SCENE3 カンザスとオズ

 ――バレンタインから、数週間余り。
 暦の上ではとっくに春だが、まだ外出にはコートが必要なくらい肌寒い。
 本格的な春の到来はまだ少し先のようである。
 那奈は休日の繁華街の風景を窓越しに見つめながら、小さく溜め息をついた。
「那奈、どうしたの?」
 喫茶店で彼女と一緒にお茶をいる知美はそんな那奈の様子に気がついて声を掛ける。
 那奈はその声に我に返ったように顔を上げると、誤魔化すように笑った。
「ううん、何でもないよ。このケーキ、美味しいね」
「何でもないって、全然そんな顔してなかったけど?」
 知美はそこまで言って、ニッと意味あり気に笑みを浮かべる。
 それからテーブルに頬杖をつきながら、こう続けたのだった。
「アイちゃんと会えないから寂しいんでしょ。顔にしっかり書いてあるよ?」
「えっ? あ……うん、まぁね」
 知美の言葉に図星を突かれた那奈は、少し申し訳なさそうにしながらも素直に頷く。
 そしてもう一度、窓の外の賑やかな街並みをその漆黒の瞳に映した。
 休日の繁華街はたくさんの人で溢れている。
 その中でもつい目がいってしまうのは……幸せそうな、カップルの姿。
 自分が恋人と一緒に歩いている時は、周囲など目にも入らなかったのに。
 今は何故か、そういう恋人同士で歩いてる人たちが目についてしまう。
 自分は恋人である大河内先生のことをずっと待っていようと心に決めたし、今でも十分に幸せである。
 だが正直、やはり近くに彼がいないことは寂しかった。
 すぐ会いたくても会える距離ではないし、話をしたくても電話代や時差の関係で頻繁に電話もできない。
 先生が日本にいる時当然だったことが、今は当然ではないのだ。
 バレンタインの日、久々に彼とニューヨークで再会した那奈だったが。
 その再会がこの上なく幸せだっただけに、日本に戻ってきた今、妙に寂しさを感じる時があるのである。
 そんな那奈の気持ちを分かっている知美はふっと小さく笑みを宿し、慰めるように言った。
「遠距離恋愛って、思った以上に大変だし辛いよね。頑張ってるよ、那奈は。でもバレンタインの時会えたし、アイちゃんもずっと向こうにいるわけじゃないんでしょ?」
「そうなんだけどね。でも……やっぱり時々、すごく感じる時があるの。カンザスとオズは、遠いんだなって」
「カンザスとオズ?」
 那奈の言葉に、知美は首を傾げる。
 那奈は小さくコクンと頷き、続けた。
「私の大好きな『オズの魔法使い』よ。カンザスはドロシーの故郷なの。オズの国に飛ばされたドロシーはカンザスに帰りたくて仕方なかったんだけど、私はニューヨークから帰って来たくなかったな……先生の隣に、ずっと居たかったよ」
 はあっとひとつ溜め息をついてそう呟いた後、那奈は気を取り直すかのように紅茶をひとくち飲む。
 それから漆黒の瞳を細め、明るい声で言った。
「でもね、距離は遠くてたまに寂しいけど、それでも先生が迎えに来てくれる日を楽しみに待つよ。今度はいつ会えるか分からないけど……毎日、メールとか電話とかしてるしね」
「那奈……」
 知美は自分に言い聞かせるようにそう言う那奈に、複雑な表情を浮かべる。
 那奈は綺麗な顔立ちをした聡明で美人な雰囲気の外見を持っているが、中身は人一倍女の子らしくて乙女ちっくである。
 その分甘えたがりやで寂しがりやで、許されるならば一分一秒でも恋人のそばにいたいと思うタイプである。
 だがそんな彼女は今、遠距離恋愛という現状を必死で乗り越えようとしている。
 ――恋人の大河内先生と、一緒に手を取り合って。
 知美はそんな友人のことを心から応援しているし、何か力になってあげたいとも思っていた。
 そして今、親友のために自分ができることは。
 先生と会えず寂しい思いをしている那奈のそんな気持ちを、少しでも緩和できればと。
 那奈には言わなかったが、知美はそう思っていたのだった。
「ねぇ、那奈。ずっと気になってたんだけどさ」
 知美はふと顔を上げ、那奈に目を向ける。
 それから、彼女にこう訊いた。
「いつまで那奈、アイちゃんのこと『大河内先生』って呼ぶの? もうアイちゃん今は教師やってないし、ふたりは恋人同士なのに」
「え? あ、言われてみれば、そうだね……」
 知美のそんな疑問に、那奈は思いもしなかったように瞳を見開く。
 そして、少し考える仕草をした。
 だがすぐに照れたように微笑み、口を開く。
「うーん、でも何て呼んでいいか分からないよ。私の中でもう彼は『大河内先生』だし、先生が私の先生だったってコトは、教師辞めた今も、これから先も変わらないしね。でも……やっぱり変かな? 今度、先生にも聞いてみようっと」
 そう言ってから、那奈はケーキにのっているイチゴをパクッと口にした。
 知美はそんな那奈の言葉に笑う。
「そうねぇ、何て呼ぶか、か。アイちゃんってすごく年上だけど、アイちゃんとかアイアイとかアイたんとか、カワイイ系なキャラだしねーっ」
「そうよね、オトナな感じってよりそういうカワイイキャラだもんね。でもそんなこと先生に言ったら、拗ねちゃうよ」
 くすくす笑いながら、那奈は楽しそうに漆黒の髪をそっとかき上げる。
 ようやく見せた那奈の満面の笑みに少しホッとしながら、知美はさらに続ける。
「でもそう言われて拗ねるところがまたカワイイのよね、アイちゃんって」
「ふふ、そうそう。そういうところがまた可愛いんだよ、先生って」
 それから那奈は、幸せそうな顔をしながらもポツリとこう呟いたのだった。
「早く大河内先生に会いたいな……」
「まぁ、今は遠いからなかなか会えないかもだけど。って、やっぱホワイトデーとか会えないの?」
「うん、そんなに頻繁に行き来できる距離じゃないしね。それにね、バレンタインのお返しはもう貰ったんだ」
「お返し?」
 那奈のその言葉に、知美は首を捻る。
 那奈は笑みを絶やさず、こう続けた。
「お返しって言ったらちょっと違うかもなんだけど。向こうは日本と違ってね、バレンタインって男女がお互いにプレゼントを交換し合う日なんだって。それで先生に、バレンタインのプレゼント貰ったんだ。だから、ホワイトデーとかないらしいよ?」
「へぇ、そうなんだぁ。知らなかった、ホワイトデーって日本だけなんだね」
 知美は感心したようにそう言った後、ふっと笑う。
 それから、那奈にしか聞こえない小声で言ったのだった。
「まぁ、バレンタインの時、ふたりで十分に甘いひとときを過ごしただろうしねっ」
「……っ、あ、甘いひとときって……っ」
 カアッと途端に顔を真っ赤にさせ、那奈は何度も瞬きをする。
 そんな素直な那奈の反応に、知美はきゃははっと笑う。
 それからポンッと那奈の肩を叩き、言った。
「ま、愛しのドロシーのこと、魔法使いがきっとすぐ迎えに来てくれるよ」
「ふふ、『オズの魔法使い』って、そういう話じゃ全然ないんだけどね」
 那奈はそれだけ言って笑顔を浮かべると、テーブルに頬杖をつく。
 そして流れる街並みを見つめながら、小さく呟いたのだった。
「早く会いたいな、大河内先生……」



 ――その日の夜。
 知美とお茶をして買い物をした後で家に戻った那奈は、これ以上ないという幸せな微笑みを浮かべている。
 その理由は。
「大河内先生、そっちは朝?」
 那奈はコードレスの受話器を握り、逆手で愛犬のトトを撫でながら訊いた。
『ああ、今は朝の9時くらいだよ。日本は夜か?』
 耳に響く、愛しい恋人の声。
 会えないのは寂しいけど、こうやって彼の声が聞ける。
 それだけでも、今の那奈にとっては幸せな時間だった。
「うん。先生は今日仕事休みなんだよね、お仕事いつもお疲れ様」
『サンキュー。っておまえも、勉強しっかり頑張ってるか? 俺が教えてないからって、日本史の成績下がってんじゃねーぞ』
「大丈夫よ。それに大河内先生の話って、マニアックすぎてテストに出ないもん」
『うるせーな、マニアックって言うな』
 電話の向こうの大河内先生も言葉とは裏腹に、楽しそうに声を和らげる。
 那奈はにっこりと笑みを浮かべた後、言った。
「今度会った時、また先生のマニアックな話も聞かせてね。電話だったらいくら電話代かかるか分からないし、テストには出ないけど」
『悪かったな、テストに出ないマニアックな話でよ。ま、今度会った時じっくり話してやるよ、お茶飲みながらゆっくりな』
「うん。お茶飲みながらゆっくり、ね」
 那奈はくすくす笑いながらも、大きく頷く。
 それから、ふと思い出したように口を開いた。
「あ、そうだ。今日知美に言われたんだけどね、いつまで先生のこと『大河内先生』って言うの? って。考えてみれば、恋人同士だし今は生徒じゃないもんね。私は今までもそんなにおかしくないって思うんだけど、先生はどう思う?」
『あー、そう言われてみればなぁ。でもそんなこと、今まで気にもしてなかったけどよ』
 知美に言われた時の那奈と同じような反応をし、先生は少し考えるように口を噤む。
 それから、逆に彼女に訊いた。
『てか、変えるなら何て呼ぶんだ? 何か想像つかねーけど……』
「うーん、年上の恋人って言ったら、名前に『さん』付けとかなのかなぁ? でもそれって、全然先生のキャラじゃないし」
『何だよ、じゃあ俺はどんなキャラってんだよ?』
「知美とも言ってたんだけどね、先生ってアイちゃんとかアイアイとか、そーいう可愛いっぽいキャラだよねって」
『おまえらな、十以上も年上の元教師に可愛いってな……ったく』
 はあっと嘆息し、大河内先生は拗ねたように声のトーンを変える。
 そんな予想通りの彼の反応に、那奈は思わず笑い出してしまう。
 先生は那奈の様子にますます気に食わないように呟いた。
『別に今までのまま、先生でいいよ。下手にアイアイとか言われたらたまんねーからなっ。ったく、竹内のヤツ……那奈を巻き込んで、一緒に人の名前で遊びやがって』
「ふふ、そう拗ねないの、アイアイ」
『あ!? やめろ、鳥肌が立つっ』
 ムキになる先生の様子に、那奈は楽しそうに笑顔を浮かべる。
 それからふっと一息ついた後、言った。
「まぁ、無理してすぐに呼び方変える必要もないよね。でも変えるとしたら、何だろう? アイちゃんはみんな呼んでるし……やっぱり恋人同士っぽく、呼び捨てとか?」
『うーん、俺はそういえば那奈って言ってるしなぁ。それが無難かもな』
 やっと納得したように、先生も電話の向こうで頷く。
 だが今度は那奈が、照れたように小さく首を振った。
「でも何か、いざ呼ぶってなったら恥ずかしくて呼べないよ。やっぱり先生は、先生かな」
 そして漆黒の瞳を細め、こう続ける。
「けどせっかくだから、試しに今度会った時に呼んでみる?」
『そうだな、今度会った時に試してみるか? それも新鮮かもな』
 那奈はそんな大河内先生の言葉に、急にふっと俯く。
 その後、ポツリと呟いた。
「今度は先生と、いつ会えるのかな……」
『那奈……』
 電話の向こうの先生の声も、複雑なものへと変化する。
 だが、すぐに優しく彼女に言った。
『寂しい思いさせて、ごめんな。今度は仕事の都合見つけて、俺がおまえに会いに行くから。だから……待てってくれないか?』
「ごめんね、先生を困らせるつもりはないの。先生の仕事が忙しいことも分かってるし、今でも先生は私のためにいろいろやってくれてるもん。もちろん待ってるよ、ずっと」
 じわりと瞳に滲む涙をそっと拭いながら、那奈はなるべく明るい声でそう口を開く。
 先生はそんな那奈の様子を悟り、一瞬口を噤む。
 それからゆっくりと、よく響くバリトンの声で言ったのだった。
『愛してるよ、那奈。できるなら今すぐ飛んでって、おまえのことを抱きしめたい……』
「先生……」
 那奈は耐えられずにポロポロと涙を零してしまう。
 遠距離恋愛は確かに寂しいけれど。
 自分のことをそう想ってくれる、彼の気持ちが嬉しかったのだった。
 那奈は心配をかけないように涙を拭いた後、彼の言葉に答える。
「私も愛してる、大河内先生。先生のこと、ちゃんと待ってるから」
 それから那奈はちらりと時計を見て、続けた。
「あ、ごめんね。先生からかけてもらったのに、こんなに話しちゃって。またメールとかもするから」
『んな細かいコト、気にすんな。また俺もメールするし、電話もするよ』
 本当は、ずっとずっとこうやって話をしたい。
 だがそんな感情をお互いに抑え、ふたりは同時に受話器を置く。
 ピッという通話終了ボタン音の後、シンとリビングに静寂が訪れた。
 いつもこの瞬間が、妙に寂しく感じるのだった。
 那奈は愛犬のトトをそっと撫でながら、受話器を元あった親機の場所へと戻す。
 それからふと顔を上げ、あるものに視線を向けた。
 それは――バレンタインの時に先生に貰った、『オズの魔法使い』の置物。
 那奈は漆黒の瞳を細め、じっとそれを見つめる。
 それから、こう呟いたのだった。
「早く迎えに来てね……私の魔法使いさん」