――月の綺麗な、ある休日の夜。
 ガチャリと鍵の開く音が、高級マンションの静かな廊下に響いた。
「ただいまぁっ」
 その少女・今宮那奈は靴を脱いでスタスタと部屋にあがると、慣れたようにパチッと部屋の電気をつけた。
 そして彼女に少し遅れて部屋に入った彼・大河内藍は、そんな彼女の様子に眼鏡の奥の穏やかな瞳をふっと細める。
 それから、ふわりとした優しい声で言った。
「おかえりなさい、今宮さん」
 那奈は振り返ってにっこりと微笑み、悪戯っぽく笑う。
「そういう先生も、お帰りなさい」
「ええ。ただいま」
 先生は那奈の頭にポンッと軽く手を添え、羽織っていた上着を脱ぎながら自宅のリビングへと足を向けた。
 そんな大きな彼の手の感触に嬉しそうに笑顔を浮かべ、那奈も彼の後に続く。
 学校が休日の今日、那奈と大河内先生のふたりは一日外に出かけていた。
 いわゆる、恋人同士のデートというものである。
 そのデートを終えて夕食を取った後、ふたりは先生のマンションへと帰ってきたところだった。
 キッチンに入った那奈は、リビングで今日行った博物館のパンフレットを眺めている先生に声をかける。
「先生、今お茶淹れますね」
「あ、すみません、ありがとうございます。それにしても『新撰組展』、とても充実していて面白かったですね」
 子供のように目をキラキラさせ、先生は満足そうにそう言った。
 那奈はお湯を沸かしながら、こくんと頷く。
「はい。でも、やっぱり新撰組って人気なんですね。すごく人もいっぱいだったし、女の人も結構たくさんいましたね。展示見てる時も少し列ができてたし」
「そうですね、女性からお年寄りまでたくさんの人でしたね。実際にあのドクロの稽古着や刀などを見ていると、つい幕末に思いを馳せてしまって時間が経つのを忘れてしますよ」
 思い出すように楽しそうに漆黒の瞳を細める大河内先生に、那奈はちらりと目を向ける。
 それからふたり分のお茶を淹れた後、リビングへと移動した。
 那奈はパンフレットに視線を向けている先生の顔を覗き込み、それからふっと意味あり気に笑う。
 そして先生にお茶を出した後、こう口を開いた。
「先生、博物館の後もすごーく楽しかったですねっ」
「えっ? え、ええ。そ、そうですね」
 そんな那奈の言葉に、先生は少し動揺したような様子で返事をする。
 それから誤魔化すように彼女の淹れたお茶をひとくち飲み、早口で話を続けたのだった。
「そ、そういえば新撰組展といえば、珍しいものも展示されていましたね。新撰組局長・近藤勇が愛用していた湯呑みとか、新撰組二番隊隊長・永倉新八の着衣もありましたよね。それに直筆の書物など、見ていて飽きませんでした。それに……」
「ねぇ、先生」
 ふと先生の言葉を遮り、那奈はじっと何かを訴えかけるように漆黒の瞳で彼を見つめる。
 大河内先生はそんな那奈の様子に言葉を詰まらせ、コホンと咳払いをした。
 それからスッと眼鏡を外して前髪をかき上げると、プライベートバージョンに変わった先生は途端にバツの悪そうな顔をする。
 那奈はにっこりと微笑んだ後、自分から目を逸らしてテーブルに頬杖をつく彼に言った。
「先生、約束忘れてないよね?」
「……何だよ、覚えてやがったのかよ」
「当たり前じゃない。ちゃーんと勝負して、私が勝ったんだからね」
 そう言って那奈はカバンから一枚の紙を出し、テーブルに置く。
 先生は眉を顰めると、面白くなさそうに呟いた。
「ちゃんとってな、ハンデ50もやったんだぞ」
「何よ、やる前はハンデ60でも余裕だぜとか言ってたくせに」
「うるせーなっ、おまえが普段はスコア100くらいだって言うからそう言ったんだよっ」
 那奈はムキになる先生にくすくす笑った後、その紙――ボーリングのスコア表に視線を移す。
 博物館で『新撰組展』を堪能した後、ふたりはボーリングに行った。
 そしてそこで、那奈は先生と約束をしたのだった。
 ボーリングで勝負して勝ったら、ある話を自分にしてくれと。
 やる気十分ですでに眼鏡を外して準備万端だった先生は、その内容を聞いて一瞬顔を顰めはしたが、すぐに勝つ自信満々で那奈の申し出に承知したのだった。
 そして那奈にハンデ50をつけ、ボーリングに興じたわけだったのだが。
 結果は先生がスコア178、那奈が130にハンデ50で合計180だったのである。
「今日は私にしては調子よかったのよ。いつもは100くらいだから、嘘言ってないもん」
「くそっ、絶対今度リベンジしてやるからなっ。覚えてろよっ」
 本当に悔しそうにそう言うと、先生は再び前髪をザッとかき上げた。
 那奈はそんな先生を見て、楽しそうに微笑んで言った。
「先生、約束だからね。あのこと、ちゃんと話してよね」
「……新撰組の話なら、喜んで目一杯してやるけどよ」
 気が進まないようにそう呟く大河内先生に、那奈は大きく首を振る。
「新撰組の話もいいけど、それはまた後でね。さ、お話してよ。先生の、高校時代好きだった人の話」
「何でそんなこと聞きたがるんだ? 新撰組の話の方が数百万倍面白いぞ」
 大河内先生はそう言って、はあっと大きく嘆息した。
 那奈は話が始まるのを今かと今かと待つかのように、じっと彼を見つめている。
 そんな視線を感じてちらりと那奈を見た後、先生はぐいっとお茶を飲んで観念したように口を開いたのだった。
「仕方ねーな、ったくよ……あれは、高校1年の5月くらいだったっけな」

 Memory1 まっかなシルク

「どう考えても、間に合わないよな……」
 眼鏡の奥の瞳を時計に向けてそう呟きつつ、その少年はカバンを小脇に抱えて駅までの道のりを懸命に走っていた。
 深緑のブレザーに、胸には羽のエンブレム。
 都内有数の名門進学校と言われている聖煌学園(せいおうがくえん)の制服を身に纏ったその少年・大河内藍は、瞳と同じ色を湛える漆黒の髪をおもむろにかき上げる。
 この日見事に寝坊した藍は、今まさに学校に遅刻しそうな状況下におかれていた。
 いや、きっと遅刻するだろうと言った方が正しい時間である。
 だが一応学校では優等生で通っている藍は、最後の足掻きと言わんばかりにダッシュしていたのだった。
 眼鏡の奥の穏やかな印象の瞳も、困ったように微かに見え始めた駅の入り口に向けられている。
 始業まではまだ少し時間はあるのだが、ギリギリで間に合う電車がもう発車してしまいそうなのである。
 そして。
 バタバタと人の波を掻き分けながら必死に走っていた、その時。
「うわーヤベー遅刻しそうだぜーって顔して走ってる、そこの高校生の君っ」
 ふと耳に、突然そんな声が飛び込んできた。
 藍は自分のことだろうかと歩調を緩め、その声のした方向を探す。
 きょろきょろと周囲を見回す藍に、その声の主は笑った。
「そうそう、そこの君っ。こっち、こっち」
 そう言って自分を手招きしているのは、ひとりの女性だった。
 ゴーグルをはめているためにその顔は分からないが、肩ほどの茶色の髪が小さく揺れている。
 そして彼女がまたがっているのは、女性が乗るにしてはごついバイク。
 だが一番最初に目に入ったのは、その何とも言えないミスマッチな服装だった。
 春らしいパステルカラーのジャケットの下は、バイクに乗る時に着るとは思えない短めのワンピース。
 それに加え何故か首には、洋服の色と全く合っていない真っ赤なシルクのスカーフが巻かれている。
 そして風に靡く真っ赤なスカーフを見て数世代前の仮面ライダーみたいだと、この時の藍は思ったのだった。
 女性はニッと口元に笑みを浮かべると、藍に向かってポイッとヘルメットを投げる。
 それを慌てて受け取った藍は、きょとんとした様子で瞳をぱちくりさせた。
「何ボーッとしてんの? さっさと乗れっての」
「えっ?」
 そう女性に言われ、藍は驚いた表情を浮かべる。
 どうやらこの女性は、遅刻しそうな自分を送ってくれるようである。
 藍は遠慮気味に、言われた通りヘルメットをかぶって彼女の後ろに座った。
「さ、しっかり掴まれーっ。行くよぉっ」
「つ、掴まれって……わっ!」
 どこに掴まっていいのか藍がためらっているうちに、女性はバイクを発進させる。
 藍は慌てて咄嗟に女性にしがみ付き、体勢を整えた。
 そして頬で風を感じながら、ドキドキと胸の鼓動を早める。
 遠慮気味に掴んでいる手から伝わる、柔らかくてあたたかな感触。
 そして、ふわりと微かに漂う女性の甘い香水の香り。
 服のセンスはかなりイマイチだが、スカートから伸びる彼女の足は長くてスラリとしている。
 それに、キュッと締まった腰のくびれ。
 小さくもなく大きすぎでもない、程よい胸の膨らみ。
 スタイルのいい女性の姿を改めて見て、藍はカアッと顔を赤らめた。
 そんな藍の心情を知ってか知らずか、女性は笑う。
「もっとしっかり掴まってないと、振り落とされるぞーっ」
「えっ? そ、そんなこと言っても、どこに掴まれば……っ」
「さ、スピードあげるからなーっ」
 しどろもどろに呟いた藍の言葉は、どうやら吹き付ける風にかき消されて女性には届かなかったようである。
 ――それから、数十分後。
 ふたりを乗せたバイクが、学校の付近に到着した。
(か、身体に悪い、悪すぎる……)
 はあっと大きく溜息し、藍はバイクから降りてヘルメットを取る。
 それから女性にそれを返し、ぺこりと頭を下げた。
「あの、どうもありがとうございました。おかげで何とか学校間に合いそうです」
 丁寧にそう言った藍の言葉に、女性はニッと笑う。
「ていうかおまえ、まだ気がついてないの?」
「え?」
 その女性の言葉に、藍はきょとんとした表情を浮かべる。
 女性はそれから、はめていたゴーグルをスッとおもむろに外した。
 ……その瞬間。
 藍は思わず、眼鏡の奥の瞳を大きく見開いた。
 ゴーグルの下の女性の顔は、よく知っている人物のものだったからだ。
 そして藍の驚いた様子を見て、その女性は楽しそうに言ったのだった。
「1年Dクラス、大河内藍っ。今日の古典はおまえ当てるから、しっかり予習しとけよっ」
「こ、古典のっ!? 古典の、鷹瀬薫(たかせ かおる)先生っ!?」
 目の前で肩までの茶色の髪をかき上げて笑っているのは、古典担当の鷹瀬薫という女教師だった。
 健康的な印象を持ち合わせた綺麗な容姿と、妙に男っぽいその口調。
 性格は口調通りサバサバとしていて、社交的で生徒とも友達感覚で接するようなタイプの教師。
 一方藍は普段学校では眼鏡をかけているために、大人しめな優等生である。
 なので、あまり彼は今までこの派手な性格の鷹瀬先生とそんなに話をしたことはなかった。
 だが古典の授業は藍好みの内容の濃いマニアックなものだったため、彼女に対しての印象は悪くなかった。
 日本史が大好きな藍にとって、彼女が担当するマニアックな古典も少し興味があったのだ。
 まだ驚いた表情を浮かべている藍に、鷹瀬先生は無邪気な笑顔を向ける。
「大河内、何ボーッとしてる? ほら、予鈴鳴り始めたぞ」
「えっ? あっ!」
 先生の言葉に我に返り、藍はハッと顔を上げる。
 それからもう一度ぺこりと鷹瀬先生に一礼すると、バタバタと正門に向かって走り出したのだった。
 先生はそんな藍の後姿を見て微笑み、外したゴーグルを再びはめるとバイクを走らせ始める。
 それと同時に、彼女の首のまっかなシルクがヒラヒラと風に靡いて揺れたのだった。
 それから藍は、何とか遅刻寸前で校門に滑り込むことに成功し、ホッと胸を撫で下ろす。
 そして門をくぐった後、少し乱れた息を整えて靴箱に向かいながら、先程の感触を思い出していた。
 柔らかくて、あったかくて……。
 そんな手から伝わってきた感触を思い出すだけで、途端に心拍数が上がる。
 鼻をくすぐる先生の甘い香水の残り香に、藍は体温が急激にカアッと上がるような感覚を覚えた。
 この感情は、一体何なのだろうか。
 まるで胸の奥の鐘を鳴らされたような、この気持ち。
 まさにこの時こそ――大河内少年の心に、淡い恋心が生まれた瞬間だったのである。
 すっかり赤くなった頬を軽くペチペチと叩いた後、藍は気を取り直して校舎に足を踏み入れる。
 それから靴箱で靴を履き替えながら、ふっと漆黒の瞳を細めたのだった。
(そういえば先生、今日の古典当てるって言ってたな。古典って、何時間目だっけ……)