍はそんな先生の姿をじっと見つめた後、ザッと漆黒の髪をかき上げる。
 それから、ふと口を開いた。
「そういえば源氏物語といえばよ、おまえと同じだよな」
「……え?」
 零れた涙をそっと拭い、鷹瀬先生は藍に目を向ける。
 ちらりとそんな彼女を見て、藍は続けた。
「源氏物語の第3部はよ、主人公が光源氏の息子になるだろ? おまえの名前と同じ、薫だよなって」
「源氏物語の薫は、男だけどな」
 そう言ってから、鷹瀬先生は苦笑する。
 そして俯き、ぽつりと呟いたのだった。
「でも、源氏物語の薫と私は少し似てるかもしれないな。恋に、不器用なところとか」
「先生……」
 再びじわりと涙の溜まった彼女の瞳を見て、藍はいたたまれない気持ちになった。
 今すぐ目の前の彼女を、ぎゅっと抱きしめてやりたい。
 だが彼に、そうする勇気はなかった。
 そんな自分の気持ちを振り払うかのように、藍は再び口を開く。
「そういえば今日授業でやった源氏物語の宇治十帖で、薫の詠んだ和歌あったよな。橋姫の……なんだっけ」
「橋姫の心を汲みて高瀬さす棹のしずくに袖ぞ濡れぬる、だな」
「そうそう、それ。それにも漢字違うけどお前の名前出てくるよな。たかせ、ってよ」
「おー、ちゃんと授業は聞いてるんだな」
 感心したように瞳を細め、先生はふっと笑う。
 藍はニッと口元に笑みを浮かべると、ザッと漆黒の髪をかき上げた。
「当たり前だ、俺は優等生だぜ?」
「あのな、自分で言うな、自分で」
 藍は少し普段の調子を取り戻してきた鷹瀬先生の様子に、安心したように瞳を細める。
 だが……その心の根底にある気持ちは、決して穏やかではなかった。
 源氏物語で薫の詠んだ、その和歌の意味は――“姫君の心を汲んで同情の涙に袖を濡らします“
 そんな和歌のように涙こそ流してはいないが、藍は目の前で悲しい表情をする先生の姿を見て胸が締め付けられるように苦しかった。
 いや正直言うと、歌の意味のように先生に同情しているわけではない。
 藍の胸に渦巻くのは、想いを寄せる先生を女性の表情に変える、光源氏に対しての敗北感。
 そして、胸に湧き上がる強い嫉妬心。
 藍は先生に気づかれないようにぎゅっと唇をかみ締め、溢れ出す感情を抑えることに必死だった。
 それから気持ちと裏腹に、作った笑顔を彼女に向ける。
 鷹瀬先生はそんな藍の心の奥底にある感情に気がつかず、綺麗な顔に微笑みを浮かべた。
「ありがと、大河内……おまえと話せて、気持ちもかなり落ち着いたよ」
「え? あ……いや、何てことねぇよ。別に俺は何もしてねーし」
 藍は少し言葉に詰まりながら、そう言うのがやっとであった。
 そんな藍の言葉に、先生は大きく首を振る。
 そしておもむろに手を伸ばし、藍の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「本当に感謝してるんだよ、ありがとな。お礼に明日の古典、当ててやるからなーっ」
「あ!? ふざけんなよなっ、恩を仇で返してんじゃねーぞっ」
 乱された漆黒の髪を手櫛で整えながら同じ色の瞳を自分に向ける彼に、先生はふっと笑った。
 それからいつもの元気な笑顔を浮かべて、こう言ったのだった。
「ウジウジ悩んでるのなんて性に合わないからな。おまえと話せて、本当によかったよ。相手が光源氏だろうと何だろうと、自分の気持ちに正直に、これにめげないで明日から頑張れる気がするよ」
 藍はそんな彼女の言葉に、ふと一瞬複雑な表情をする。
 だがそれを隠すように黒の前髪をかき上げた後、頷いた。
「そっか、元気になったんならよかったよ。明日から、光源氏振り向かせるためにまた頑張れよ」
「おうよ、任せとけっ」
 ニッと笑い、鷹瀬先生はビッとVサインを出した。
 そんな先生の行動に、藍は苦笑する。
「ていうかその相手、本当に光源氏みたいな絶世の美形なのか? おまえの感覚って、ちょっとどこか狂ってるからなぁ……」
 微妙に寒くて古いその言動と、バイクに乗っている時の先生のかなりイマイチな服装のセンスを思い出し、藍は思わずそう呟く。
 先生はそんな彼の言葉に、不思議そうに小首を傾げた。
「何だよ、どーいう意味だソレ?」
 藍はその問いには答えずにふっと微笑むと、先生から視線を逸らす。
 そして目の前に流れる赤い川をじっと見つめて、彼女に気づかれないようにそっと溜め息をつく。
 少し元気を取り戻した彼女とは逆に、彼の心には何とも言いようのない痛みが生じていた。
 だがその感情を表に出すこともできず、一層醜い感情は大きく膨れ上がる一方で。
 それが自分でも嫌というほど分かり、藍は耐え切れずに綺麗な漆黒の瞳をぎゅっと瞑った。
 そんな藍の混沌とした気持ちを後目に、夕焼け色に染まった赤い川はサラサラと静寂を湛え、そしてただ清らかに流れていたのだった。