SCENE4 悩める魔法使い

 この日の授業もすべて終了した、放課後。
 生徒や教師の声で賑やかな職員室で、大河内先生はデスクに座ったまま、もう何度目か分からない溜め息をついた。
 そしておもむろに眼鏡の奥の漆黒の瞳を伏せ、同じ色の前髪をそっとかき上げる。
 日曜日に実家に呼ばれて以来、大河内先生にはある悩みがあった。
 それは……。
「大河内先生」
 ふと名前を呼ばれ、大河内先生は我に返ったように顔を上げる。
 それから大きく瞳を見開くと、慌てたように自分を呼んだ声の主に言った。
「あ……鳴海先生」
 大河内先生に声を掛けてきたのは、同僚の鳴海先生だった。
 そして大河内先生の同僚でもあり高校時代からの先輩で、今でも何かとよくお世話になっている人である。
 鳴海先生は近寄り難い雰囲気を醸し出す切れ長の瞳を、ちらりと大河内先生に向けた。
「大河内先生、もうすぐ社会科教科会議の時間ではありませんか?」
「えっ!? あっ、そうでしたっ」
 鳴海先生の言葉に、大河内先生は時計を見てガタッと席を立つ。
 放課後に会議があることを、すっかり忘れていた。
 大河内先生はバタバタと会議に必要な書類を用意しながらも、鳴海先生にペコリと頭を下げる。
「ありがとうございます、鳴海先生。あやうく教科会議、忘れるところでしたっ」
「…………」
 鳴海先生は普段の冷静な表情を変えないままではあるが、大河内先生の様子に目を向けた。
 それから、こう大河内先生に言ったのだった。
「大河内先生。今の貴方はいろいろと大変な時期でしょうが、このような時だからこそ、今やるべきことを悔いなくやることが一番いいのではないかと。そう私は思います」
「鳴海先生……」
 大河内先生はその言葉に、ふと準備をしていた手を止める。
 そしてひとつ小さく嘆息した後、ゆっくりと口を開いた。
「実はあの件に関して、今の時点で公にすべきかすべきでないか正直悩んでいます。言うべきではあるとは思っているのですが、そのタイミングがなかなか難しくて」
 トントンと会議の書類を揃えてから、大河内先生は俯いたままもう一度溜め息をつく。
 鳴海先生はそんな大河内先生に、相変わらず淡々とした口調で言った。
「そうですね。だがとりあえず今は、会議に行くのが先決だと思いますが」
「あっ! もう会議始まる時間っ……鳴海先生、失礼しますっ」
 時計を見て表情を変えると、大河内先生は鳴海先生に一礼してから職員室を出て行く。
 そして早足で会議室に向かいながら、ふっと眼鏡の奥の瞳を細めて呟いた。
「今やるべきことを悔いなくやる、か」
 大河内先生は腕時計に視線を移し、歩く速度をさらに速めたのだった。


 ――その頃。
「那奈っ!」
 2年Cクラスで帰る支度をしていた那奈は、すごい勢いで教室に入ってきた知美の様子に小首を傾げた。
「どうしたの、知美?」
「どうしたもこうしたもないよっ、いいからちょっとっ」
 知美は教室内にまだ結構な数の生徒が残っていることを見て、那奈を廊下に連れ出す。
「あれ、那奈ちゃんと知美ちゃん」
 ちょうど教室に戻ろうと廊下を歩いていた悠は、ふたりの姿を見つけて声を掛けた。
 知美はそんな悠にも手招きをし、人の波が途切れたのを確認して那奈に目を向ける。
「あのね那奈、落ち着いてね。今職員室で、世界史の田村先生に聞いたんだけど……」
 それから言い難そうに、あることを那奈に言ったのだった。
「……えっ!?」
 知美の言葉に、那奈は漆黒の瞳を大きく見開いた。
 そして信じられないように何度も瞬きをする。
 悠はそんな那奈の反応を確認した後、知美に視線を向けて訊いた。
「それって本当なの、知美ちゃん。那奈ちゃんは、そんなこと聞いてないんだよね?」
「うん、聞いてない……」
 まだ唖然とした表情のまま、那奈はぽつりと呟く。
 それから顔を上げると、こう続けたのだった。
「私、今から確かめてくるよっ」
「確かめるって、ちょっと那奈っ」
 知美が止めるその前に、那奈はすごい勢いで廊下を駆け出して行く。
 そんな揺れる彼女の漆黒の長い髪を見つめてから、悠はもう一度知美に訊いた。
「知美ちゃん。さっき言ってたことだけど、本当に?」
 知美は心配そうに那奈の後姿を見送った後、ふっと嘆息する。
「こんなこと、冗談で言えないよ。それに職員室で先生に聞いたことだから、本当だと思う」
「でも、那奈ちゃんが知らないなんて」
 悠のその言葉に、知美は左右に首を振った。
「やっぱり内容が内容だから、そう簡単に言えることじゃないんじゃないかな。特に那奈は、めちゃめちゃショック受けるだろうし」
「…………」
 悠は綺麗な顔にふと複雑そうな表情を浮かべ、言葉を切る。
 それから何かを考えるように、スッとブラウンの瞳を伏せたのだった。


 知美たちと分かれて階段を駆け下りた那奈は、乱れた息を整えることもせずに職員室のドアを開けてある人物を探す。
 だが、その姿は職員室内にはなかった。
 那奈はふっと深呼吸をした後、周囲を見回した。
 そして咄嗟に、すぐ近くを偶然通りかかった数学の鳴海先生に声を掛ける。
「あの、鳴海先生っ。大河内先生、どちらに行かれているかご存知ないですか?」
 近寄り難い切れ長の瞳を那奈に向け、質問された鳴海先生は彼女の問いに答えた。
「大河内先生なら、会議のために会議室に行かれているが」
「会議室……分かりました、ありがとうございますっ」
 慌しく鳴海先生に頭を下げてからくるりと方向を変えると、那奈は再びバタバタと廊下を駆け出した。
 そんな彼女を黙って見送り、鳴海先生はふっとひとつ嘆息する。
 それから彼女とは逆に、職員室に入って行ったのだった。
「もう会議、始まっちゃったかな……」
 職員室を離れながらそう呟き、那奈は会議室に向けて歩みを進める。
 どうしても――一刻も早く、大河内先生に会って直接確認したいことがあった。
 知美に先程聞いたことが、真実なのかどうかを。
 きっとただの噂に決まっている。
 そんな大事なこと、恋人である自分に黙っているはずがないから。
 いや、それよりも何よりも。
 聞いた内容が、嘘であって欲しい。
 那奈は強くそう願いながら、廊下の角を曲がった。
 そして。
 そんな彼女の漆黒の瞳に飛び込んできたのは。
「大河内先生っ!」
 何故かいつも着ている前開きの白衣姿に、分厚い眼鏡。
 まさに会議室に入ろうとしていた大河内先生を見つけ、那奈は咄嗟に彼を呼び止める。
 大河内先生はその声に顔を上げ、驚いた表情を浮かべた。
「今宮さん? どうしたんですか?」
「すみません、今から会議なんですよね。でもどうしても、先生に訊いておきたいことがあって」
 足を止めた先生に駆け寄り、那奈は肩で息をしながらそう話を切り出す。
 大河内先生は首を捻りながらも、彼女の言葉を待っている。
 那奈はスウッと深呼吸をした後、大河内先生に漆黒の瞳を向けた。
 そして、こう彼に訊いたのだった。
「大河内先生、嘘ですよね? 先生が……今学期までで、学校を辞めるって」
 那奈の言葉に、大河内先生はその表情を変える。
「今宮さん、どうして……」
「そんなの嘘ですよね。ね、大河内先生?」
「…………」
 詰め寄る那奈の目を真っ直ぐに見ることができず、大河内先生は彼女から視線を逸らす。
 それから学校バージョンの時の柔らかな声で、ゆっくりと彼女にこう言ったのだった。
「今宮さん。今から会議ですから、僕の家で待っていてくれませんか? 今日の会議は、そう長引かないと思いますから」
「先生……」
 不安気な顔をしている那奈の黒髪をそっと優しく撫でた後、大河内先生は目の前のドアを開けて会議室へと入って行った。
 ひとり廊下に残された那奈は、しばらく呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。
 那奈が知美に聞いたこと。
 それは大河内先生が、この学校を今学期いっぱいで辞めるという話だった。
 先生が期間限定教師だということを知ってはいるが、こんなに突然だなんて。
 第一、恋人である自分に先生は何も言っていなかった。
 そしてもちろんそんなこと、嘘だと信じたい那奈だったが。
 だが……先程の大河内先生は、そのことを否定はしなかった。
 那奈は不安そうに漆黒の瞳を会議の始まった会議室に向けた後、もう一度ふっと息をつく。
 それからドキドキと異様な鼓動を刻む胸を、ぎゅっと強く握り締めたのだった。