SCENE9 オズの宝石箱

「悠兄ちゃん、私……」
 はらはらと粉雪の舞う中――悠の家の前で。
 何かを言いかけた桃花はふと口を噤むと、どうしていいか分からない表情を浮かべた。
「桃花ちゃん?」
 悠はそんな彼女の様子に、優しく声を掛ける。
 耳に聞こえる、悠の柔らかな声。
 大好きな彼に名前を呼ばれ、桃花はカアッと顔を赤らめながらもさらに言葉が出なくなる。
 どうして今、自分はここにいるのだろうか。
 想いを寄せる悠が、もしかしたら那奈の彼氏になってしまうかもしれない。
 それを自分は望んでいたはずなのに。
 気がつけば……堪らずに家を飛び出し、彼の元へと走っていた。
 そして、決意したのだった。
 振られても構わないから。
 きちんと自分の気持ちを――彼に伝えようと。
 だが、そうは決意しても。
 いざ本人を目の前にすると、たった一言の言葉さえ口から出てこない。
 好き――それだけのことが、どうして言えないのだろうか。
 ――その時だった。
「あ……ちょっと、ごめんね」
 悠の携帯電話が着信を知らせ、メロディーを奏で始める。
 桃花は漆黒の瞳をぱちくりさせながら、慌てて頷いた。
 そんな彼女に微笑み、そして悠は着信者を確認して電話を取る。
「もしもし?」
 電話に出た悠をちらりと見てから、桃花は異様にドキドキと鼓動を早める胸を手の平で押さえ、落ち着くために深呼吸をする。
 雪の降る中で寒いはずなのに、気持ちが高揚していてか異様に頬が熱い。
 自分の火照った顔に手を添えつつ、桃花は那奈と同じ色の漆黒の瞳を伏せた。
 悠はそんな桃花の緊張した様子にも気がつかず、電話の相手と会話を交わしている。
「……うん、そっか。ありがとう、知美ちゃん」
 電話の相手は、知美だった。
 実は悠は、彼女にある頼み事をしていた。
 それは……。
「ごめんね、大河内先生に電話させちゃって……え? 何でこんなおせっかいするのかって?」
 携帯から聞こえてくる知美の問いに、悠は苦笑しつつ一瞬言葉を切る。
 そして綺麗なブラウンの瞳を細め、こう言ったのだった。
「さっき、見事に那奈ちゃんに振られちゃったんだ。でも好きだった子に、ささやかながらクリスマスプレゼントをしたいと思ってね」
「……えっ?」
 悠のその言葉に、桃花は驚いたような顔をする。
 聞き間違いではない。
 確かに今、悠は那奈に振られたと言った。
 でも、そんなこと……。
 到底信じられないといったような様子で、桃花は漆黒の瞳を悠に向けた。
 だがそんな桃花とは対称的に、目の前の悠は普段と変わらない穏やかな表情のまま電話を続けている。
「うん……そうだね、残念だけど仕方ないよ。……え? 慰めてくれるって? じゃあ、今度何か奢って貰おうかな……うん、ありがとう、知美ちゃん。また連絡するよ」
 そこまで会話した後、悠は携帯電話の通話終了ボタンを押した。
 そして携帯をしまってから、唖然と立ち尽くしている桃花に笑顔を向ける。
「話聞いてただろうけど、さっき那奈ちゃんに振られたんだ。桃花ちゃんは僕のこと応援してくれていたのに、ごめんね」
 桃花は何も言えないまま、大きく首を横に振った。
 そんな、応援だなんて。
 確かに悠の気持ちが那奈に通じるようにと、建前では言っていたが。
 でも……。
「……違うの、悠兄ちゃん」
 ポツリと、桃花はようやく言葉を発する。
「桃花ちゃん?」
 悠はふと表情を変えると、彼女に数歩近づいた。
 そして、そっと彼女の頭を優しく撫でる。
 いつの間にか桃花の目からは、ポロポロと涙が溢れ落ちていたのだった。
 桃花は自分の意思とは関係なく零れる涙を拭いもせず、ふっと顔を上げて悠を見つめる。
「私ね、悠兄ちゃんの気持ちが那奈お姉ちゃんに届くといいって、最初はそう思っていたの。でもね……それは、自分の気持ちを誤魔化すためのものでしかなかったの。だから本当に謝らないといけないのは、私の方……」
 そこまで言って、桃花は小さく息を吐く。
 それから、こう言葉を続けたのだった。
「私、悠兄ちゃんのことが好き。初めて会った時から、ずっと悠兄ちゃんのことが好きだったの。迷惑だって分かってるけど、振られるって分かってるけど……どうしても、気持ちを伝えたくて」
「……え?」
 桃花の突然の告白に、悠はブラウンの瞳を大きく見開く。
 だがすぐに優しく桃花に微笑むと、漆黒の目から流れる彼女の涙をそっと拭った。
 桃花は細くて長い彼の指の感触にドキッとしながらも、思い出したように鞄からあるものを取り出す。
「あと、これ……初めて作ったからあまり格好は良くないんだけど、悠兄ちゃんに」
 桃花が悠に差し出したのは、モスグリーンの手編みのマフラーだった。
 那奈に習いながら、彼女が一生懸命編んだもの。
 悠はそれを受け取り、自分の首に巻いた。
「ありがとう、桃花ちゃん。すごくあったかいよ」
「悠兄ちゃん……」
 桃花は悠の言葉に嬉しそうな表情を浮かべながらも、慌てて言った。
「あっ、ごめんね。もしいらなかったら、無理して貰わなくてもいいから。ごめんね、イキナリ告白とかプレゼントとか……」
 そんな彼女の言葉に、悠は大きく首を振った。
「ううん、桃花ちゃんの気持ちもマフラーも本当に嬉しいよ」
 それから悠は、冬の風で少し乱れた桃花の髪を手櫛で整える。
 そして。
「桃花ちゃん。僕からの返事と、クリスマスプレゼントのお返しだよ」
 その言葉と同時だった。
 彼女に与えられたのは――ふわりとした、柔らかい感覚。
 桃花は悠の行動に、思わず瞳をぱちくりとさせてしまった。
 悠の唇が……自分のものと、重なったからである。
 何が起こったかまだ信じられない様子の桃花の身体を、悠はギュッと抱きしめる。
 そして、彼女の耳元で言ったのだった。
「ずっと、僕のことを想っていてくれたんだね。片想いしている時の気持ちは、僕もよく分かるから……でももう桃花ちゃんに、そんな想いはさせないよ」
「ゆ、悠兄ちゃん……?」
 抱きしめられている感覚にドキドキしながらも、桃花はまだ何がどうなっているのか分からない表情を浮かべている。
 そんな桃花に、悠はゆっくりと続けた。
「桃花ちゃんが今まで僕を想ってくれた分、僕も君を大切にするよ」
「えっ!? そ、それってもしかして……!? ウソでしょ!?」
 ようやく悠に自分の想いが通じたのだと分かった桃花は、思わず声を上げてしまう。
 悠は妙に慌てる彼女の様子に、クスクスと笑った。
「ウソじゃないよ、桃花ちゃん。本当に嬉しかったよ、僕のことをそんなに前から想っててくれたなんて」
「悠兄ちゃん……」
 桃花はようやくにっこりと微笑むと、彼の胸に幸せそうに身を預ける。
 十中八九、振られるだろうと思っていたのに。
 こんなに幸せでいいのだろうか。
 むしろ、これは神様がくれたクリスマスプレゼントだろうか。
 桃花はそう思いながらも、彼のあたたかな体温を全身で感じる。
 悠はそんな彼女の身体をしっかりと受け止め、優しく漆黒の長い髪を撫でた。
「桃花ちゃん」
 短く名前を呼ばれ、桃花は顔を上げる。
 そして……真っ白な雪が降る中。
 ふたりはもう一度、キスを交わしたのだった。


 ――その頃。
 自宅を出た大河内先生は、長い階段を駆け上っていた。
 そして乱れた息を整えることも忘れ、上りきった先にあるドアを勢いよく開ける。
 それと同時に、ビュウッと強い冬の冷たい風が先生の身体を吹きつけた。
 先生は漆黒の瞳を細めてから、風に逆らって歩みを進める。
 大河内先生が辿り着いた――その場所とは。
「! 那奈……っ」
 彼から無意識的に発せられた声に、先にその場にいた人物はふと振り返る。
 それから、驚いたように言葉を返す。
「えっ!? 大河内先生……?」
 そこに立っていたのは、紛れもない那奈であった。
 大河内先生はホッとするような安堵の気持ちと、何とも言いようのない抑えられない気持ちを同時に感じる。
 そして……気がつけば。
 彼女に駆け寄り、その小さな身体を思い切り抱きしめていたのだった。
 那奈は突然現れた先生の行動に、驚いたような表情を浮かべる。
「せ、先生!? どうして?」
「どうしてってな、おまえがいなくなったって聞いて……心配したんだぞ!?」
「いなくなったって、私が?」
 話がよく分からない那奈は、きょとんとして漆黒の瞳を先生に向ける。
 今度は大河内先生が、そんな彼女の反応に不思議そうな表情をした。
「だってよ、さっき竹内から電話があって……」
 そう自分で呟いた、その瞬間。
 先生はふっと漆黒の前髪をかき上げて苦笑する。
 この時、知美が自分に電話をしてきた意図が先生にはようやく分かったからである。
「ったく、お節介やきやがって……」
 大河内先生は小さく微笑んでぽつりとそう言った後、那奈に視線を移した。
 仕組まれた、気の利いた罠。
 那奈がいなくなったと聞けば、慌てて自分が彼女を探しに飛び出すだろうと容易く見破られていたのだった。
 そして自分が、きっと彼女の元に辿り着けるだろうということも。
 ……そんな大河内先生の考えも知らず。
 那奈は自分を映す彼の両の目にドキッとする。
 大好きな先生が、今何故か自分の目の前にいて。
 自分の姿だけをその瞳に映し出している。
 これは何かの夢だろうか。
 自分たちは、別れたはずなのに。
 そう思いながらも、那奈は確かに目の前にいる彼の姿をじっと見つめる。
 大河内先生は気を取り直して黒を湛える瞳を細めた後、眼下に広がる景色に目をやった。
 そして、こう口を開いたのだった。
「約束、したもんな。今年のクリスマス・イブ、またこの景色を一緒に見ようって」
「大河内先生……」
 那奈は先生のその言葉に、大きくコクンと頷く。
 それから彼の視線を追って、目の前に広がる風景を見つめた。
 その場所とは――大河内先生の自宅のある、マンションの屋上だった。
 那奈と大河内先生は以前この場所に来た際、確かに約束を交わした。
 クリスマスイブ、一緒にまたこの場所に来ようと。
 あの時は虹の架かる雨上がりの空の下であったが。
 今瞳に映る景色は、それとは表情が全く変わっていた。
 真っ白な雪が舞い落ちる、ネオンに彩られた夜の街。
 その鮮やかな色は自然の虹のものとは随分と印象が違ったが、まるで宝石箱をひっくり返したような煌びやかなものであった。
 そして純白の粉雪が、その宝石に神秘的な美しさを加えている。
「綺麗……」
 那奈はそう呟き、ほうっと感嘆の白い息を吐いた。
 それからふと顔を上げると、思わず言葉を切ってしまう。
 いつの間にか隣にいる先生の漆黒の瞳が、再び自分に向けられていることに気がついたからである。
「那奈」
 先生が短く那奈の名を呼んだ。
 那奈はじっと先生に視線を返したまま、彼の次の言葉を待つ。
 愛しい恋人が、すぐ手の届く距離にいる。
 そう思うだけで、あんなに固いと思っていた決意が脆くも音を立てて崩れていくのを先生は感じる。
 今すぐに、彼女のことをこの手で抱きしめてやりたい。
 だが、そんな自分の強い気持ちに気がつく……それよりも前に。
 大河内先生は目の前の那奈の身体を、もう一度ギュッと抱きしめていた。
「駄目だな……あんなに決心したはずなのによ、やっぱり顔を見たらダメだ」
 彼の低いバリトンの声が心地良く那奈の耳に響いた。
 ふわりとした彼の体温のぬくもりが、まるで冷たい風から身を守ってくれているかのように那奈の全身を包み込む。
 大河内先生は自分の胸の中の彼女の感触を確かめるようにさらに強く抱きしめ、それから続けた。
「俺には、どうしてもおまえが必要だ。おまえじゃなきゃダメだ、那奈」
「先生……」
 途端に滲む視界の中、那奈は真っ直ぐに彼を見つめる。
 そして涙声になりながらも、彼に必死に言葉を返した。
「私も同じだよ、大河内先生……私も先生じゃなきゃ、ダメだよ」
 先生は今にも涙が零れ落ちそうな那奈を見つめると、ふっと優しく微笑む。
 そして、ゆっくりと彼女に訊いた。
「俺のこと、待っててくれるか?」
 お互いが……ずっと言いたかった、ずっと聞きたかった、その一言。
 でも先生は決してそれを言ってはいけないと、固く口を閉ざしてきたが。
 これが本当の、嘘偽りない正直な彼の気持ち。
 那奈はその言葉を聞いて、堪えていた涙をポロポロと零し始める。
 それから漆黒の長い髪を揺らし、大きく頷いた。
「うん、ずっとずーっと待ってるよ。十年でも百年でも千年でも、ずっと先生のこと待ってる自信あるもん」
「いくら何でも、そんなには待たせねーよ」
 漆黒の瞳を細めて流れ落ちる那奈の涙を指で拭った後、先生はその顔に笑みを宿す。
 そして真っ直ぐに彼女の黒の瞳を見つめ、こう続けたのだった。
「必ずおまえのこと、迎えに行くからな」
「先生……っ」
 那奈は溢れ出す涙を堪えることができず、彼の胸に身体を預ける。
 そんな彼女の頭を優しく撫でながら大河内先生は笑った。
「本当におまえは泣き虫だな、おい」
 それから先生は、もう一度彼女の頬を伝う涙を拭う。
 涙を拭った彼の大きな手は、そのまま那奈の顔を持ち上げた。
 そして、先生の黒の瞳がスッと伏せられる。
 次の瞬間――天より舞い落ちる粉雪のような軽い接吻けが、そっと彼女に与えられたのだった。
「愛してるよ、那奈」
 先生はそう那奈の耳元で囁くと、再び彼女に唇を合わせる。
 その接吻けを受け入れた那奈は、途端に身体全体が火照るのを感じた。
 大河内先生はそんな那奈を慈しむように、丁寧にキスを重ねていく。
「ん……っ」
 那奈はその気持ち良さに思わず息を漏らした。
 今まで抑えていた気持ちが溢れ出し、先生のキスが次第に情熱的に変化していく。
 すべてそんな彼の与えるキスを受け入れながら、那奈はにっこりと幸せそうに笑顔を宿したのだった。
 その後――ようやく甘く長い接吻けから開放されて。
 那奈は彼の肩にそっと頭をもたれ、額から伝わる恋人のぬくもりを再確認する。
 じわりと感じるあたたかさに微笑んでから、那奈は今この瞬間の幸せをかみ締めるかのように言った。
「大河内先生、大好きだよ。離れてたって、いつまでもずっと一緒だから……」
 ふっと優しくその言葉に笑みを見せると、大河内先生は那奈の身体を自分の胸に引き寄せる。
 その後すぐ、神秘的な漆黒の瞳を細めコクンと頷いた。
「ああ、ずっとずっと一緒だ」
 ――それから、ふたりは。
 宝石のようなネオン輝く街の景色を眼下に臨んだ、真っ白な雪の降る中。
 相手のぬくもりを確かめ合うかのように、強く強く抱き合う。
 そして再び溢れ出す想いを甘いキスに変え、互いの唇をふわりと重ねたのだった。