SCENE10 クロシェット ノエル

「可愛いね、このクリスマスツリー」
 屋上を後にして久しぶりに先生の部屋に足を踏み入れた那奈は、コートをハンガーに掛けながらリビングの小さなクリスマスツリーに目を細めた。
 先生はキッチンであたたかい紅茶を淹れながら彼女の言葉に苦笑する。
「それか? 勝手に香夜のヤツが置いていきやがったんだよ。ったく、荷物増やすなっての」
 そんな先生の言葉に、那奈はソファーに座ってふと周囲を見回し、ポツリと呟いた。
「荷物整理してたんだね。何かやっぱり寂しいな……」
 周囲には、荷物の詰められたいくつかのダンボール箱が見える。
 元々あまり余計なものが置かれていなかった広いリビングだったが、いつも以上にガランとした印象を受けた。
 通いなれた恋人の部屋のそんな様に、那奈は先生とのしばしの別れが近いことを途端に実感する。
 大河内先生は那奈の好きなアップルティーを淹れた後、彼女の隣に座った。
 そして優しく彼女の頭に手を添えると、神秘的な色を湛える瞳を那奈に向ける。
「すぐ迎えに行くって言ってるだろーが。それに今は、こうやって一緒にいられるんだからな」
「うん、そうだね。先生とクリスマスイヴ過ごせるなんて、それだけで幸せ……」
 那奈は微笑みを取り戻し、そっと彼に身体を預けた。
 同時に、先生の体温がじわりと伝わる。
 今自分のすぐ隣に、かけがえのない大切な人がいるのだと。
 全身を包み込む彼のぬくもりにそう感じながらも、那奈は夢を見ているかのような心地良さを覚えた。
 今日は人生で最悪のクリスマスイヴになるのではないかと、そう思っていたのに。
 だがまるで魔法のように……最高のイヴへと姿を変えたのである。
 大河内先生は敢えて何も言わずにそんな彼女を抱きしめ、優しく恋人のことを見守っていた。
 ――それから、数秒後。
 那奈は思い出したように顔を上げる。
「あ、そうだ。先生にね、クリスマスプレゼントあるんだ」
 そう言って那奈は、バッグから綺麗に包装されたあるものを取り出した。
 それを先生に手渡すと、少し照れたように笑う。
「開けてみて、先生」
 先生は那奈の言葉に頷くと、言われた通りかけてあるリボンを丁寧に解いた。
 そんな……プレゼントの中身は。
「マフラー? ていうか、もしかして手編みか?」
「うん。どうかな、先生?」
 ドキドキした様子で自分を窺う那奈に、大河内先生は嬉しそうに微笑んだ。
「めちゃめちゃ嬉しいよ、手編みのマフラーなんて初めて貰ったよ」
「本当に? よかったぁっ」
 ホッとしたように笑顔を宿した後、那奈はおおむろにその藍色をしたマフラーを手に取る。
 それから少し頬を赤く染め、言葉を続けた。
「少しね、長めに編んだの。ほら……そしたら、こうやって巻けるでしょ?」
 那奈はそう言って、深い藍色のマフラーを先生と自分の首に巻く。
 恋人のそんな行動に瞳をぱちくりとさせてから、先生は笑った。
「ひとつのマフラーをふたりで、か。何かベタで恥ずかしいけどよ」
 先生はそう言いつつも、ふわりとしたマフラーの感触に瞳を細める。
 それから、ゆっくりとかみ締めるように呟いたのだった。
「でも……すごく、あったかいな」
 自分の持っているどんな高級なものよりも、そのマフラーは驚くほどあたたかくて。
 手編みのマフラーというものが、こんなにも心地良いものだとは知らなかった。
 大河内先生は首に巻かれたマフラーを手の平で撫で、一生懸命に自分のために編んでくれた彼女に心から感謝した。
 那奈はにっこりと微笑んで、そんな彼を幸せそうにじっと見つめる。
 大河内先生は彼女に笑みを返した後、ふっと瞳を伏せた。
 そして彼女の唇に、そっと軽いキスを落とす。
 那奈はさらに頬を赤くさせながらも、嬉しそうな表情をその顔いっぱいに宿した。
 大河内先生はその後すぐマフラーを一旦外し、おもむろに立ち上がる。
 それからリビングの隅に置かれていた箱を持ってきて、那奈に手渡した。
「那奈。これは、俺からのクリスマスプレゼントだよ」
「えっ?」
 那奈はその言葉に、驚いたような顔をする。
 一度別れたのだから、先生が自分にプレゼントを用意しているなんて思ってもいなかったからである。
 大河内先生は照れ隠しのように笑い、口を開く。
「それ、海外に仕事行くって決まる前に買っておいたものなんだけどな。その後別れたからよ、どうしようかと思ってたんだ」
「そんな前からプレゼント用意してくれてたの? 開けてもいい?」
 那奈はプレゼントの箱と先生の顔を交互に見つめた。
 漆黒の前髪をかき上げ、大河内先生は彼女の言葉に頷く。
 那奈はそれを確認し、ゆっくりとその箱を開けた。
「先生、これって……」
「ちょっと季節的に今は履けないかもしれないんだけどな、偶然店でそれを見かけて。これだって思って、サイズ取り寄せて貰ったんだよ」
 那奈は出てきたプレゼントの中身に、パッと目を輝かせる。
 それから途端に嬉しさに涙を浮かべつつ、まじまじとそれを見つめた。
「銀の靴だね、オズの魔法使いの。魔法の銀の靴……」
「靴っていうよりも、サンダルだけどな。でもいかにもオズの魔法使いってカンジだろ? おまえが好きそうだなって思ってな」
「すっごく嬉しい……ありがとう、先生」
 那奈は手にしているプレゼント・銀色のサンダルを、ぎゅっと胸に抱きしめる。
 ――大好きな『オズの魔法使い』の物語の中で。
 履いてかかとを3回鳴らすと、自分の思い描いた場所に一瞬にして連れて行ってくれるという魔法の靴がある。
 そして童話のラストシーンで、ドロシーもこの銀の靴を履いた。
 その魔法のおかげでドロシーはオズの国から自分の家へと帰ることができ、物語もハッピーエンドを迎えたのだった。
 そんな大好きな童話をなぞらえた、銀のサンダル。
 もちろん、先生から思わぬプレゼントを貰えたということも嬉しかった那奈だったが。
 それ以上に、自分の大好きな『オズの魔法使い』に合わせてこれを選んでくれた。
 そんな先生の気持ちが、すごく嬉しかったのである。
「この銀の靴履いたら、童話みたいに魔法使えるかな?」
 嬉し涙の溜まった瞳をそっと拭い、那奈はふふっと笑みを浮かべる。
 大河内先生は彼女らしいその言葉に笑った。
「使えるかもな。でもおまえ、その銀の靴にどこに連れてってもらうんだ?」
 那奈はそんな先生の問いに少し考える仕草をした後、大きく首を振る。
 そして大事そうに銀の靴を箱にしまうと、彼にこう答えたのだった。
「今は、どこにも行きたくないよ。だって、こうやって先生のそばにいるんだもん。魔法の靴の出番はもう少し先かな」
「那奈……ああ、そうだな」
 大河内先生は大きな手を那奈の頬に添え、神秘的な瞳を細める。
 それから長い指で少し火照った彼女の頬をなぞり、言った。
「おまえって、本当に泣き虫なんだからよ」
 先生と一緒にいられる幸せを強く感じてポロポロと零れ始めた那奈の涙を先生は優しく拭う。
 那奈は溢れ出した感情を抑えきれず、ぎゅっと彼の首に手を回した。
「先生、私……大河内先生のこと、ずっと待ってるから。大好きだよ、先生……っ」
「ああ。俺も愛してるよ、那奈」
 ひっくひっくと泣き出した那奈の身体を受け止めて、先生は彼女の頭を宥めるように撫でる。
 恋人同士に戻ったふたりであるが、しばらく離れて暮らさなければいけないという事実は変わらない。
 仕方がないこととはいえ、その間は那奈に寂しい思いをさせてしまう。
 それならいっそ、別れた方がいいのではないかと。
 一度はそう決断したのだったが。
 やはり自分には那奈が必要であるし、那奈も自分のことをそう思ってくれていると改めて感じた。
 でも彼女はまだ高校生で、年も自分よりも十以上も若い。
 いつ戻れるか分からない自分を待つことになる今後に、少なからず不安を感じているだろうし何より辛いだろう。
 自分のせいでそんな思いをさせることを申し訳なく思いつつも、先生は精一杯誠意を込めて目の前の彼女を抱きしめた。
 そして、改めて誓ったのだった。
 誰でもない自分が、那奈のことを幸せにしてやろうと。
「那奈」
 まだ涙の止まらない那奈に優しく呼びかけ、大河内先生は彼女の顔をそっと待ちあげる。
 潤んだ那奈の両の目が、先生の姿だけを真っ直ぐに映し出していた。
 大河内先生は濡れた彼女の頬を数度撫で、スッと瞳を閉じる。
 そして……彼女の唇に、そっとキスを落としたのだった。
 那奈もその接吻けに応えるように目を伏せ、それを受け入れる。
 先生は慈しむようにキスを重ね、溢れ出る愛情を彼女に注いだ。
 そして余韻を残すようにゆっくりと唇を離すと、ぎゅっと強く那奈を抱きしめて言った。
「愛してるよ、那奈。俺が、おまえを幸せにしてやるから」
「先生……」
 那奈は再び流れそうになる涙を必死に堪え、大きく頷く。
 それから大河内先生の顔を見上げ、口を開いた。
「先生。先生が教師辞めても、ずっと私は先生の教え子だよ。でもね、今までと今は……もう、ふたりの関係って違うよね。先生が教師だった時は、私たちは先生と生徒って関係でもあり、恋人同士でもあるってカンジだったけど……今は、教師と生徒って制約はなくなったよね。そうでしょ?」
 先生は見守るようにそんな那奈の言葉を黙って聞いている。
 そんな先生に、那奈はこう続けたのだった。
「だからね、もう我慢しなくていいよ、先生。もう十分、先生は私のこと大切にしてくれたから」
「那奈……」
 大河内先生は深い黒の瞳を彼女に向ける。
 那奈はそんな彼にスッと唇を重ねた後、にっこりと微笑んで言った。
「大河内先生。私のもうひとつのクリスマスプレゼント……貰ってくれますか?」
 先生はその言葉に、小さく笑みを宿す。
 それから大きく首を振ると、彼女に言葉を返した。
「駄目だ、貰えねーよ」
「……え?」
 返ってきた彼の思わぬ答えに、那奈は思わず言葉を失う。
 だが――その時だった。
「! きゃっ」
 ふわっと身体が急に浮いたような感覚を覚え、那奈は短く声を上げた。
 そして無意識的に先生の首に腕を回す。
 ――大河内先生が、那奈の身体を抱えて立ち上がったのだった。
 いわゆる、お姫様抱っこと言われる体勢である。
 突然の先生の行動に、那奈は驚いた表情をして彼に目をやった。
 そんな那奈に笑顔を向けてから、大河内先生は彼女の耳元でこう囁いたのだった。
「駄目だ、そんな大切なもの……こんなところで貰えない。そうだろう?」
 先生はそう言って、那奈を抱えたままリビングを出る。
 それから寝室の柔らかなベッドの上に彼女を降ろし、彼女の髪をそっと手櫛で整えた。
 そして瑞々しい那奈の唇に、再び自分のものを重ねる。
「! ん……っ、先生……っ」
 先程与えられたのものとは印象の違うその濃厚な接吻けに、那奈は堪らず息を漏らした。
 大河内先生は彼女の頭に手を添えて引き寄せ、さらにキスを重ねる。
 スルリと難なく侵入してきた彼の舌が彼女のものを捉え、絡みついた。
 那奈はうっすらと瞳に涙を溜めつつ、先生にしがみつく様にそれを受け入れる。
 先生はキスを与えながら、ゆっくりとそんな彼女の身体を倒した。
 彼女の漆黒の長い髪が、ふわりと流れるようにベッドに広がる。
 大河内先生は彼女の頬にかかる黒髪を払い除けてから、その身体を強く抱きしめた。
 そして軽く耳に唇を這わせて甘噛みし、熱い吐息を吹きかけるように囁く。
「愛してるよ、那奈」
「先生……私も、先生のこと……っ」
 言葉が終わるその前に、先生は彼女の唇を自分のもので塞いだ。
 微熱を帯びた身体が重なり合い、互いの体温がじわりと混ざり合う。
 先生は細くて長い指を這わせ、那奈の服のボタンを魔法のようにスルリと外していく。
「! あ……」
 その指の感触に反応し、那奈は思わずビクンと身体を震わせた。
 大河内先生はふと手を止め、漆黒の瞳を優しく彼女に向ける。
「那奈」
「先生……私も先生のこと、大好きだから……ね?」
 那奈は自分を思いやるように動きを止めた先生にそう言って、小さく微笑んだ。
 大河内先生はその言葉に、優しく頷く。
 そして彼女を安心させるかのように、羽のようなキスを落としたのだった。
 それから――窓の外に舞い降る純白の雪さえも、気がつかずに。
 ふたりは、お互いの身体でお互いの深い愛情を確かめ合った。
 その頃、誰もいないリビングでは。
 小さな可愛らしいクリスマスツリーがキラキラと鮮やかな色を湛え、静かに煌びやかな光を放っていたのだった。