SCENE7 白の呪文
12月24日――クリスマス・イヴ。
桃花は自室の窓から外を眺めながら、大きく溜め息をついた。
立派な豪邸が多い高級住宅地にある彼女の家の窓からは、派手に飾り付けられた各豪邸の煌びやかなクリスマスイルミネーションが見える。
だがそんな電飾の光も、今の桃花の漆黒の瞳には映ってはいなかった。
桃花は机にうつ伏せになり、ぎゅっと目を伏せる。
ぐるぐると頭をめぐっているのは、悠の言った言葉。
『僕が早く彼女のことを幸せにしてあげなきゃって思ってる。それが、僕のありのままの気持ちだから』
あの時の悠の表情は決意に満ちており、迷いはなかった。
きっと……悠は近いうちに、自分の気持ちを那奈に伝えるだろう。
悠の気持ちをずっと応援してきた桃花としては、彼の想いが那奈に通じれば、喜ばしいことのはずだが。
でも、何故だろうか。
こんなに胸が苦しいのは。
軽い頭痛がし、妙に心臓が鼓動を早めている。
『ていうか、一見一途で綺麗な事ばっか言ってるけどな。要はおまえ、フラれるのがコワいんだろ』
『自分の気持ちを欺くために、エメラルド色の眼鏡をかけてるんだ』
同時に響くのは、大河内先生と悠の声。
「そんなこと言っても、どうすればいいか分からないよ……っ」
堪らずにそう呟き、桃花はじわりと瞳に涙を溜める。
悠のことが好き。
昔から抱いている、大切な自分の気持ち。
でもだからこそ、自分は悠の恋の応援を精一杯しようと心に決めたはずなのに。
なのに……どうしてこんなに、すっきりしない気持ちに陥るのだろうか。
いや、本当は分かっているのだ。
自分にはただ、気持ちを偽るエメラルド・グラスを外す勇気がないのだということを。
だって、それを外してしまったら……。
桃花は今にも溢れそうな涙をぐいっと拭ってから、ふとあるものに目を向けた。
そしてそれを手に取り、ぎゅっと強く抱きしめる。
それは悠のために一生懸命編んだ、手編みのマフラーだった。
初めて作ったために、少し不恰好な出来だけれど。
でもありったけの想いを込めて、一目ずつ編んだもの。
マフラーを握り締める桃花の口から、自然と言葉が漏れる。
「やっぱり私、悠兄ちゃんのこと……っ」
ポロポロと瞳から零れる涙が、桃花の頬を伝う。
どうしてこんなに自分は中途半端なのだろうか。
自分の気持ちに正直になることも、心から悠の気持ちを応援することもできないなんて。
桃花はマフラーを抱いたまま流れる涙も拭わずに、ぎゅっと自分の不甲斐なさに唇を噛み締めたのだった。
――同じ頃。
ひとり広い家のリビングで、那奈も暗い表情を浮かべていた。
家でひとりでいることなんて、慣れているはずなのに。
今の自分には、この沈黙が辛すぎる。
那奈は気を紛らわせるかのように愛犬トトの頭をそっと撫でた。
トトは一瞬気持ち良さそうに目を細めた後、那奈に寄り添うように寝転がる。
そんな可愛らしい仕草に小さく微笑んでから、那奈はソファーに身を預けた。
今日は、クリスマス・イブ。
先生と恋人になって、初めてのクリスマス・イヴ。
そのはずだったのに。
まさかこんなことになるなんて……。
那奈は滲んだ視界を誤魔化すように、思わず瞳に手を添える。
閉じた瞳の奥に映るのは、彼の面影。
この日はクリスマス・イヴであると同時に、二学期最後の終業式でもあった。
つまり……大河内先生の、教師生活最後の日である。
終業式後、退職する先生に生徒たちから花束が贈られていた。
生徒たちに囲まれている先生の姿は嬉しそうでもあり、寂しそうでもあった。
そしてそんな大河内先生の様子を、那奈は遠くから眺めることしかできなかったのである。
もう先生とは、学校で会うことはない。
彼の日本史の授業を受けることもできないのである。
いやそれどころか、もう二度と会えないかもしれないのだ。
年が明けてすぐ、彼は海外に行ってしまうのだから。
そう考えただけで、涙が止まらない。
もう、どれくらいたくさん泣いたか分からないのに。
どうしてこんなにとめどなく涙が溢れてくるのだろうか。
この涙が乾いたら、その時は先生のことを忘れられるだろうか。
やはり、もう彼のことは忘れないといけないのだろうか……。
そんなことを思いながら、那奈は大きく嘆息した。
――その時。
静寂を破るように、那奈の携帯電話が誰かからの着信を知らせる。
那奈はふと我に返り、慌てて涙を拭う。
そして一呼吸置いた後、電話に出た。
「もしもし?」
『那奈ちゃん、僕だけど。今、いいかな』
耳に聞こえてくるのは、聞き慣れた柔らかな声。
那奈は泣いていたのを悟られないように、極力明るい声で答えた。
「うん。大丈夫だよ、悠くん」
電話の相手・悠はもちろん今の那奈の様子に気がついたようだったが、敢えてそのことには触れずにこう話を切り出す。
『那奈ちゃん、今から時間あるかな。一緒に何か食べに行かない?』
「…………」
那奈は悠の誘いに、一瞬どうしようかと言葉を噤む。
シンと静まり返った家にひとりでいるのも辛いが、クリスマスで賑やかな繁華街に出るのも今の那奈には辛かったのだった。
だがそんな彼女の心境を察した悠は、優しくこう続ける。
『今から繁華街まで出るのも何だから、家の近くの洋食屋にでも行く? 那奈ちゃん、前に行ってみたいって言ってたよね』
「悠くん……」
那奈は自分の気持ちに気を配ってくれる悠の言葉に、俯いていた顔を上げた。
このままひとりでいても、ただ泣くことしかできないだろう。
少しは気分転換に外に出た方がいいのかもしれない。
そう思った那奈は、悠の申し出に頷く。
「うん、美味しいもの食べに行こうか」
『じゃあ、今から那奈ちゃんの家に迎えに行くから。待っててね』
「分かった、用意して待ってるから」
そう言って、那奈は悠との電話を切った。
それから顔を洗うために洗面所へと赴く。
「……何てひどい顔」
自分の泣き顔を見てそう呟き、那奈は顔を洗った。
せっかく悠が気を使って誘ってくれたのに、こんな泣き顔では彼に申し訳ない。
那奈は無理に小さくひとつ笑みを作ってから、両手でパシンと頬を軽く叩く。
そして自室へと向かい、バッグとコートを手にしてからリビングへと戻った。
だが、ふと考える仕草をして。
那奈はもう一度自分の部屋へと足を運ぶと、あるものを持ってくる。
「こんなもの持っていってどうするんだろ、私……」
そうぽつりと呟いて、少し悩んだように那奈は手にしているあるものを見つめた。
そして、バッグの中にそれを入れたのだった。
――それから、数分後。
家のチャイムが鳴り、悠が那奈のことを迎えにやって来る。
「那奈ちゃん、お待たせ。行こうか」
悠は嬉しそうに尻尾を振るトトを撫でてから、那奈に優しく微笑む。
那奈はマフラーを巻きながら、コクンと頷いた。
そしてパチンと家の照明を消すと、悠とともにクリスマス・イヴの街へと歩みを進めたのだった。
――同じ頃。
大河内先生は感慨深そうに、家の荷物整理をしていた。
そんな先生の瞳に映るのは、教師だった頃に使っていたいろいろなものの数々。
まだ学校に置いているものもあるため、年明けまでにあと数回学校には行かないといけないのだが。
でも今日が、生徒たちの前に教師として立つ最後の日だったのである。
いるものといらないものを分けながらも、先生はひとつひとつのものに詰まった思い出をかみ締めていた。
その時。
「……?」
大河内先生は作業をしていた手を止め、ふと顔を上げる。
微かに何かの金属音がしたような気がした。
だがその金属音の正体が何か、先生にはすぐに分かったのだった。
そして同時に聞こえてきたのは、いやという程聞きなれている甘い声。
「はろー、アイちゃーんっ。メリークリスマスイヴ!」
「あ!? はろー、じゃねぇよっ。いつも急に住居侵入してくんな、おまえはっ」
はあっとわざとらしく嘆息し、大河内先生は漆黒の瞳を突然やって来た姉・香夜に向ける。
香夜は先生と同じ色をした瞳を悪戯っぽく細めた後、持っていた少し大きな荷物をドンとリビングのテーブルの上に置いた。
そして素早く包み紙を剥ぎ取ってコンセントを差し込むと、楽しそうに手を叩く。
「じゃーんっ。せっかくのクリスマス・イヴなのにさー、アイちゃんが寂しくて泣いてるんじゃないかって思って、クリスマスツリー持ってきましたぁっ」
高さ30cmほどの小振りのツリーではあるが、色とりどりの電飾がピカピカと輝いている。
先生は姉の早業に一瞬きょとんとしつつ、思わず頭を抱えた。
「は? ソッコーで今すぐあと1秒で帰れっ。てか、荷物増やしてんじゃねーぞっ」
「言われなくてもすぐ帰るわよぉ。今から旦那様と、都内のホテルで甘いイヴを過ごす予定だからっ」
キャッとはしゃいだようにそう言う姉に、先生は大きく溜め息をつく。
「んじゃ、さっさとこの派手なツリー持って帰れ」
「まーまー。ちょっと待ち合わせ時間まで時間余っちゃったからさー。てか、もうこの家に遊びに来られるのも何度かだろうから、寂しくて泣いてる弟をヨシヨシしてあげようと思って」
「時間潰しに住居不法侵入かよっ。それにな、誰も泣いてないっての」
ふいっと香夜から視線を逸らし、先生は再び片づけを始めた。
香夜はそんな先生の反応を見つめがら、ソファーに座る。
そして綺麗な足を組み、再び口を開いたのだった。
「ま、アイちゃんもツライだろうけど、美人なお姉様が応援してあげるから」
「……自分で美人とか図々しく言ってんじゃねーよ、おまえは」
先生は姉の言葉に複雑な表情を浮かべつつ、そう一応突っ込みを入れた。
もちろん香夜には、那奈と別れることを前に伝えている。
そして那奈と別れることを告げた時、きっと何かいろいろ言われるのだろうと思っていた先生だったが。
香夜はその報告を聞いても、特に何も言わなかったのである。
ただ、この一言だけ。
『アイちゃんがそう決めたんなら、それでいいんじゃないの?』
先生は姉の言葉を意外に感じながらも、何だか少しだけ重かった気持ちが楽になった気がしたのだった。
とはいえ、口に出してそんなことは言えないのだが。
「さー、アイちゃんの可愛い顔も見れたし、お姉様は旦那様とラブラブイヴを過ごしに出かけよっかな」
香夜はにっこりと微笑み、ソファーから立ち上がる。
それからヒラヒラと先生に手を振りながら、玄関へと向かった。
「おい、待て。ツリー置いてくなってのっ」
「やだぁっ、遠慮しなくていいからっ。お姉様からのクリスマスプレゼントってコトで。んじゃーねーっ」
「遠慮ってな、ちょっと待て……っ!」
一生懸命引き止める先生にも構わず、香夜は無邪気に笑ってパタンとドアを閉める。
先生は香夜が居なくなった後、リビングで煌びやかな光を放つツリーに目をやり、大きく息を吐いた。
そして諦めたようにリビングへと戻り、再び荷物をダンボールに詰め始めた。
――その時だった。
「…………」
ふと、おもむろに先生の手が止まる。
そんな彼が手にしているのは――1枚の手紙。
先生は漆黒の瞳を手紙に向けると、そっと中身を開いた。
それは今年のバレンタインに、那奈から貰ったもの。
始まりは、すべてこの日からだった。
だがそんな幸せだった日々も、すでに終わりを告げている。
大河内先生は小さく首を振り、元の通りに手紙を折りたたむ。
そしてそれを、ダンボールの箱に詰めたのだった。
悠とふたりで静かな住宅街を抜け、那奈は家の近くの公園に差し掛かっていた。
冷たい冬の風が彼女の長い黒髪を大きく揺らす。
悠は少し乱れた那奈の髪をそっと手櫛で整え、優しい微笑みを彼女に向けた。
那奈はそんな彼に笑顔を返し、マフラーを巻き直す。
やはり、外に出た方がいい気分転換になって良かったと。
自分のことを気遣ってくれる悠と一緒で、那奈は先ほどよりも気持ちが落ち着いていた。
たまにすれ違う幸せそうなカップルを見ると、気持ちは痛むけれど。
家でひとりで泣いているよりは、ずっといい。
そう思うと同時に、那奈は隣を歩く悠に申し訳ない気持ちも感じていた。
悠は何もないかのように、普段通りに自分と接してくれている。
何も言わず、自分のことをよく考えてくれていて。
いつもいつも、自分は悠に助けられてばかりで。
そんな彼に、自分は何かしてあげられているのだろうか。
「悠くん……ありがとうね」
那奈はふと立ち止まり、そう彼に言った。
悠はそんな那奈の言葉に、首を左右に振る。
「どうしたの、那奈ちゃん。僕、何もお礼言われるようなことしてないよ?」
「ううん。私ね、あのままひとりで家にいたら、ただ泣くことしかできなかった。でも悠くんが誘ってくれたから、気持ちも少し軽くなったの。本当にいつもありがとう、悠くん……」
那奈はそこまで言うと、照れたように下を向いてしまう。
そして、慌てて口を開いた。
「あっ、ごめんね……何か、涙腺緩くて……」
「那奈ちゃん……」
漆黒の瞳から落ち始めた那奈の涙をじっと見つめ、悠は彼女に近づく。
指で頬を伝う彼女の涙を拭ってから、悠は那奈の頭をそっと撫でた。
那奈は大きな彼の手の感触に、今まで我慢していた感情が溢れ出すのを感じる。
その感情は涙となり、那奈の瞳からぽろぽろと流れ落ちる。
悠は黙ってそんな那奈を見つめたまま、自分の胸にその小さな身体を引き寄せた。
那奈は悠に優しく抱きしめられて、初めて気がつく。
悠の胸の中は、見た目よりもずっと広いことに。
小さい頃は、そんなに身長も変わらなかったはずなのに。
今の彼の胸は自分を覆うように広く、そしてなんてあたたかいのだろうと。
那奈は敢えて何も言わない悠の胸にその身体を預けると、それから気が済むまで泣いたのだった。
「……悠くん、ごめんね」
しばらく泣いた後、那奈はようやくそれだけぽつりと言葉を発する。
悠は綺麗な顔に微笑みを宿し、小さく笑った。
「謝られることなんて何もないよ、那奈ちゃん」
耳元で響くその柔らかな声に、那奈は思わずドキッとしてしまう。
それから、まだ自分が悠の胸の中にいることに気がつく。
「あっ、ごめんっ。私……」
そう慌てて、那奈は申し訳なさそうに彼から離れようとした。
だが……その時だった。
悠はそんな彼女の身体を再び自分の元へと引き寄せ、先程よりも強く抱きしめる。
那奈は彼の行動に驚きつつも、抱きしめられているその感触にカアッと身体が熱くなっていくのが分かった。
力強くて、そして優しい。
彼のぬくもりを全身で感じ、那奈は思わず動きを止めてしまう。
心臓がドキドキと鼓動を刻み、言葉を発することができない。
那奈はどうしていいか分からない反面、そんな彼の体温に心地良さも感じていた。
「那奈ちゃん」
悠は那奈を抱きしめたまま、彼女の名を呼ぶ。
そして、ゆっくりと話を始めた。
「大河内先生のこと忘れられなくて、那奈ちゃんは本当に今ツライと思うよ。心にできた傷は、そう簡単には塞がらないと思う。でもその傷を、少しずつでもこの僕と一緒にふたりで治していこう」
「……え?」
那奈は驚いたように顔を上げ、綺麗な悠の顔を見つめる。
それと同時に、那奈の漆黒の瞳にあるものが飛び込んできた。
それは――はらはらと天から舞い降りてくる、真っ白な雪。
いつの間にか、空から雪が降ってきたのだった。
悠はそんな雪に目を細めてから那奈に真っ直ぐ視線を向けると、にっこりと優しく微笑む。
そして白の結晶が舞い落ちる中、こうはっきりと彼女に告げたのだった。
「那奈ちゃんのことが好きだよ。那奈ちゃんのこと、これからは僕がずっとそばで守ってあげるから」