「それでその古典の鷹瀬先生って人が、先生の高校時代好きだった人なんだ」
 自分の淹れたお茶をひとくち飲んで、那奈は大河内先生に向ける。
 先生は照れたように顔を赤らめ、那奈から視線を外してテーブルに頬杖をついた。
「まぁな。ていうかこんな話、恥ずかしくてやってらんねーぜ……」
「何よ、先生がボーリングで負けたんでしょ? それで、その鷹瀬先生ってどんな人?」
 興味深々な那奈の様子に大きく嘆息しつつも、先生はゆっくりと昔を思い出すように話を続ける。
「どんなヤツって、本当にガキみたいなやつだったな。生徒よりも子供な教師だったぞ。そうそう鷹瀬のヤツ、当時生徒だった鳴海先生が苦手でよ、いつも逆にあの人に説教されてたんだぜ」
「鳴海先生って、あの数学の鳴海先生? それに子供みたいって、大河内先生ってば人のこと言えない……」
 そう言ってくすくす笑い出す那奈に、先生はムッとした表情を浮かべる。
 それから、鬱陶しそうに漆黒の前髪をザッとかき上げた。
「笑うな、コラ! 悪かったな、ガキでよっ。ていうか、鳴海先生はあの数学の鳴海先生だよ。昔から近寄り難い雰囲気醸し出してたからな、あの人は。鳴海先生は高校の時の、俺の1つ上の先輩でもあるんだよ」
 噂の鳴海将吾先生とは、大河内先生と同じ聖煌学園で教鞭を取っている数学教師である。
 那奈たちのクラスの数学も彼が担当しているのだが、大河内先生の言うように鳴海先生は厳しく近寄り難い雰囲気を持っている。
 その上にテスト問題も容赦なく難しく、いつも数学の平均点は低いのだった。
 自分の知っている人が話に出てきて、那奈はさらに楽しそうな表情をする。
「それで、それから? その鷹瀬先生とはどうなったの?」
「あ? ああ、それからなんだけどよ……」
 急かすような那奈にちらりと視線を向けると、大河内先生は再び話の続きを始めたのだった。

 Memory2 ある密かな恋

 ――例のドキドキバイク登校事件から、数週間。
 あの日以来、藍は頻繁に鷹瀬先生と話をするようになっていた。
 元々歴史が好きな藍は、日本史に関わりのある古典にも少し興味があり得意教科だった。
 そのため、彼女とも意外と話が合ったのである。
 そして先生と話をしていくうちに、藍は日に日に彼女のことが好きになっていた。
 相変わらず派手にバイクで通勤してくる豪快でアクティブな面もあれば、古典の教師だけあり古典文学、特に『源氏物語』に夢中だという意外な趣味も発見した。
 自分も夢中になって話をできることがある藍にとって、楽しそうに源氏物語について語っている鷹瀬先生の気持ちが分かるし、そんな生き生きとした彼女の姿がとても好きだったのである。
 そして何より、いつも明るい彼女から藍は元気をもらっていた。
 藍は職員室を覗き、愛しの鷹瀬先生の姿を探す。
 その時だった。
「おーっす、大河内ぃっ」
 突然ぎゅっと後ろから抱きしめられ、藍は驚いた表情を浮かべる。
 柔らかな感触がし、それと同時にあたたかい人の体温を感じた。
 藍は顔を真っ赤にさせ、慌てて振り返った。
「なっ、鷹瀬先生っ」
「何いっちょまえに顔赤くしてんの、おまえ? ていうか、眼鏡外しちゃえっ。もう授業終わったんだから、優等生面しなくていいんだぞ?」
 彼の反応に笑うと、藍に抱きついているその人物・鷹瀬先生は藍のかけている眼鏡をスッと外す。
 藍はまだ顔を赤らめたまま、漆黒の瞳を彼女に向ける。
「バカ、返せコラ! 生徒からかうんじゃねーぞ、この不良教師っ」
「おー見事にスイッチ切り替わるなー。本当に面白いな、おまえって」
 藍の胸ポケットに彼の眼鏡を入れると、鷹瀬先生は綺麗な顔に無邪気な笑みを浮かべた。
 藍はそんな先生の笑顔にドキドキしながらも、ふいっと照れたように先生から目を逸らす。
「ていうかよ、今日の授業でわかんねートコあるから放課後教えろって言っといただろ? どこフラフラしてんだよ、探したんだぞ……って、痛っ!」
 そう言ってむうっとむくれたような顔をする藍の頭を、鷹瀬先生はバシッと豪快に叩いて笑った。
「それが教えてもらう態度か、おまえは。まーいいだろう、この私が特別に教えてやる。ここじゃ何だから、国語準備室に行くか?」
「おまえこそ、校内暴力してんじゃねーぞっ」
 叩かれた頭を押さえ、藍は彼女に目を向ける。
 先生はそんな藍に構わず、国語準備室へと歩き出そうと回れ右をした。
 ……その時だった。
「げっ、ヤバいっ。大河内、逃げるぞっ」
「は? 何言ってんだよ」
 藍は、突然そう言って足早にこの場を去ろうとする彼女の様子に首を傾げる。
 そして、ふと顔を上げた。
 そんな彼の目の前に立っていたのは――ふたりの、男子生徒。
 ひとりは端正な顔立ちではあるが、見るからに近寄り難い雰囲気を醸し出す少年。
 そしてもうひとりは逆に物腰柔らかで、美形という言葉に相応しい整った容姿を持つ少年。
 彼らは違う学年の生徒であったが、藍でも知っているくらい学校では有名な生徒だった。
「鷹瀬先生、どういうことか説明していただけますよね?」
 威圧的な声で、切れ長の瞳の近寄り難い雰囲気の少年がそう先生に言い放つ。
 先生はその言葉に、うっと言葉を詰まらせた。
 それから、小声でぼそっと呟く。
「鳴海か、厄介なヤツに見つかったなぁ」
「厄介で悪かったですね、先生。それよりも、何故昨日の生徒会会議を無断で欠席されたのか、納得できるように説明していただけませんか?」
 そう言ってブラウンの切れ長の瞳を向け、その生徒・鳴海将吾(なるみ しょうご)はわざとらしく嘆息した。
 鳴海は藍のひとつ上の学年の生徒で、聖煌学園の現在の副生徒会長である。
 成績も常に学年トップで、優等生というよりもまるで説教をする様は教師のような雰囲気さえ感じる。
 先生はバツの悪そうな表情をしながら、鳴海の隣のもうひとりの少年に目を向けた。
「鳴海のやつ、相変わらず地獄耳だな……ていうか杜木、おまえ黙ってないで少し助け舟くらい出せっ」
 杜木と呼ばれたもう一人の少年は、神秘的な色をした深い漆黒の瞳を細める。
 そしてにっこりと美形な顔に微笑みを浮かべ、物腰柔らかな声で言った。
「困っている女性を助けてあげたいのは山々だけど、そんなことしたら今度は俺が将吾に怒られるからね。将吾に会うなんて本当に運が悪いな、先生」
「杜木、生徒会長はおまえだろう? 何故そんなに他人事なんだ」
 鳴海はじろっと切れ長の瞳を自分の隣にいる彼に向け、はあっと呆れたように溜め息をついた。
 もうひとりの美形の少年・杜木慎一郎(とき しんいちろう)は、聖煌学園の現・生徒会長である。
 鳴海と同じく成績優秀な生徒で、その上美形で物腰柔らかで誰にでも優しいため、女生徒にも人気の学園の有名人だった。
 そしてこの最強コンビと名高い生徒会長二人を目の前に、下級生の藍はただきょとんとすることしかできなかった。
 そんな藍の耳元で、おもむろに鷹瀬先生は呟く。
「大河内、逃げるぞっ。ダッシュだっ」
「え? ……わっ!」
 次の瞬間、思い切りぐいっと腕を引っ張られ、藍は驚いたように瞳を見開いた。
 鷹瀬先生は藍の腕を掴むやいなや、その場を駆け出したのである。
 そんな先生を追わず、生徒会長である杜木はふっと楽しそうに言った。
「鷹瀬先生らしいね、逃亡なんて」
「笑い事じゃないぞ、杜木。まぁいい、後で鷹瀬先生には欠席の理由を筋道立てて説明してもらうからな」
「説明も何も、ただ単に会議をサボっただけだと思うのは俺だけかな?」
 まるで他人事のように笑う杜木の言葉に、鳴海は大きく嘆息した。
「まったく、生徒会長のおまえが鷹瀬先生に甘いからこうなるんだぞ。分かっているのか? 以後こういうことが起こらないように、先生には必ず後で欠席の理由を聞くからな」
 鳴海はそう言ってブラウンの切れ長の瞳を細め、走り去る二人の後ろ姿を呆れたように見送ったのだった。
 そしてしばらく走った後、鷹瀬先生は彼らが追ってこないのを確認してホッと胸を撫で下ろす。
 それから、藍の腕を掴んでいた手を離した。
「はあっ、1度くらい会議サボったからってうるさいんだよな、鳴海のやつ。ていうか、うまく逃げられてよかったよ」
「あ? 全然よくねーよっ。教師が会議サボるんじゃねーっての」
 すっかり巻き込まれた藍は、ふうっと漆黒の髪をかき上げる。
 そんな彼に、先生は悪戯っぽく言った。
「優等生だな、おまえって。仕方ないだろ、生徒会の副顧問だか知らないけどなりたくてなったわけじゃないし。それに、昨日はさっさと仕事終わらせてバイク走らせたかったんだよ」
「そりゃ鳴海先輩も怒るわな、こんな不良教師」
 ちらりと呆れたような視線を向ける藍に、鷹瀬先生は悪びれなく笑う。
 それからバシッと彼の肩を叩くと、再び歩き出した。
「国語教室行くぞー、大河内ぃっ」
「本当におまえってヤツはよ……」
 小さく嘆息しながらも、藍はふっとその顔に笑みを浮かべる。
 それから、おもむろに視線を落とした。
 しっかりと自分の腕を握っていた、彼女のしっとりとした手の感触。
 想いを寄せる先生のしなやかな手のぬくもりを思い出し、藍は嬉しそうに漆黒の瞳を細める。
 そして彼女に続いて、国語準備室へと歩き出したのだった。
 鷹瀬先生は、藍のそんな密かな恋心に気がついていない。
 だが彼女と一緒の時間を過ごせるだけで、この時の彼の心は満たされていたのだった。


 ――そんな、ある日の放課後。
 図書館で調べ物を終えた藍は、すっかり生徒の姿も疎らになった校舎を歩いていた。
 そして靴箱で靴を履き替え、下校するために校門を出た。
 図書館の閉館時間ギリギリまで学校にいたため、目の前に広がる空は夕焼けで赤く染まり始めている。
 藍は校門を出て、地下鉄の駅へと進路を取る。
 そして、学校と駅の間にある橋に差しかかった。
 ……その時。
 ちらりと眼鏡の奥の漆黒の瞳を時計に向けた後、藍はふと顔を上げる。
 そして次の瞬間、漆黒の瞳に映った光景に思わず立ち止まった。
 彼の視線の先には、橋の上からじっと流れる川を見つめているひとりの女性の姿。
 その女性とは……。
「鷹瀬、先生?」
 眼鏡の奥の綺麗な瞳を細め、藍は彼女の名前を呼んだ。
 彼の声にその女性・鷹瀬先生は、ふっと顔を上げる。
 彼女の肩まで長さの茶色い髪が、ふわりと揺れた。
 藍はそんな彼女の顔を見て、一瞬その場を動けなかった。
 彼女の瞳から溢れているのは……大粒の涙。
 いつもの元気のいい印象は目の前の彼女にはなく、その表情は憂いを帯びていた。
 そしてそんな普段見ない先生の様子に驚きつつも、藍は彼女の潤んだ瞳に見惚れてしまっていたのだった。
 それからハッと我に返って気を取り直すと、ゆっくりと彼女に近づいて言った。
「鷹瀬先生、どうしたんですか?」
「あ、大河内……」
 ゴシゴシと慌てて涙を拭い、先生はその綺麗な顔に無理に笑顔を作る。
 それから泣き顔を見られないようにと、彼から視線を逸らした。
「別に、何でも……」
「先生、何でもないことないでしょう?」
 眼鏡の奥の瞳を真っ直ぐに向け、藍ははっきりと先生にそう言った。
 それから歩みを進め、彼女のすぐ隣に並ぶ。
 鷹瀬先生はそんな藍の顔を見上げ、それからふっと俯く。
 そして。
「大河内……私……っ」
 藍の胸に身体を預けると、先生は再び堪えていた涙をぽろぽろと流し始めた。
 そんな彼女の行動に驚きつつも、藍はその身体をそっと支える。
 今自分の胸の中に想いを寄せる先生がいるなんて、まるで夢でも見ているような感じである。
 だが、自分の知っている元気な先生の姿はそこにはない。
 彼女の頬をつたう涙の理由が分からず、どうしたらいいか迷った藍だが……。
 ふっとひとつ息をつくと、まだ泣きじゃくっている彼女の身体を遠慮気味に抱きしめる。
 そして優しく眼鏡の奥の漆黒の瞳を細め、そっと彼女の頭を撫でたのだった。