SCENE8 消えたプリンセス

 冷たい冬の風が漆黒の髪を大きく揺らし、白い雪がふわりと降り積もる。
 だがそんな凍えるような寒さすら、この時の那奈は気にかける余裕がなかった。
 むしろ身体中が熱を帯び、心臓が異様なくらいドキドキと鼓動を刻んでいる。
 今、何と言ったのか。
 そう悠に聞き返すこともできず、那奈はただ彼の腕の中で動けずにいた。
 悠はそんな那奈の様子に気づき、もう一度彼女の耳元で言った。
「僕は那奈ちゃんのことが好きだよ。小さい頃から、ずっと」
 優しい響きが耳をくすぐり、自分の身体を抱きしめる彼の力が強くなる。
 聞き間違いなんかじゃない。
 確かに悠は、自分のことを好きだと。
 これはもしかしなくても、愛の告白以外の何物でもない。
 でもまさか……悠が、自分のことを好きだったなんて。
 その思いがけない事実に、那奈は言葉を失ってしまう。
 悠はいつも自分の近くにいてくれて、幾度となく助けてくれた。
 優しくて顔も頭も良い、自慢の幼馴染み。
 悠の胸の中はあたたかく、今も寒さから守ってくれているかのように自分の身体を包んでくれている。
 そして自分のことを――心から、大切に想ってくれている人。
 那奈はそんな彼の誠実な気持ちを強く感じ、気持ちが大きく揺らいだ。
 もう大河内先生のことは、忘れないといけないのだろうか。
 いずれにせよ先生は近いうちに日本を離れることになる。
 距離が遠く離れてしまえば、そのうち心も気持ちも離れていくのだろうか。
 自分のことを大切にしてくれる悠と新しい一歩を踏み出せば。
 そしたら先生のことを、早く忘れることができるだろうか……――。
 那奈はようやく顔を上げ、悠の綺麗な顔に視線を向けた。
 自分を真っ直ぐ見つめている悠のブラウンの瞳は優しい光を宿し、綺麗に澄んでいる。
「那奈ちゃん」
 穏やかで柔らかな悠の声が、彼女の名を呼ぶ。
 悠は風で少し乱れた那奈の髪を手櫛で整えた後、そっと彼女の頬に手を添えた。
 彼のあたたかい大きな手の感触に、那奈は胸の鼓動を早める。
 それから悠は那奈の顔を少しだけ上げてから、ゆっくりとブラウンの瞳を伏せた。
 近づいてくる悠の綺麗な顔にドキドキしながらも、那奈は思ったのだった。
 このまま彼に身を任せれば、自分は幸せになれるだろう。
 もう、大河内先生のことは忘れなければいけない。
 きっと悠が、先生のことを忘れさせてくれる……。
 那奈は決意を固めたように小さく頷き、彼の気持ちに応えようと顔を上げた。
 そしてスッと漆黒の瞳を閉じたのだった。
 だが、そんな那奈の瞼の裏に鮮明に映るのは。
「……悠くん」
 ――悠の唇が那奈のものと重なる、直前。
 那奈は再び瞳を開くと、ようやく閉ざしていた口を開く。
 悠は動きを止めて那奈を見つめ、彼女の次の言葉を待っている。
 きっと悠と付き合えば、幸せになれるだろう。
 大河内先生のことだって、忘れさせてくれるかもしれない。
 でも……。
 那奈はふっと顔を上げ、ゆっくりと悠に告げる。
「ごめん、悠くん。悠くんの気持ちはすごく嬉しいよ。でもね、私……やっぱり、大河内先生じゃなきゃダメなの」
 那奈は意を決して、今の自分の気持ちを正直に口にした。
 悠の気持ちを受け入れ、彼の唇が自分のものと重なろうとした瞬間。
 脳裏に浮かんできたのは、誰でもない大河内先生の姿だったのである。
『那奈、愛してるよ』
 耳に心地よいバリトンの声、神秘的な漆黒の瞳。
 子供のように無邪気で、そして大人な人。
 自分が大好きな、世界でたったひとりのかけがえのない人。
 それはやはり、大河内先生以外の誰でもないのだから。
「悠くんと一緒に歩いていけば、私は幸せになれると思う。でもね、やっぱり……やっぱり私、大河内先生じゃないとダメなの。ごめんね、本当にごめん」
 那奈はじわりと滲む涙を懸命に堪え、悠にそう告げた。
 悠はそんな那奈の髪を優しく撫でると、首を振る。
「謝らないで、那奈ちゃん。那奈ちゃんの気持ちはよく分かったから」
「悠くん……」
 いつも通り柔らかな笑顔を向ける悠を見て、那奈は堪らず涙をポロポロと零す。
 悠はもう一度優しく那奈の身体を抱きしめた後、そっと彼女の涙を指で拭った。
 そして、彼女にこう言葉を掛ける。
「那奈ちゃん、これからも僕は今までと変わらず那奈ちゃんの力になってあげたいって思ってるよ。だから、泣かないで」
 悠の言葉にコクリと小さく頷き、那奈は頬を伝う涙を拭いた。
 それからようやく小さく笑みを見せ、言ったのだった。
「ありがとう、悠くん。私……行かなきゃ。今から、行かないといけないところがあるの」
「行かないといけないところ……大河内先生のところ?」
 その問いに、那奈は大きく首を横に振る。
「ううん、たぶん大河内先生は来ないだろうけど、先生と約束した場所があるの。私、その場所に行こうと思ってる」
 悠はブラウンの瞳を優しく細め、彼女の言葉に頷いた。
「そっか、気をつけて行っておいで。僕はいつでも那奈ちゃんの味方だから」
「ありがとう、悠くん」
 那奈はにっこりと微笑みを返し、くるりと彼に背を向ける。
 そして振り返って手を振ると、はらはらと雪の舞う中を歩き出したのだった。
 悠はそんな後姿が見えなくなるまで、その場で彼女を見送る。
 それから彼女が去った後、ゆっくりと自宅に向かって歩みを始めた。
「ちょっと、焦っちゃったかな……」
 そう呟いて、悠はふっと白い息を吐く。
 いや、いつ自分の気持ちを彼女に伝えても同じ結果になっただろう。
 那奈の漆黒の瞳を見て、悠はそう強く感じたのだった。
 悠は空から舞い落ちる雪を瞳に映した後、もう一度大きく嘆息する。
「今日は、クリスマスイヴか……」
 それだけ言ってから、悠は少し何かを考えるような仕草をした。
 そしておもむろに携帯電話を取り出すと、誰かに電話を掛け始める。
「……あ、急に電話してごめんね。今、少し大丈夫? 実は、お願いがあるんだけど」
 悠は電話に出た相手に、ある頼み事をした。
 それから電話の相手が快く承諾してくれたのを確認し、礼を言って電話を切る。
 再びポケットに携帯電話をしまった後、悠は綺麗な顔に小さく笑みを宿してこう言った。
「僕からの、ささやかなクリスマスプレゼントだよ」
 ――その時だった。
 自宅を目前にした悠は何かに気がつき、ぴたりとその場に足を止める。
 そして再び足早に歩を進めると、その場にいた人物に声を掛けた。
「桃花ちゃん? どうしたの、こんなところで」
「あ……悠兄ちゃん」
 悠の自宅の前に立っていたのは、桃花だった。
 桃花は一瞬悠の姿を見つけて嬉しそうな顔をしたが、途端に俯いてしまう。
 それから、遠慮気味に口を開いたのだった。
「あのね、悠兄ちゃん……」


 ――その頃。
 荷物整理をしていた手がすっかり止まってしまった大河内先生は、ひとりリビングのソファーに座ってテーブルの上のツリーを見つめていた。
 今日は、クリスマス・イヴ。
 那奈に別れを告げなければ、今頃は彼女と一緒に過ごしていただろう。
 だが現実は、一人寂しく過ごす何よりも辛い日になってしまった。
 それは自分が決断したことで、後悔はしていない。
 後悔はしていないが……やはり辛いことには変わりないのである。
 今頃、那奈はどうしているだろうか。
 彼女の学校での様子を見る限り、まだきっと思い悩んでいるだろう。
 だが、彼女の周囲には彼女の大切な友人たちもいる。
 事情を知っている彼らが彼女の気を紛らわしてくれていることを願うしか、今の自分にはできないのだ。
 せめて、彼女の声だけでも聞きたい。
 そう思って、何度携帯電話を手にしたか分からなかったが。
 本当は別れたくなんてない、今でもおまえのことを愛していると。
 正直な気持ちを口に出してしまいそうな自分がいて。
 大河内先生は那奈に連絡を取ることができないでいた。
 自分から別れを告げた手前、彼女を抱きしめてやることはもうできない。
 できるならば、誰でもない自分が彼女のそばにいてやりたいのに。
 だが、きっともう一度彼女を抱きしめてしまうと……自分の決意が、確実に揺らいでしまうから。
 大河内先生は漆黒の前髪をザッとかき上げ、大きく溜め息をつく。
 そして気を紛らわせようと、冷蔵庫にビールを取りに立ち上がった。
 ――その時だった。
 シンとした部屋の静寂を破るように、先生の携帯電話が誰かからの着信を告げる。
 先生は小さく首を傾げ、携帯電話を手に取った。
 そして着信者を確認して少し考えるような仕草をしたが、電話に出たのだった。
「……もしもし?」
『あっ、アイちゃん。ごめんね、電話しちゃって』
「竹内……何だ、どうした?」
 電話の相手は、那奈の友人の知美だった。
 大河内先生は再びキッチンに向かい、携帯電話を肩に挟んで冷蔵庫を開ける。
 そんな先生に、知美は深刻そうな声でこう言ったのだった。
『あのね、アイちゃん。アイちゃんのところにさ……那奈、来てないかな?』
「え? いや、来てないけどよ。どうしたんだ?」
『それがね、家に電話しても携帯に電話しても、那奈と連絡がつかないの。悠くんとも一緒じゃないし、今みんなで探してるんだ』
 知美はそれから、はあっと溜め息をついて続ける。
『あの子、最近すごく思いつめてたからさ……って、勘違いしないで、アイちゃんを責めてるわけじゃないのよ? ただあの子、こういう気持ちの整理って下手だからさ、連絡取れなくて心配で。もしかしてアイちゃんトコかなって、電話してみただけだから。ごめんね』
「…………」
 大河内先生は思わず言葉を失ってしまう。
 確かに那奈は知美の言う通り、気持ちの整理をつけることが苦手なタイプである。
 それに今日は、クリスマス・イヴ。
 余計に彼女の気持ちも滅入ってしまっているのかもしれない。
 その原因を作ったのは……誰でもない、自分なのだが。
 黙ってしまった先生の様子に、知美は申し訳なさそうに言った。
『ごめん、アイちゃん。那奈の行きそうなところあたってみたけど見つからなくて……別のところ探してみるね、じゃあね』
「バーカ、別におまえが謝ることじゃねーよ。じゃあな」
 大河内先生は無理に明るくそれだけ言って、携帯電話を切った。
 その後、何かを考えるように漆黒の瞳を伏せる。
 那奈の姿が見当たらないなんて。
 しかも当然といえば当然なのかもしれないが、自分のところには来ていない。
 一体、どこに行ってしまったんだろうか。
「那奈の、行きそうなところ……」
 ぽつりとそう呟いた後、大河内先生は冷蔵庫から取り出したビールを無造作にキッチンのテーブルに置いた。
 それからふっと閉じていた漆黒の瞳を開き、おもむろにそばに掛けていたコートを手に取る。
 そしてクリスマスツリーを飾る派手な電飾も消さずに、足早に部屋を出て行ったのだった。