SCENE2 ドロシーのドロシー

「ていうかよ、本当にいいのか?」
 カチャリと家の鍵を開けて那奈を中に促しながら、大河内先生は彼女に訊いた。
 那奈はコクンと頷き、初めて足を踏み入れる彼の部屋を興味深そうに見回す。
「いいの。ここが先生が今住んでる家なのね……あ、これって前の家にもあったよね?」
「ああ、日本から持ってきたんだよ。ていうか本当にいいのか? せっかくニューヨークまで来たってのによ」
「いいんだってば。ニューヨークはもう何度も来てるし、今回は観光が目的じゃないから」
 久しぶりの再会を果たした後、先生は那奈にどこか行きたいところがあるかと訊いた。
 そして彼女はその問いに、こう即答したのだった。
 早く大河内先生の家に行きたい、と。
 有名な観光スポットやお洒落なお店などを言われるかと思っていた先生は、そんな彼女の答えを意外に思ったのだった。
 今日那奈は、自分の家に泊まることになっている。
 そう焦ってこんなに早く家に来なくても、家での時間はたくさんあるのに。
 そう思いつつも、先生は彼女にそれ以上は何も言わなかった。
 那奈は各所に日本で暮らしていた時のものを見つけては、嬉しそうに微笑んでいる。
 大河内先生は家に帰ってくる前に買い物をした材料をキッチンのテーブルに置き、食器棚からコーヒーカップを取り出した。
「コーヒーしかないけど、いいか?」
「うん、ありがとう。あ、買った材料、冷蔵庫に入れないとね」
 那奈はそう言って、キッチンへと足を運ぶ。
 先生はふと首を傾げ、ふと疑問に思っていたことを言った。
「材料、野菜しか買ってないけど何作るんだ?」
 そんな先生の言葉に、那奈はふふっと笑う。
 それから材料を一旦冷蔵庫に入れた後、楽しそうに口を開いた。
「それはまだ秘密だよ、先生」
 那奈はそう言ってから、リビングのソファーに腰を下ろす。
 彼女にコーヒーを出した後、先生も彼女の隣に座った。
「先生が今、すぐ隣にいるんだね……」
 彼の肩にそっと寄り添い、那奈は幸せそうにそう呟く。
 ふたりが離れて暮らして、約2ヶ月が経った。
 離れてからも毎日のようにメールや電話でやり取りはしていたが、今までは学校で殆ど毎日といっていいほど顔を合わせていたふたりにとって、遠距離恋愛という状況は正直寂しくもあり物足りないものであった。
 だがその分だけ、再会したふたりの喜びは大きい。
 大河内先生は自分に身体を預ける彼女の頭をグリグリと撫で、小さな肩を抱いた。
 懐かしい感触と交ざり合うあたたかいぬくもりを感じ、先生は漆黒の瞳を細める。
 那奈はにっこりと先生に微笑んだ後、思い出したようにぽんっと手を打った。
 それからバッグを開き、取り出したものを大河内先生に手渡したのだった。
「はい、先生。今日はバレンタインでしょ? 今年もね、手作りしてみたんだよ」
 綺麗にラッピングされた箱を受け取り、先生は嬉しそうに笑う。
「おっ、今年も手作りか。開けていいか?」
 先生の言葉に、那奈は大きく頷いた。
 丁寧に包みのリボンを外した後、先生はゆっくりと箱を開ける。
 そして、その中身は。
「ハート型のチョコレートクッキーか? 美味そうだな」
「チョコレートケーキとかも考えたんだけど、日持ちするし今年はクッキーにしてみたの。ねぇ、食べてみて」
 大河内先生はハート型のクッキーをひとつ摘み、パクッと口に運んだ。
 それから、満足そうに笑顔を宿す。
「うん、めっちゃ美味いよ。ありがとうな、那奈」
「よかった、喜んでもらえて」
 ホッとしたように微笑み、それからもう一度那奈はバッグに手を入れた。
 そして再び何かを取り出すと、彼に見せたのだった。
「そしてこれは、バレンタインのプレゼント。先生が喜ぶものって言えばこれかなって思って」
 那奈の取り出したもの見て、大河内先生は一瞬きょとんとしてしまう。
 あまりにもそれが、意外なものだったからである。
 だがすぐにニッと笑みを浮かべると、大きく頷いた。
「いいな、それ。最高に欲しかったものだよ。だから、材料の買い物も野菜だけだったんだな」
「そういうこと。ルウが違うと、味も全然変わってくるでしょ? 先生に喜んでもらおうと、いつも使ってたものを日本から持ってきたんだ」
 そう言って、那奈は取り出したプレゼント――日本から持ってきたカレールウをテーブルに置く。
 それから先生の淹れたコーヒーに砂糖を入れてかき混ぜて口に運んだ後、にっこりと笑った。
「今日の夕食は、先生の大好きなカレーライスよ。いっぱい作っておくから、今日だけじゃなくて明日も温めて食べられるよ」
「おっ、カレーはまた日にちが経つと美味いんだよなっ」
 無邪気に表情を緩めてそう言う先生に、那奈はくすくすと笑い始める。
「本当に先生って、小学生みたいなんだから」
「悪かったな、小学生みたいでよ。でも嬉しいもんは嬉しいんだ、仕方ないだろーが」
 そう言ってから、大河内先生はぐいっと彼女の身体を自分の胸に引き寄せた。
 そして、ゆっくりと彼女に言ったのだった。
「でも一番のプレゼントは、那奈が今そばにいることだよ。来てくれて、本当にありがとな」
「大河内先生……」
 那奈は先生を見つめた後、彼の胸に身体を預ける。
 遠距離恋愛は確かに思った以上に辛いけれど。
 距離は離れていても、ふたりの心はいつも繋がっている。
 そしてこうやって会えることが、何にも変えがたい大きな幸せなのだ。
「那奈」
 よく響くバリトンの声で、先生が彼女の名を呼ぶ。
 那奈はその声に、ふと顔を上げた。
 その……次の瞬間。
 おもむろに瞳を伏せた先生の唇が、彼女のものと重なる。
 那奈も目を閉じ、彼の接吻けを受け入れる。
 先生は丁寧にキスを落とした後、彼女の身体をギュッと抱きしめた。
「会いたかったよ、那奈」
「うん、私も。大河内先生」
 じわりと滲む涙をそっと拭い、那奈は今隣に大好きな人がいることを改めて実感する。
 2ヶ月ぶりに交わすキスは、相変わらず魔法のように優しくて。
 身体の芯が熱くなり、溶けてしまいそうな感覚に陥るのだ。
 大河内先生は火照って少し赤くなった那奈の頬に大きな手を添えた後、ふっと笑みを宿す。
 それから何を思ったかふと立ち上がると、奥の部屋から何かを持って来たのだった。
「ニューヨークのバレンタインは、日本とは少し違うんだよ。どう違うか、知ってるか?」
 先生の言葉に、那奈は左右に首を振る。
 先生はそんな彼女の様子を見てから、持ってきたあるものを彼女に差し出した。
 その後、こう言葉を続けたのだった。
「日本のバレンタインは、女が男にチョコやプレゼントを渡すだろう? でもな、こっちでは、お互いがお互いにプレゼントを交換し合うんだ。むしろ、男の方が女にプレゼント渡す日なんだよ」
「そうなの? じゃあ、これは……」
「ああ。おまえへのバレンタインプレゼントだ。開けてみろ」
 那奈は思わぬ先生のプレゼントに驚いた表情を浮かべつつも、嬉しそうに笑顔をみせる。
 それから彼の言うように、包みを開いた。
 そして。
「わあっ! 先生、これ……っ」
 目の前に現れた先生のプレゼントを見て、那奈は思わず声を上げる。
 そんな彼女へのプレゼントとは。
「それな、街のアンティークショップにふらりと立ち寄った時に見つけて即買いしたんだよ」
「すごい、『オズの魔法使い』の人形だ! ドロシーでしょ、カカシに木こりにライオンに……あっ、ドロシーの愛犬のトトまでいるよっ」
 興奮したように、那奈はキラキラと瞳を輝かせる。
 先生が那奈にあげたもの。
 それは彼女の大好きな『オズの魔法使い』の物語を再現した、人形の置物だった。
 じっとそれを隅から隅まで見つめ、那奈は手を叩いて喜ぶ。
 先生は興奮した様子の彼女を見守り、漆黒の瞳を優しく細めた。
 自分のすぐ近くにある、彼女の笑顔。
 大切な人の笑顔が、先生にとっても何よりも嬉しいものだった。
「先生、ありがとう。もうすごく嬉しいよ。大切にするから」
 ようやく置物から先生に視線を戻し、那奈は満面の微笑みを浮かべる。
 ――そして。
 那奈は少し照れたように、そっと彼の頬に接吻けをしたのだった。
 柔らかなその感触に、大河内先生は嬉しそうな表情をする。
 それからもう一度彼女の身体を引き寄せ、強く抱きしめた。
「愛してるよ、那奈。俺の方こそ、ありがとな」
 先生の言葉に、那奈は大きく首を振る。
 大河内先生は数度彼女の頭を撫でた後、再び彼女の唇にキスを落とした。
 那奈は堪えきれずにポロポロと涙を流しながら、一生懸命彼の気持ちに応える。
 先生は彼女の涙を指で拭ってから、溢れ出る感情を抑えきれず、彼女にキスという名の愛情を目一杯に注ぐ。
「あっ……ん、先生……っ」
 次第に濃厚なものに変化していくキスの嵐に、那奈は思わず声を漏らした。
 先生はさらに彼女の頭に手を添えて自分の方へと引き寄せ、接吻けを重ねていく。
 それからゆっくりと彼女の身体をソファーの上に押し倒すと、彼女の耳元でもう一度囁いた。
「那奈、愛してるからな。ずっとずっと、俺たちは一緒だ」
「大河内先生、私も……! は、あ……っ」
 先生の唇がそっと耳元から首筋へと下りてきて、那奈はビクンと身体を震わせる。
 那奈は与えられる快感に、思わず彼の身体にギュッとしがみつく。
 そして荒くなった息使いで、懸命に彼に言ったのだった。
「私も、私も先生のこと……大好きだから……っ」
「那奈……」
 そんな那奈を見つめ、先生はさらに彼女への強い愛おしさを感じる。
 そして熱を帯びる彼女の柔らかな身体を改めて抱きしめ、思ったのだった。
 今日はかけがえのない、最高のバレンタインデーだと。
 先生はふっと優しく微笑んだ後、再び彼女の唇にふわりとキスを落とした。
 それから――ふたりは。
 可愛らしい人形のドロシー一行に見守られながら。
 お互いの交ざり合う体温と深い愛情を、その心と身体で強く感じ合ったのだった。