SCENE1 オーバー ザ レインボー

 ――2月14日。
 心なしか普段よりも賑やかな校舎を、悠と知美は教室に向かって歩いていた。
 今日は、バレンタインデー。
 校舎の至るところで、バレンタインチョコレート受け渡しの光景が見られる。
 意中の相手に贈る本命チョコもあれば、義理でクラス中に配っている生徒まで様々で。
 中には、女の子の友人同士仲良く交換し合っている子達も珍しくはない。
 そんないつもと様相の違う廊下を歩きながら、知美は口を開く。
「今日のバレンタイン、もちろん悠くんは桃花ちゃんとラブラブ?」
 少し冷やかすようにそう言った知美に、悠は上品な顔ににっこりと笑みを浮かべた。
「うん。そういう知美ちゃんも、彼氏と一緒に過ごすんだろう? お互い様だよ」
「そうねぇ、でも私って桃花ちゃんみたいに女の子ちっくじゃないから、バレンタインだからドキドキっていう、そういう感覚ないのよね」
「桃花は思考が乙女チックだからね。そういうところ、従姉妹の那奈ちゃんとよく似てるよ」
 悠は色素の薄いブラウンの瞳を細め、笑う。
 知美はそんな悠をちらりと見て、そして少し遠慮気味に言った。
「それにしても、驚いたな。まさか悠くんが桃花ちゃんと付き合うなんて」
「そうだね。でも、今すごく幸せだよ」
「付き合って2ヶ月くらいだっけ? もうかなりラブラブって感じ?」
 悠は肘で腕を突付くような仕草をする知美に笑顔をみせ、前髪をかき上げる。
 それからふと顔を上げると、2年Cクラスの教室を覗き込んでいるひとりの少女の姿を見つけて声を掛けた。
「桃花」
「あっ、悠兄ちゃんっ」
 悠たちの教室の前にいたのは、ちょうど噂をしていた桃花だった。
 那奈と同じ色をした黒の瞳をキラキラと輝かせ、桃花は悠の腕に抱きつく。
「桃花ちゃん、こんにちは」
「あ、知美先輩っ。こんにちはぁっ」
 悠に甘えるような仕草をしつつ、桃花は知美に微笑んだ。
 桃花もこの3学期から、悠たちと同じ聖煌学園に転入してきた。
 そして悠と付き合うようになって約2ヶ月、桃花にとってまたとない楽しい学園生活となっていたのである。
 悠は自分に密着している桃花に優しく目を向け、彼女に訊いた。
「教室まで来て、どうしたんだい? 桃花」
 そんな悠の問いに、桃花は照れたように笑う。
 それから漆黒の長い髪を触りながら、こう答えたのだった。
「何だか急に、悠兄ちゃんの顔が見たくなったの。だから、来ちゃった」
「今日は学校が終わってから、ゆっくり会えるだろう? 本当に甘えん坊なんだから、桃花は」
「だって、悠兄ちゃん……それでも桃花、悠兄ちゃんに会いたかったんだもんっ」
 拗ねるようにそう言う桃花の頭を、悠はそっと優しく撫でる。
 桃花は彼の手の感触に、幸せそうに笑みを零した。
「ていうか……本当にラブラブねぇ。私も付き合った当初はこうだったのかしら?」
 完全にふたりだけの世界を作り上げている悠と桃花の様子を見て、知美は思わず苦笑する。
 あれは――約2ヶ月前のクリスマス・イブ。
 那奈に悠が振られたと聞いた時も驚いた知美だったが。
 それ以上に、那奈にあんなに盲目だった悠が、ほかの女の子と付き合うようになるなんて。
 那奈が悠を振ったことは、彼女の大河内先生への気持ちをよく知っている知美にとってはある程度予想はついていた。
 それは告白した悠も同じであっただろう。
 だが、彼がその後那奈の従姉妹である桃花と付き合うと聞いたときは、本当にびっくりした。
 とはいえ、今の悠は本当に幸せそうである。
 そんな様子を見ると、結果的に一番いいように落ち着いてよかったと。
 そう、密かに知美は思っていたのだった。
 そして――幸せそうな友人は、何も悠だけではない。
 何よりもバレンタインであるこの日を、誰よりも心待ちにしていた友人がいる。
 それは……。
「あ、桃花。予鈴が鳴っちゃったよ。名残惜しいけど、また放課後ふたりで会えるからね」
「うん。悠兄ちゃんと離れたくないけど、仕方ないよね」
 まだラブラブバカップルぶりを遺憾なく発揮しているふたりに、知美は微笑ましげに目を向ける。
 それから悠とともに、教室へと入ったのだった。
 そして授業開始のチャイムと同時に、次の授業・数学担当の鳴海先生が教室に入ってくる。
 始業の号令が済んだ後、鳴海先生は出席簿に視線を落とした。
 その後、こう言ったのだった。
「今日の欠席は、今宮だけか」
 悠はその言葉に、空いている那奈の席をちらりと見てから先生に言った。
「鳴海先生。今宮さんは忌引きです」
「……忌引き、か。ほかに欠席者はいないな」
 鳴海先生は切れ長の瞳を細め、出席簿を閉じる。
 それからいつものように淡々と授業を始めた。
 悠は数学の教科書を開きながら、もう一度那奈の席を見つめた。
 そして、ふっと色素の薄いブラウンの瞳を優しく細めたのだった。



 同じ日――2月14日。
 日本から遠く離れた、ニューヨークの地。
 早々に仕事を切り上げてオフィスを出た大河内先生は、厳しい寒さにコートのボタンを一番上まで留めると、マフラーを巻き直した。
 その藍色の手編みのマフラーは、那奈からのクリスマスプレゼント。
 手編みのマフラーは驚くほどにあたたかい。
 そのことを、大河内先生は強く実感していた。
 そして冬の寒さが厳しいニューヨークでの生活に、このあたたかいマフラーは欠かせないものとなっていた。
 ふわふわのマフラーをそっと撫でた後、先生は足早に歩くニューヨーカーの波に逆らわずに歩みを進める。
 ここは、ニューヨークのグランド・セントラル駅。
 駅というよりは美術館か宮殿かというようなその荘厳な建物にも目もくれずに、先生はある場所へと向かう。
 そして、着いた場所は。
 グランド・セントラル駅の中央広場にある、時計台の前だった。
 待ち合わせの定番であるその場所に到着した大河内先生は、そわそわと待ちきれないように時計に漆黒の瞳を向ける。
 それから漆黒の前髪をかき上げ、はあっと白い息を吐いた。
 ――日本を離れて、2ヶ月余り。
 教師を辞めてニューヨークで暮らし始めたこの2ヶ月は、忙しくてあっという間だったといえばそうかもしれない。
 だがその反面、この日――2月14日が待ち遠しくて堪らなくもあった。
 その理由は。
「……!」
 落ち着かない様子で周囲を見回していた大河内先生は、ふと顔を上げて瞳を大きく見開く。
 待ち人の姿が、ふっとその視界に入ってきたからである。
 そんな先生の漆黒の両の目に映っているのは。
「大河内先生……っ!」
 自分に駆け寄ってくる、ひとりの少女。
 その少女は人目もはばからず、大河内先生の胸に飛び込む。
 大河内先生はその少女・那奈の身体を受け止め、優しく彼女の頭を撫でた。
「那奈」
「大河内先生……」
 瞳を潤ませながらも、那奈はにっこりとその顔に微笑みを宿す。
 そんな那奈に笑顔を向けた後、大河内先生はハッと顔を上げた。
 それから、少しバツの悪そうに苦笑する。
「あっ、遼さん。こんにちは」
「こんにちは、大河内くん。仕方ないとはいえ、少々妬けるな」
 那奈とともに現れたのは、彼女の兄である遼だった。
 那奈の兄である遼も、偶然このニューヨークで仕事をしている。
 以前会った事があるという縁で、先生は何かとこっちでは遼にお世話になっていた。
 妹のことを溺愛している遼のことを知っている先生は、自分に今思い切り抱きついている那奈の様子に少し恐縮したような表情をする。
 だが遼は端正な容姿に上品な笑みを湛え、ふっと那奈と印象の似ている瞳を細めた。
 それから軽く手を上げ、ふたりに言ったのだった。
「それでは、僕はこれで失礼するよ。那奈、明日また迎えに来るからね」
「うん、ありがとう。お兄ちゃん」
 那奈は兄を振り返り、無邪気に手を振る。
 遼はそんな妹の様子にもう一度微笑むと、大河内先生に目を向けた。
 そして、柔らかな声でこう続けたのだった。
「大河内くん。那奈のことを頼んだよ」
「はい。きちんと責任持って、明日那奈を連れて来ますから」
 コクンと頷いて、先生ははっきりとそう言葉を返す。
 遼は彼の言葉に満足そうに笑みを宿した後、賑やかな人波の中へと歩き出した。
 兄が去ったのを見送ってから、那奈は気を取り直して再びギュッと先生に抱きつく。
「会いたかったよ、先生。すごく会いたかった」
「俺もだ、那奈。来てくれてありがとな」
 那奈は今、数日間学校を休んで先生に会いにニューヨークに来ていた。
 ちょうど兄の遼の家もあるし、悪いことながらに忌引きと偽りの理由を使っているために学校も欠席扱いにならない。
 ――恋人との、2ヶ月ぶりの再会。
 どうしてもバレンタインのこの日、那奈は彼に会いたかったのである。
 離れて暮らし始めてからも、毎日電話やメールなどで頻繁に話はしているのだが。
 やはり実際に近くに彼がいるのといないのでは、気持ち的に全然違う。
 那奈は懐かしい先生のぬくもりに、じわりと涙が浮かぶのを感じた。
 だがすぐにそれを拭って笑顔をみせた後、那奈は彼を見つめる。
 そして、涙声で言ったのだった。
「先生と会ったら話そうって思ってたこと、いっぱいあったのに……大河内先生の顔を見たら、何だか全部忘れちゃった」
「そうだな、俺もだよ。でもまだ、時間はいっぱいあるからな」
 大河内先生はぽんっと彼女の頭に手を添え、漆黒の前髪をかき上げた。
 那奈は嬉しそうに大きく頷いた後、ふと思い出したように口を開く。
「あ、ひとつ話したかったこと、思い出したよ。こっちに向かう飛行機からね、虹が見えたんだ。すっごく綺麗で、まるでオズの国に来たみたいだったの」
「出た、オズの魔法使い」
 ニッと悪戯っぽく笑い、大河内先生はグリグリと彼女の頭を撫でた。
 那奈は彼の大きな手の感触を感じながら、くすっと笑う。
「いいでしょ、好きなんだもん。そういう先生だって、歴史オタクでしょ?」
「オタクって言うな、オタクって。俺はオタクっていうか、歴史好きなんだよ」
「同じでしょ? ていうか、久しぶりに授業して。ね、先生」
「そうだな……どこの時代でも俺は構わないぞ?」
 そんな那奈の言葉に、先生は楽しそうに笑みを浮かべる。
 那奈は相変わらず子供のように目を輝かせる先生を見つめた後、彼の大きな胸にその身体を預けた。
 それから、幸せを噛み締めるように呟いたのだった。
「先生……先生が今、そばにいるんだね」
「ああ。そばにいるよ」
 大河内先生はそう答え、那奈の小さな身体をその腕に抱く。
 それから彼女の頬に手を添えて那奈の顔を自分の方に向かせると、神秘的な瞳を真っ直ぐに向けた。
 そしてスッと瞳を閉じると、周囲の人の目も気にせずに、羽のように軽いキスをそっと彼女の唇に落としたのだった。
 那奈は懐かしくて柔らかな接吻けの感触に、思わず堪えていた涙をポロポロと零す。
 先生は指でそれを拭った後、優しく恋人に言葉を掛けたのだった。
「本当におまえは泣き虫だな。ていうかここは寒いから、移動するか」
「うん。そうだね、先生」
 那奈は涙を拭いて頷くと、彼の隣に並ぶ。
 それからふたりは、そっとお互いの手を繋いで歩き始めた。
 握った手の平から、じわりと相手の体温が伝わる。
 そしてそのぬくもりを感じながら、ふたりは改めて実感したのだった。
 今、自分のすぐそばに――かけがえのない恋人がいるということを。