SCENE5 飛び立った気球

 ――その日の放課後。
 12月も中旬であるため、日が落ちるのも早くなりすでに空は薄暗い。
 悠はそんな中、ひとり夕方の賑やかな繁華街にいた。
 それからちらりと携帯メールを確認した後、顔を上げる。
「悠兄ちゃんっ」
 それと同時に元気な声が聞こえ、悠はその顔に優しく笑みを宿す。
「桃花ちゃん」
「ごめんね、待たせちゃったよね。桃花がお茶しようって誘ったのに……ごめんっ」
 はぁはぁと息を弾ませてやってきたその少女・桃花の言葉に、悠は小さく首を振った。
「ううん、大丈夫だよ。桃花ちゃんこそ、学校からここまで遠かっただろう?」
 桃花は、繁華街から少し離れた私立の女子校の制服を着ている。
 那奈や悠の家の近所に引っ越してきた桃花だが、2学期までは今まで通りの学校に通っているのである。
 そして3学期から、那奈や悠と同じ聖煌学園に編入するのだが。
 早く大好きな悠と同じ学校に通いたいと、桃花は密かに心待ちにしているのである。
 だが待ちきれず、たまにこうやって学校帰りに悠を呼び出すこともあったのだった。
 桃花は嬉しそうに悠の隣に並び、ふたりは揃って賑やかな街を歩きだす。
 街はクリスマス直前ということもあり、普段よりも一層華やかだった。
 桃花は煌びやかなイルミネーションを見て楽しそうに微笑んだ後、悠に目を向ける。
 そして、ふと小首を傾げて彼に訊いたのだった。
「悠兄ちゃん、どうしたの?」
「……え?」
「悠兄ちゃん、何か考え込んでる感じだもん。何かあったの?」
 悠は少し桃花の言葉に驚いたような表情をしたが、すぐに綺麗な顔に優しい微笑みを取り戻す。
 それからひとつ息をついた後、こう口を開いたのだった。
「大河内先生が、2学期いっぱいで学校を退職するらしいんだ」
「大河内先生って、あの那奈お姉ちゃんの恋人の?」
 こくんと桃花の言葉に小さく頷いてから、悠は続ける。
「でもそのこと、那奈ちゃんは知らなかったみたいなんだよ」
「あの教師が、お姉ちゃんに学校辞めること言ってなかったってこと? 何で?」
「さあ、それは分からないよ。先生が学校を辞めることも、実際に先生本人から聞いたことじゃないし。ただ……」
 悠はそこまで言って、ふと言葉を切る。
 それから、複雑な表情を浮かべた。
 大河内先生が期間限定の教師だということは悠も知っているし、彼が学校を辞めることを特に問題にはしていない。
 むしろそれが真実であるならば、那奈と先生が一緒にいる時間が少なくなるため、彼女とクラスメイトである悠にとって有利になると言っても過言ではない。
 ただ……那奈の今の心境を考えると、複雑だったのだった。
 どういう考えが先生にあって、今まで学校を辞めることを恋人の那奈に黙っていたのか。
 それは分からないが。
 だが、今日学校で先生が辞めると聞いた時の那奈の顔は、驚きとともに大きなショックの色がはっきりと見て取れた。
 そして那奈は、大河内先生に真偽を確かめるために今彼の家へと向かっているのだ。
 今の悠にとって重要なことは、大河内先生と那奈の関係ではない。
 想いを寄せる那奈が悲しんだり泣いたりすることが、彼には一番耐えられないことなのだった。
 自分なら、彼女を泣かせるようなことは絶対しないのに。
 悠はそう強く思いながらもどうすることもできず、ただ小さく唇を噛むしかできなかった。
「…………」
 そんな悠の様子を、桃花は黙って見つめる。
 那奈に対する悠の気持ちを知っている桃花には、彼にかける適切な言葉が見つからなかったのだ。
 憧れであり大好きな悠の気持ちが、那奈に届いて欲しい。
 そう思いつつも、桃花の頭には大河内先生に言われた言葉が離れずにいた。
『おまえ、フラれるのがコワいんだろ』
 違う、そんなんじゃない。
 桃花は冬の冷たい風に揺れる漆黒の髪をかき上げた後、頭の中を巡るその言葉を掻き消すかのように左右に首を振る。
 それから気を取り直し、悠に言ったのだった。
「悠兄ちゃん、どこでお茶しよっか。桃花、少しおなかすいちゃった。パフェ食べたいな」
「じゃあ、そこの角の店に入ろうか。たくさん種類もあるしね」
 悠はそう普段と変わらない穏やかな声で答えると、彼女を伴って喫茶店へと足を向ける。
「あ、そうだ。悠兄ちゃんさ、昨日のドラマ観てる?」
 桃花はそんな悠の言葉に嬉しそうに頷いた後、彼を気遣うように話題を変えて明るく振舞った。
 そして複雑な心境でありながらも、彼と一緒にいられる幸せを改めて感じたのだった。


 ――その頃。
 那奈は大河内先生のマンションで、彼が帰ってくるのを待っていた。
 その表情は不安気で、落ち着かないものである。
「あ……カレールウ、入れなきゃ」
 耳に聞こえてきたキッチンタイマーの音に、那奈は慌ててキッチンへと向かう。
 そして夕食の用意をしながら、大きく溜め息をついた。
 大河内先生が学校を辞めるなんて、そんなことやっぱり信じられない。
 いや、いつかは先生が教師を辞めなければならない日がくることは、知っているのだが。
 そんな日が来たとしても、恋人である自分には一番に知らせてくれるものだと。
 そう思っていたのに。
 那奈は先生が学校を辞めることを、大河内先生自身ではなく人伝いに聞いた。
 それが一番、今の那奈にとってショックだったのである。
『僕の家で待っていてくれませんか?』
 学校バージョンの先生が自分に言った、この言葉。
 那奈はいい匂いのしてきたカレーの鍋に視線を落としたまま、再び嘆息する。
 料理でも作って気を紛らわしていないと、不安で胸が押しつぶされそうで。
 だが早く事情を知りたい反面、那奈は彼の口から何が告げられるのか怖くもあった。
 先生は、本当に教師を辞めてしまうんだろうか。
 そしてそれが事実ならば、何故自分に話してくれなかったのか。
 そう思いながらも、那奈は鍋の火を小さくした後リビングへと戻った。
 ――その時だった。
 カチャリと耳に金属音が聞こえ、那奈はハッと顔を上げる。
 そして、玄関に視線を向けた。
「待たせてすみません、今宮さん」
「大河内先生……」
 眼鏡の奥の漆黒の瞳を細め、帰宅した先生は那奈に小さく微笑む。
 自分に向けられる彼の笑顔は、いつもと同じ優しいものであったが。
 だが何故か、那奈はそんな彼の顔を見てますます不安を募らせる。
 胸がドキドキと異様な鼓動を刻み、言葉が声にならない。
 先生は何も言えず自分を見つめる那奈のそばに近寄る。
 それから、ゆっくりと口を開いた。
「あの、今宮さん」
「あ、先生っ。今日の夕食、カレー作ったんですけどっ。おなかすいていません?」
 那奈は早口でそう言って、思わず彼の言葉を遮る。
 いざ事情を先生本人から聞くことが、怖くなったのだった。
 那奈は先生から慌てて視線を逸らすと、彼から逃げるようにキッチンへ向かおうとした。
 だが、その時。
「……那奈」
 ガッと急に腕を掴まれ、那奈は驚いたように振り返ってしまう。
 そんな彼女の瞳に映ったのは、自分を真っ直ぐに見つめる神秘的な漆黒の両の目。
 眼鏡を外した大河内先生は、ひとつ小さく深呼吸をする。
 それから那奈の腕を掴んだまま、言った。
「那奈、おまえに話がある」
 那奈は彼に無言で視線を返し、動きを止める。
 そんな那奈から手を外した後、大河内先生はこう続けたのだった。
「那奈。おまえの言う通り、俺は2学期までで教師を辞めるんだ。この間実家に呼ばれた時、今度の会社の新しいプロジェクトに俺も参加して欲しいから学校を辞めるようにって言われたんだよ。元々教師は俺の我が侭でやらせてもらっていたことだし、俺は学校を辞めて会社に戻ろうと思ってる」
「そんな……でも何でそんな大切なこと、早く言ってくれなかったの?」
 じわりと瞳に浮かぶ涙を必死に堪えながら、那奈は彼にそう訊いた。
 先生はその言葉に、一瞬口を噤む。
 それから少しの間の後、那奈の問いに答えた。
「俺自身、気持ちの整理をつけてからおまえに話をしたかった。これからの俺たちのことを真剣に考えて、一番いい答えを出したかったんだ」
「これからの私たちのこと? 先生が教師を辞めるのは悲しいけど、私たちの関係は今までと変わらないでしょう? そうじゃないの、先生」
 大河内先生の思いがけない言葉に、那奈はそう彼に言葉を投げかける。
 だが先生は、小さく首を振った。
「今回俺が参加するプロジェクトっていうのが、海外での仕事なんだよ。だから俺は、年明けてすぐに日本を離れることになる。それにその仕事が終わって日本に戻ってくるのは、1ヶ月先になるか1年先になるか数年後か、それも今の段階では分からない。だから……」
 そこまで言って、大河内先生は漆黒の瞳を伏せる。
 そして決意するようにゆっくりと目を開けた後、こう彼女に告げたのだった。
「だから……今日で別れよう、那奈」
 室内に響き渡る、先生のバリトンの声。
 那奈は一瞬、自分の耳を疑った。
 何かの聞き間違いではないだろうか。
 先生が教師を辞めるだけでなく、近々仕事で日本を離れてしまうなんて。
 しかも――別れ話を、切り出すなんて。
 那奈は何も言えず、先生の姿を見つめる。
 そしてその瞳からは、いつの間にかぽろぽろと大粒の涙が溢れていた。
 大河内先生はそんな彼女の涙をそっと指で拭った後、再び口を開く。
「おまえはまだ、高校生だ。これからいろんなことを経験していける機会もあるってのに、いつ帰ってくるかも分からない俺のことを待たせておまえを縛ることなんてできない」
「そんな……私、ずっと待つよ、大河内先生っ。だから、別れるなんて……っ」
「那奈。日本に帰ってくる目処も全く立っていないのに、おまえをひとりで待たせるわけにはいかないんだよ。分かってくれ」
 先生はそれだけ言うと、彼女から視線を逸らした。
 那奈はそんな先生の姿を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
 それからいたたまれず、コートとバッグを手にすると、彼の家からバタバタと出て行ったのだった。
 そして大河内先生は、そんな彼女の後姿を黙って見送ることしかできなかった。
 那奈は涙を拭うこともせず、先生のマンションを後にする。
 そしてこの時、真っ白になった頭の中で、童話『オズの魔法使い』のワンシーンを思い出していたのだった。
 家に帰りたいというドロシーの願いを叶えるべく、気球を用意したオズの魔法使い。
 だが突風に煽られ、気球はドロシーを乗せる前に飛び立ってしまったのだった。
 自分の願いを叶えてくれるだろうと信じていた、魔法使い。
 なのに、こんなことになってしまうなんて。
「嘘でしょ、嘘よね……」
 那奈はそう呟いて足を止めると、思わずその場に座り込んでしまった。
 吹き付ける冬の風が、彼女の黒髪を大きく揺らす。
 そして漆黒の瞳から流れる大粒の彼女の涙が、冷たいアスファルトに落ちてはすぐに消えていったのだった。