SCENE4 銀の靴の魔法

 ――少しずつ春の足音が聞こえ始めてきた、3月中旬。
 ここ数日で急に気候も暖かくなり、過ごし易い陽気が続いている。
「ねぇ、那奈ちゃん。明日の夜って空いてる?」
 学校帰りの道のりで、悠は隣の那奈にそう訊いた。
 那奈は漆黒の髪を揺らし、コクンと頷く。
「うん、特に何も予定入ってないよ。どうして?」
「この間、都内に新しい高級ホテルがオープンしただろう? そこの経営者と父さんが知り合いで、レストランディナーの招待券貰ったんだ。よかったら、那奈ちゃんも行かないかなって」
「新しい高級ホテルのレストランで、ディナー?」
 悠の誘いに、那奈は少し考えるような仕草をみせた。
 高級な店に行くことには慣れている那奈だったが。
 正直、あまりそういう金持ちが多そうな場所は好きではない。
 だが新しくオープンしたホテルの店ということで、一度は行ってみてもいいかもという好奇心はあった。
 那奈は漆黒の髪をそっとかき上げた後、悠の誘いに答える。
「いいよ、明日の何時?」
「本当に? あまり那奈ちゃんって高級な店は好きじゃないかなって思ってたから、嬉しいよ。時間はね、18時にホテルのロビーで。お洒落してきてね」
 承諾した那奈の言葉に、悠は優しく微笑む。
 それから、ふと話題を変えた。
「そういえば、大河内先生は元気?」
「うん、元気よ。仕事はやっぱり忙しいみたいだけどね、先生は相変わらずだよ」
「そっか」
 嬉しそうに恋人の話をする那奈を見て、悠も笑顔を宿した。
 去年のクリスマスから、那奈の従姉妹である桃花と付き合いだした悠であるが。
 長年想いを寄せていた那奈のことは、今でも大切な存在であるのは確かで。
 自分が彼女の恋人になれなかったのは残念だが、今自分は幸せであるし。
 何よりも、大切な人が幸せそうに笑っている。
 それだけでも、悠にとっては嬉しいことなのである。
 ただ、やはり大河内先生とは遠距離恋愛でなかなか会えず、たまに那奈は寂しそうな表情もみせていた。
 そんな彼女の寂しさを、少しでも埋めて上げられればいいと。
 幼馴染みとして、大切な友達として、悠は強くそう思っていた。
 そして大河内先生のことは、今でもひとりの男としていいライバルだと思っている。
 彼に負けないいい男になって、自分を一層磨き高めたい。
 だが先生のことを、以前のように邪魔するのではなく……。
 悠は上品なその顔に、優しい笑みを宿した。
 それを那奈に向けてから、普段通り彼女との楽しい会話を続けたのだった。


 ――次の日の夜。
 悠との待ち合わせ通り、那奈は出来たばかりの豪華な高級ホテルのロビーにいた。
 だが、まだ少し時間には早かったようだ。
 ホテルの豪華な時計に目をやった那奈は、まだ来ていない悠を待つために周囲を見回す。
 だが敢えてロビーに置かれているソファーには座らず、見通しの良い場所に立つ。
 時間に几帳面な悠のことだ、座るまでもなくもうすぐやって来るだろう。
 そう思いながら、那奈は着ている黒のワンピースの裾を気にする仕草をした。
 高級ホテルにオープンしたてのレストランのディナーということもあり、彼女はフォーマルな装いをしている。
 黒を帯びる綺麗なストレートの髪と少しつり気味の瞳と同じ、黒のワンピース。
 シンプルながらに高級感のある上品なデザインの服に、胸の小さなペンダントがさり気ないアクセントになっている。
 もうコートを着る必要のないほどにあたたかいため、肩から肌触りの良いショールを1枚かけていた。
 ……そして。
 那奈はふと視線を下へと落とし、幸せそうに微笑む。
 そんな彼女の瞳に映っているものは。
「ふふ、やっと活躍する季節になったね」
 そう呟き、那奈は漆黒の瞳を細めた。
 彼女の足に履かれていたのは――シルバーのサンダル。
 その銀の靴は、大河内先生から貰ったクリスマスプレゼントである。
 自分の大好きな童話『オズの魔法使い』にちなんで、彼が選んでくれたもの。
 今までは少し寒かったため、このサンダルの出番はまだなかった。
 だがここ数日、急にあたたかく過ごしやすくなった。
 なのでちょうどいい機会だと、那奈はようやくこの銀の靴を履いて外出したのだった。
 黒髪美人な那奈と黒のワンピースに、シルバーのサンダルはとてもよく映えている。
 那奈は近くにある大きな鏡に銀の靴を履いた自分の姿を確認した後、満足そうに笑う。
 それからおももむろに、銀の靴のかかとを3回トントントンと鳴らした。
 そして、ぽつりとこう言ったのだった。
「お願い、魔法の銀の靴さん。私の行きたいところに、連れてってください……」
 ――童話『オズの魔法使い』のラストシーンで。
 主人公のドロシーは、かかとを3回鳴らせば行きたいところに連れて行ってくれるという銀の靴の魔法を使い、故郷のカンザスへと帰ったのだった。
 この靴に……もしも、同じような魔法があるのならば。
 今すぐにでも、飛んで行きたい場所がある。
 その場所とは……。
 那奈はふっと小さく苦笑し、肩のショールを掛け直す。
「やっぱり無理だよね。我慢しなきゃ……」
 確かに魔法があれば、どんなにいいか分からないが。
 でも、しっかりと現実とも向き合わないといけない。
 日本で待っていると……大切な人と、約束したのだから。
 だが――その時だった。
「……えっ?」
 何気なく顔を上げた那奈はその瞬間、驚いたように大きく瞳を見開く。
 それから信じられないような表情を浮かべ、何度も瞬きをした。
 その理由は――見覚えのある人物の姿が、突然目に飛び込んできたからである。
 そして、その人物とは。
「えっ!? うそ、大河内先生……!?」
 そんなはずはない。
 だって彼は今、遠く離れたニューヨークの地にいるはずなのに。
 だがそんな那奈の思考とは逆に、彼はゆっくりと彼女近づいてくる。
 そしてその人物・大河内藍は、優しく口を開いた。
「那奈、ただいま」
「えっ、どうして!? 何で先生が……っ」
 まるで狐につままれたような表情を浮かべる那奈に、先生は悪戯っぽく笑う。
「どうだ、驚いたか? 安西たちに協力してもらって、おまえに内緒で日本に帰って来たんだよ。まぁ明日にはまたバタバタで向こうに帰らないといけないんだけどな……でも、どうしてもおまえに会いたかったからよ、飛んで帰って来ちまった」
「先生……」
 那奈はようやく自分の目の前に彼がいることを実感し、にっこりと微笑む。
 途端に、じわりと視界が涙で滲む。
 ポンッとそんな那奈の頭に手を添えてから、大河内先生はそっと彼女の身体を抱いた。
「本当におまえは泣き虫だな、おい」
「だって、先生……っ」
 とうとう那奈は堪えられず、ポロポロと涙を零してしまう。
 先生は周囲の人から彼女の様子が見えないようにさり気なく位置を変えた後、優しく髪を撫でた。
 間違いなく、大好きな恋人が今すぐそばにいる。
 自分を包む彼のぬくもりに、那奈はそう改めて感じる。
 それから涙を拭い、顔を上げる。
 視線の先には、じっと優しく自分のことを見守っている神秘的な漆黒の瞳があった。
 那奈はふっと笑みを宿すと、思い出したように口を開く。
「あ、そういえば、忘れてたよ」
「忘れてたって、何をだ?」
 小さく首を捻る先生に微笑んだ後、那奈は少し照れたように笑った。
 そして、こう言ったのだった。
「おかえりなさい、藍」
 那奈の言葉に、先生はふっと笑みを浮かべる。
「そういえば電話で言ってたな。今度会った時、呼び捨てで呼んでみようかってな」
「うん。でもやっぱり何だか照れくさいよ、大河内先生」
「何だよ、もう『大河内先生』に戻ってるじゃねーか。ま、呼び方とかあまり気にしないでいいんじゃないか? それよりもよ……」
 楽しそうに笑い、先生は黒を帯びる前髪をかき上げた。
 それからゆっくりと、もう一度彼女に言ったのだった。 
「ただいま、那奈。会いたかったよ、すごく」
「先生……」
 那奈は再び溢れそうになる涙をグッと堪えてから、人目もはばからずに彼に抱きつく。
 そんな彼女の身体を受け止め、大河内先生は今この瞬間の幸せを感じる。
 仕事の合間を縫い、短い間であるが何とか休暇を取った先生は、この日日本へと帰って来た。
 那奈のことを驚かそうと、帰ってくることは彼女には内緒にして。
 その際、いつも那奈のそばにいる悠に少し協力をしてもらったのである。
 明日にはまたニューヨークに帰らないといけないという、超強行スケジュールだが。
 それでも……どうしても。
 大河内先生はこの日、那奈と会いたかったのである。
 その理由は――。
「ねぇ、大河内先生」
 那奈は幸せそうな笑顔を彼に向け、ふふっと笑う。
 それから、こう続けた。
「先生のくれたこの銀の靴、間違いなく魔法の靴だよ。さっき私ね、この靴にお願いしたんだ」
「お願い? 何てお願いしたんだ?」
 相変わらずな彼女らしい言葉に微笑ましく瞳を細めた後、先生はそう訊き返す。
 那奈は一度銀の靴を見てから彼に視線を戻し、そしてこう答えたのだった。
「大好きな大河内先生のすぐそばに連れて行ってください、って。そしたら本当に今、先生の近くにいるんだもん……」
 那奈は彼の胸にそっと身体を預け、彼の体温を全身で感じる。
 見た目は年齢よりも大人っぽく見える那奈だったが。
 その思考は乙女ちっくで、まだ幼い夢見る少女である。
 だがまた彼女のそんなところが、可愛らしくて愛しい。
 大河内先生は那奈の背中に腕を回し、ありったけの気持ちを込めて彼女を抱きしめる。
 そして、耳元で囁いたのだった。
「いるよ、すぐそばにな。ただいま」
 那奈はコクンと頷き、漆黒の瞳を嬉しそうに細める。
 それから、こう強く思ったのである。
 銀の靴の魔法は――間違いなくあるのだ、と。