SCENE6 エメラルド・グラス

 ――12月23日。
 次の日が終業式であるのため、この日二学期最後の授業が各教室で行われていた。
 授業中の校舎内は、たくさんの生徒がいるとは思えないほどにシンと静まり返っている。
 だが、そんな授業真っ只中であるはずの時間。
 那奈は、自分の教室にはいなかった。
 彼女は保健室の椅子にじっと座ったまま、もう何度目か分からない溜め息をつく。
 いつもいる保健医は今は席を外しており、保健室内には彼女以外誰もいない。
 ひとり異様に静かな室内で、那奈は漆黒の瞳をそっと伏せた。
 恋人である大河内先生に突然別れを告げられて、数日。
 あの日以来、那奈はまともに先生と話もできないでいた。
 ずっと先生と一緒にいたいし、このままじゃいけない。
 そう頭の中では分かってはいるものの、彼と向き合って話をする勇気が那奈にはなかったのだった。
 別れを口にした大河内先生の表情は、自分の決意に対しての揺ぎ無い色が見て窺えた。
 とはいえ、先生が教師を辞めることを自分にまだ言えなかったことを考えると、あの別れを言った日も彼自身悩んでいる最中であったのだろう。
 だがそれでも、彼の決意はそれ以前からほぼ固まっていたのだ。
 お互いのためにも、ふたりは別れるべきだと。
 大河内先生が教師をいずれ辞めなければいけないことも分かっており、もしその時が来たとしても、残念ではあるが仕方のないことだと。
 そう思ってはいたのだが。
 まさか年明けすぐに、彼が海外に行ってしまうなんて。
 しかも……別れを告げられるなんて、思ってもみなかった。
 那奈は大きく首を振り、零れそうになる涙をぐっと堪える。
 先生の海外での仕事は、いつ終わるか分からないという。
 自分を日本でその間ずっと待たせられないという先生の考えは分かるし、自分のことをいつも大切に思ってくれている彼らしい決断だということも分かっているのだが。
 でも、このまま先生と別れるだなんて。
 そんなことはもちろん嫌だし、どんなに時間がかかっても彼のことを日本で待っている自信もある。
 だが突然告げられた別れのショックで、那奈は今自分がどうしたらいいのか分からなくなっていたのだった。
 ここ数日、那奈は日本史の授業に出ていない。
 実はまさに今も、彼女のクラスの時間割は日本史だった。
 もちろん担当するのは、大河内先生である。
 あの日以来、どうしても彼の授業を受けられない。
 きっと気持ちの乱れたこんな状態で先生の姿を見たら、泣いてしまいそうだから。
「…………」
 那奈はちらりと保健室内の時計を見た後、大きく嘆息する。
 ――その時だった。
 ふいに保健室のドアが開き、那奈は顔を上げる。
 そして意外な人物の姿に、慌てて滲んでいた涙を擦った。
「あっ、鳴海先生……どうされたんですか?」
 保健室に現れたのは、那奈のクラスの授業も担当している数学の鳴海先生だった。
 厳しい雰囲気を醸し出す鳴海先生がちょっと苦手な那奈だったが。
 彼の同僚でもあり後輩でもある大河内先生の話によると、それ程怖い人ではないらしい。
 とはいえ、その切れ長の瞳を向けられると、自然と背筋が伸びてしまう。
 鳴海先生は保健室に那奈の姿しかないことを確認して、口を開いた。
「今宮。どこか具合でも悪いのか?」
「えっ? あ、はい……」
 鳴海先生の視線に恐縮しながらも、那奈は咄嗟に頷いてしまう。
 本当は日本史の授業を受ける心の余裕がなくて、そのために仮病を使っているのだが。
 この厳しそうな鳴海先生に、到底そんなことは言えない。
 だが明らかに動揺している那奈の様子を見て事情を察し、鳴海先生はふっと一息つく。
 それから、こう言葉を続けたのだった。
「体調が悪いのなら仕方がないが、今日は二学期最後の授業だ。後で悔いの残るようなことにならないよう、よく考えるように」
「えっ? あ……」
 那奈はそんな鳴海先生の言葉に、漆黒の瞳を驚いたように瞬きさせる。
 だが当の鳴海先生はそれだけ言うと、おもむろに保健室を出て行ったのだった。
 那奈は再び一人になった室内で、ふと俯く。
 鳴海先生は、実は自分と大河内先生が恋人同士であったことを知っている。
 それに大河内先生が退職することも、同僚であるため当然分かっているのだろう。
 そして今日は、二学期最後の授業。
 つまり――今日で大河内先生の授業を受けられる機会は、最後なのである。
 だがそれは、那奈にはよく分かっていることだった。
 大好きな先生の最後の授業を受けておきたい。
 そう思ってはいたのだが、あと少しの勇気が那奈には足りなかったのだ。
 そのために、結局今こうして保健室に逃げてしまっているのである。
「悔いの残るようなことにならないよう……」
 那奈はぽつりとそう呟き、もう一度時計に目をやる。
 それから少しだけ悩んだ後、ふと椅子から立ち上がった。
 そして足早に、保健室を出て行ったのだった。


 ――同じ頃。
 2年Cクラスで出席を取り終わった大河内先生は、ふっと小さく息をつく。
 自分が別れ話を切り出してから、数日が経つが。
 あれから一度も、那奈は自分の授業に姿をみせてはいない。
 彼女の気持ちを考えると、それは仕方のないことなのかもしれないが。
 だが、今日は居てくれるかもしれない。
 何せ今日が……自分の、最後の授業なのだから。
 そう思った先生だったが。
 やはりこの日も、那奈の姿は教室にはなかったのだった。
 自分の最後の授業を彼女にだけは聞いて欲しかった大河内先生だが、こればかりはどうしようもない。
 彼女自身が、自分の授業を受けたくないと拒否しているのだから。
 大河内先生はいつも通り教科書を開き、授業を始めようと顔を上げる。
 自分が今学期限りで学校を辞めることは、前の授業の時に生徒たちには伝えた。
 もう教壇から見るこの光景を二度と目にすることはないのだなと少し感傷的になりながらも、先生は教科書を手にする。
 ――その時だった。
 ガラリと静かな教室に、ドアの開く音が響いた。
 大河内先生は、ふとその漆黒の瞳を教室の入り口へと向ける。
 そして、驚いたように思わず呟く。
「今宮さん……」
 教室に入ってきたのは、那奈だった。
 那奈は軽くぺこりと一礼した後、自分の席へと戻る。
 そんな彼女の表情はまだ思い悩んでいるように見えて、心が痛んだ。
 だが、大河内先生は純粋に嬉しかった。
 自分の最後の授業を、一番聞いて欲しい人に聞いてもらえるのだから。
 そして、思ったのだ。
 これで心置きなく、海外に行けると。
 大河内先生はちらりと那奈を見て、それから学校バージョンの柔らかな声でゆっくりと口を開く。
「では、授業を始めます」
 大河内先生はそうはっきりと言った後、教師生活最後の授業を始めたのだった。


 ――その日の放課後。
 必要書類以外何も置かれていない職員室のデスクで、大河内先生は感慨深そうに窓の外に目を向ける。
 この学校に勤めて、どのくらいが経つだろうか。
 期間限定ではあるとはいえ、自分の夢を叶えて初めてこの学校の門をくぐった始業式。
 職員室に用意されていた自分のデスク。
 授業どころか緊張して何を話したかも覚えていない、初めて教壇に立ったあの日。
 そして……かけがえのない人との出逢い。
「…………」
 自分の下した決断は今のふたりには辛いものであり、那奈を深く悲しませるものだと分かっていた。
 思い悩む那奈を見て、強く抱きしめたくて。
 離れたくないと、どれ程言いたかったことか。
 今でも那奈のことは愛しているし、できるならいつまでも一緒にいたいけれど。
 だが、今まで自分の好きなことをやらせてくれた親との約束を破るわけにはいかない。
 それに今後の那奈のためにも、彼女を好きだからこそ、別れると決めた。
 まだ若くて将来の選択がたくさんある那奈に、いつになるか分からない自分の帰りを待たせることなんてできないから。
 だから、今は辛くても……この決断に、後悔はしていない。
 大河内先生はふっとひとつ嘆息して、椅子から立ち上がった。
 ――その時。
「大河内先生、お話があるんですけど」
 はっきりとした口調でそう声を掛けられ、先生は振り返る。
 そして少し表情を変え、相手に目を向けた。
「安西くん……」
 その場に立っていたのは、悠だった。
 大河内先生は周囲を見回した後、悠に言った。
「ええ。ここで立ち話はなんなので、移動しましょうか。社会科準備室に行きましょう」
「分かりました」
 悠は素直に先生の提案に頷く。
 その様子を見て、先生ははっきりと分かったのだった。
 きっと悠の話とは、那奈と別れたことについてだろう。
 大河内先生は眼鏡の奥の瞳をおもむろに細めた後、準備室の鍵を持って職員室を出る。
 悠は綺麗な顔に険しい表情を浮かべつつも、それに続いた。
 そして――社会科準備室で。
「安西くん、話って何ですか?」
 話の内容が大体分かってはいたが、先生は敢えてそう話を切り出す。
 悠は真っ直ぐに視線を返して口を開いた。
「もう僕が何を言うかお分かりだとは思いますが。先生は、那奈ちゃんと別れたんですよね?」
「…………」
 眼鏡をかけた学校バージョンにしては珍しく、先生はふと眉を顰める。
 それから一息おき、彼の言葉に答えた。
「ええ。今年いっぱいで僕は学校を退職し、年明けには海外に行かなければいけません。今宮さんをその間、日本でずっと待たせるなんてできませんから。だから別れることが一番いいと、そう判断しました」
 悠はそんな先生を見据えたまま、はっきりとした口調で続ける。
「僕は先生もご存知の通り、那奈ちゃんのことが好きです。正直、先生と那奈ちゃんが別れることは僕にとっては願ってもいないこと。でも……」
 そこまで言って、悠はキッと先生に視線を投げた。
 そして、こう言ったのだった。
「でも一番いいって、先生の都合でしょう? 那奈ちゃんは別れたくないって、そう思っているのが見ていてよく分かります。那奈ちゃんは何も言いませんが、先生が一方的に決めて一方的に別れを告げたんでしょう? 貴方と那奈ちゃんが別れることは構いませんが、彼女をあんなに悲しませるなんて……それが僕には、許せないんです」
「じゃあ、どうしたらいいと? 彼女についてきて欲しいと言えるのならば、そう言っていますよっ。でも、仕方がないでしょう!? こうすることが、彼女のためなんですよっ」
 穏やかな学校バージョンの時の先生とは思えないほど思わず声を荒げ、先生は堪らずそう言い返す。
 だが悠はそんな大河内先生から目を逸らさずに、すかさず言ったのだった。
「じゃあ、僕が彼女に告白しても構いませんね? 貴方ができなかったことを、僕が彼女にしてあげますから。今日はそれを、先生に言っておきたいと思って」
「…………」
 悠のその言葉に、先生は一瞬言葉を失ってしまう。
 だがすぐにふっと眼鏡の奥の漆黒の瞳を伏せた後、一息ついてからゆっくりと言葉を発した。
「どうして僕にわざわざ言うんですか? 彼女とは、もう別れると決めたんですから」
「どうしてかって? 僕は先生のことをライバルだと思っていましたから。それに、貴方の決意が本物かどうか確かめておきたくて」
 悠はそれからブラウンの瞳を真っ直ぐに向け、最後に大河内先生にこう告げた。
「安心してください、那奈ちゃんのことは僕が絶対に幸せにしますから。では、失礼します」
 それだけ言うと、悠はぺこりと一礼をして社会科準備室を後にする。
 大河内先生はそんな彼を止めず、ひとり準備室で口を噤んだ。
 悠が那奈のことを大切に想っていることは先生も知っている。
 自分が隣にいてあげられない以上、那奈のことを大事にしてくれる人が彼女の近くにいることはむしろ安心すべきことなのかもしれない。
 だがもちろん、心の内は複雑な気持ちでいっぱいだった。
 ずっと那奈の近くにいて抱きしめてやりたいし、誰でもない自分が彼女を守ってやりたい。
 決断した今でも、その強い想いは変わってはいなかった。
 しかし、それが出来なくなる現実。
「…………」
 大河内先生は、悔しさに強く唇を噛み締める。
 そしてとめどなく溢れ出す感情を堪えるかのように、ギュッと漆黒の瞳を閉じたのだった。


 ――その日の夕方。
 那奈のことを密かに心配している悠と桃花は、彼女の家に来ていた。
 那奈は大河内先生とのことに関して、あまり多くを語らない。
 彼女自身どうしていいのかまだ悩んでいるためでもあるのだが、周囲に心配をかけさせまいという彼女の気遣いでもあった。
 そんな彼女の心情を察しているからこそ、悠や桃花は余計に心配だったのである。
 もちろん、悠や桃花から大河内先生の話題を振ることはしなかった。
 いや、那奈の様子を見ると到底振れないのである。
「あ、紅茶なくなっちゃったね。今、お替り淹れてくるね」
 那奈はそう言って、ティーカップを持ってリビングを出て行く。
 桃花は那奈がキッチンに入っていったのを確認した後、悠に小声で言った。
「那奈お姉ちゃん、大丈夫かな……かなり無理してる感じだよね」
「そうだね、僕もすごく心配だよ。でも、もう那奈ちゃんには辛い思いはさせないから」
「えっ?」
 返ってきた悠の言葉に、桃花は小さく首を傾げる。
 そんな桃花に、悠は続けて言った。
「今日、大河内先生と話をしたんだ。こうすることが那奈ちゃんにとって一番いいことだと判断したから彼女とは別れるって、先生はそう言ってた。だから今度は、僕が那奈ちゃんを幸せにしてあげようと思ってるよ」
「悠兄ちゃん……」
 決意に満ちた悠の顔を見つめ、桃花は複雑な表情を浮かべる。
 そんな心情には気がつかず、悠は桃花に訊いた。
「ねぇ、桃花ちゃん。知ってる? 那奈ちゃんの好きな『オズの魔法使い』の童話に出てくる、エメラルドの都のこと」
「エメラルドの都? うん、知ってるよ。オズの魔法使いが住んでる都だよね」
 桃花の答えに小さく頷いてから、悠は話を続ける。
「そのエメラルドの都に入る人はね、みんな緑色の眼鏡をかけさせられたんだ。都がエメラルドでできているように見せかけるためだよ。オズの魔法使いは、本当は魔法使いじゃなくてペテン師だからね。それと同じだよ。大河内先生も那奈ちゃんも、自分の気持ちを欺くために、エメラルド色の眼鏡をかけてるんだ」
「自分の気持ちを欺く、エメラルド色の眼鏡……」
 桃花はそう呟き、何かを考えるように俯いた。
 それからおもむろに顔を上げると、悠に問う。
「悠兄ちゃんは、那奈お姉ちゃんとあの教師が別れて嬉しくないの? 普通は嬉しいって思うはずなんじゃないの?」
「正直、ふたりが別れたことは僕にとって願ってもないことだよ。でも……那奈ちゃんがあんなに辛そうな顔をしているのを見ていられないんだ。だから僕が、早く彼女のことを幸せにしてあげなきゃって思ってる。それが、僕のありのままの気持ちだから」
 桃花は悠の瞳に宿る強い想いを感じ取り、何も言えずにいた。
 それに、見せかけのエメラルドグラスをかけているのは、大河内先生や那奈だけではない。
 自分の気持ちに一番素直じゃないのは……。
 その時、悠はふと口を噤む。
 それと同時に、紅茶を持った那奈がリビングに入って来た。
 那奈はふたりにあたたかい紅茶を出した後、再びソファーに座る。
「ありがとう、那奈ちゃん」
 悠はにっこりと優しく那奈に微笑み、彼女の淹れた紅茶を口に運んだ。
 桃花はそんな悠の様子をじっと見つめながらも、那奈の淹れた紅茶に砂糖を入れる。
 そして小さく嘆息し、那奈と同じ漆黒の前髪をそっとかき上げたのだった。