LAST SCENE 永遠の誓い
「先生、見て。すごく綺麗だよ?」
ホテルのレストランでのディナーを終え、那奈と先生はこの日彼の泊まる部屋へと移動していた。
那奈は窓から見える都会の風景を見つめて、満足そうに小さく溜め息をつく。
何も視界を遮るもののない高層階の眼下には、宝石箱をひっくり返したような美しい夜のネオンの街並みが広がっていた。
大河内先生は彼女のそばに歩み寄り、同じようにその風景を目に映す。
そして彼女の華奢な肩を抱き、今この場に愛しい恋人がいることを改めて実感した。
どうしてもこの日、先生は彼女に会いたかった。
その理由は……。
「でも驚いたな。大河内先生が日本に帰って来てくれるなんて」
那奈はふと振り返って先生を見つめながら、幸せそうに微笑む。
まさか自分に内緒で、彼が帰ってきてくれるなんて思ってもみなかった。
先生との思わぬ再会に嬉しそうに微笑んでから、那奈は先生の胸にそっと身体を預けた。
それと同時に、じわりと彼のぬくもりがふわりと身体を包む。
大河内先生は彼女の漆黒の髪を優しく撫でながら、ふっと笑みを宿した。
それから、こう口を開いたのだった。
「ていうか、やっぱり忘れてるな」
「え?」
那奈は先生の言葉に小さく首を傾げ、きょとんとする。
そんな彼女の様子に笑った後、大河内先生はバッグから何かを取り出した。
そしてそれを那奈に手渡し、言ったのだった。
「今日は何日だ? 去年も忘れてただろ、おまえ」
「今日? あ……っ」
那奈は大きく目を見開き、口元に手を当てる。
そして先生を見つめ、彼の問いに答えたのだった。
「今日って、3月14日……ホワイトデーだ」
「そうだよ。どうしても今日お返し渡したくてな、飛んで帰って来たんだよ」
「先生……」
那奈は笑顔を浮かべた後、先生のお返しを受け取る。
だがすぐに首を傾げ、少し遠慮気味に訊いた。
「すごく嬉しいよ、ありがとう。でも先生にはバレンタインの時にプレゼント貰ってるし、それに外国ってホワイトデーないんだよね? いいの?」
「いいんだよ。それにバレンタインの時はニューヨークにいたけどよ、今ここは日本だ。郷に入っては郷に従えって言うだろ? ま、去年と同じで買ってきたクッキーだけど、どうしてもおまえに直接会って渡したかったんだ」
那奈は漆黒の前髪を一度かき上げてから、大河内先生を見つめる。
そして彼に抱きつくと、言ったのだった。
「ありがとう、大河内先生。プレゼントももちろん嬉しいけど……何より嬉しかったのは、先生が私に会いに来てくれたっていうこと。先生が今すぐに近くにいることが、本当に嬉しい」
那奈は恋人の感触を確かめるように、彼の背中に腕を回す。
先生の広い胸の中はあたたかく、そして心地良くて優しい。
大河内先生は大きな手の平でそっと那奈の頬を撫でた後、スッと彼女の顔を自分の方に向かせる。
それからおもむろに、その神秘的な漆黒の瞳をふっと伏せた。
那奈も同じように瞳を閉じ、彼から与えられるだろうものを待つ。
その――次の瞬間。
ふたりの唇が、ゆっくりと重なった。
彼女に落とされたのは、柔らかで優しい接吻け。
甘くて懐かしい唇の感触に、那奈はほんのりと頬の色を染める。
キスというその魔法は、いつ与えられてもドキドキしてしまう。
そしてそのたび、この上ない幸せを胸いっぱいに感じるのだった。
大河内先生はゆっくりと余韻を持たせるように唇を離した後、黒を帯びる瞳を細める。
そして、こう言ったのだった。
「今日はホワイトデーだけど……俺たちにとってこの日は、ホワイトデーだけじゃないよな」
先生のその言葉に、那奈は小さくコクリと頷く。
そう、この日――3月14日は、ふたりにとってとても大切な日だった。
それは……。
大河内先生はそんな彼女に笑顔を向けた後、続けた。
「1年前の今日、俺とおまえは付き合い始めたんだよな。初めての俺たちの記念日、おまえにどうしても会いたかったんだよ。そして今日、おまえに渡したいものがあるんだ」
「先生……」
那奈は潤んだ瞳から零れないように一生懸命に堪えながらも、じっと彼だけを見つめている。
大河内先生はそれから再びあるものを取り出し、那奈の前に差し出した。
それは――手の平に乗るほどの、小さな箱。
大河内先生は那奈の長い髪を手櫛で整えてから、にっこりと微笑む。
それからその箱のふたを開けると、中に入っているものを指で摘んだ。
そして那奈の左手をそっと手に取る。
「おまえはまだ学生だし、俺も今は仕事でニューヨークにいる。だから、少し早いんだけどな……でもこれを、おまえに受け取って欲しいんだ」
大河内先生はそう言ってから、持っているもの――キラキラと輝くエンゲージリングを、那奈の左手の薬指にスッとはめる。
小さな石のあしらわれた指輪は那奈の指にぴったりで、デザインも彼女が好きそうな可愛らしいものであった。
大河内先生は、真っ直ぐに彼女の姿だけをその目に映す。
それから、こう続けたのだった。
「おまえのこと、絶対に迎えに行く。そして俺が日本に帰って来たら……結婚しよう」
「大河内先生……」
那奈はポロポロと涙を零しながらも頷き、漆黒の髪を小さく揺らす。
そして涙を拭った後、彼のプロポーズに笑顔で答えた。
「はい、大河内先生」
先生は頬を伝う涙を指で拭ってから、彼女の頭をぐりぐりと撫でる。
そして彼女の身体を、自分の胸にぐいっと引き寄せた。
「本当におまえは泣き虫だな、おい」
「だって、先生……すごく嬉しかったんだもん」
那奈は溢れ出る涙を一生懸命堪え、ふっと自分の指で光っているエンゲージリングを瞳に映す。
それから視線を上げて、その顔に笑顔を宿した。
「大河内先生って、やっぱり私の魔法使いだ。私の夢を叶えてくれる、私だけの魔法使いだよ」
幸せそうに微笑み、那奈はそうぽつりと呟く。
――以前先生は那奈に、こう訊いたことがあった。
『今宮さんの将来の夢は何ですか?』
その時に、那奈が彼に言った答え。
それは……。
『将来の夢は、私の理想にぴったりな王子様のお嫁さんになることです』
そんな那奈の願いを叶えてくれるのは、世界でたったひとりだけ。
キスという甘い魔法で、幸せを与えてくれる人――今まさに那奈の目の前にいる、大河内藍その人だけである。
大河内先生は相変わらずな那奈の言葉に笑い、笑顔を返す。
「ドロシーの願いを叶える、オズの魔法使いか?」
「童話のオズの魔法使いは、ドロシーの願いを叶えることはできなかったんだけど。でも……先生は、私の願いをちゃんと叶えてくれるんだよね」
那奈のその言葉に、先生は優しく漆黒の瞳を細める。
そして大きく頷いて、もう一度ぎゅっと彼女の身体を強く抱きしめた。
「ああ、待ってろ。おまえの願いは、誰でもないこの俺が叶えてやるからな」
それから那奈の耳元で、先生は優しく囁いたのだった。
「愛してるよ、那奈」
耳をくすぐる、彼の甘い吐息。
那奈は再び滲む視界の中、懸命に彼の姿を瞳に映した。
彼の澄んだ黒の両の目は、自分だけを真っ直ぐに見つめている。
彼こそが、自分の願いを叶えてくれる唯一無二の魔法使いだと。
改めて那奈はそう強く感じながら、そっと潤んだ瞳を閉じた。
先生もそんな彼女の様子に愛しそうに視線を向け、スッと目を伏せる。
そして――ふたりは。
柔らかな唇を、再びゆっくりと重ね合わせた。
強く抱きしめ合って熱を帯びた体温が混ざり、それは次第に気持ち良さへと変わっていく。
それからふたりはさらに接吻けを重ね、お互いがお互いを全身で受け入れた。
そしてその心と身体で、永遠の誓いを交わし合ったのだった。
いつまでも、いつまでも――ずっと、ふたりで一緒にいようと。
*
大好きな童話『オズの魔法使い』では。
ドロシーの探していたオズの魔法使いは、実は魔法が使えない詐欺師だったけれど。
でも、私の探していた私だけの魔法使いは詐欺師なんかじゃない。
溶けるような甘いキスで、いつも私に幸せを与えてくれる。
そして私の願いを、ちゃんと叶えてくれるのだから。
幸せを運ぶ――愛という魔法を使って。
「ドロシー」 Fin