SCENE2 鮮やかな虹の橋

「悠兄ちゃん、いいの?」
 那奈の家を出た桃花は、隣を歩く悠にちらりと目を向けた。
 先程まで降っていた雨が止んだことを確認して傘を閉じてから、悠は桃花に視線を返す。
 憧れの悠の優し気な瞳に見つめられ、桃花は思わずドキッとした。
 悠はそんな彼女の様子には気がつかず、訊かれた問いにこう答える。
「うん。那奈ちゃんとふたりならともかく、今一緒にいても大河内先生もいるからね」
「それでもふたりきりにさせたりして、悠兄ちゃんは平気なの?」
 桃花の言葉に、悠は苦笑しつつも頷いた。
「ふたりは今、付き合ってるんだし。平気じゃないけど、それは仕方ないよ」
 それから悠は、ふっと瞳を細める。
 そして、こう続けたのだった。
「でも那奈ちゃんのこと、いつか先生から奪ってみせるから」
「悠兄ちゃん……」
 桃花は複雑な表情を浮かべ、じっと悠を見つめる。
 幼い頃から、自分は悠のことを見てきたけれど。
 彼が那奈のことを本当に好きなのだということが、強く伝わってくる。
 それに、自分の気持ちに対する自信も。
 悠が那奈をずっと好きなのと同様、自分も悠のことが好きであるが。
 自分は、悠の想いを応援しようと。
 それに相手が自分の好きな那奈ならば、納得できる。
 桃花はそう、いつからか思うようになったのだった。
 ……でも。
『ていうか、一見一途で綺麗な事ばっか言ってるけどな。要はおまえ、フラれるのがコワいんだろ』
「…………」
 桃花はふと俯き、思わず言葉を切ってしまう。
 大河内先生に言われたこの言葉が、妙に頭から離れない。
 違う、そんなんじゃない。
 図星なんかじゃない。
 自分は悠のことが本当に大好きだから。
 だから、彼のことを応援しようと思ったんだ。
 桃花は無意識のうちに、ぎゅっと唇を噛み締めていた。
「桃花ちゃん?」
 急に黙ってしまった彼女に、悠は小さく首を傾げつつ声を掛ける。
 桃花はその声にハッと顔を上げてから、ふっとひとつ嘆息した。
 そして、ボソッと言ったのだった。
「あの教師……桃花、嫌い」
「あの教師って、大河内先生?」
「悠兄ちゃんも嫌いだよね? なんで那奈お姉ちゃん、あんなロリコンと」
 同意を求めるように、桃花は悠に視線を向ける。
 悠はその言葉に少し考える仕草をして、答える。
「先生のこと? うーん、嫌いとか好きとかよりも、ライバルっていう意識が強いかな」
「ライバル……?」
 桃花は納得いかないように、小さく首を捻った。
 それから、悠に再び訊いたのだった。
「悠兄ちゃんが本当にすごく那奈お姉ちゃんのことが好きって、見ていてもよく分かるよ。でも、どうしてそんなに自分の気持ちに素直になれるの?」
 悠はそんな桃花の問いを聞いて、上品な顔ににっこりと微笑みを浮かべる。
 そして彼は、すぐにこう答える。
「それは、誰よりも那奈ちゃんのことが好きだって自信があるからかな」
「…………」
 桃花は悠の整った顔に見惚れながらも、何も言えなかった。
 自分だって、悠のことを誰よりも好きだという自信がある。
 でも彼のように、素直にそれを言動に出すことができない。
 悠の想いを応援して見守ることが自分の気持ちの強さだと思っているし、そんな考えを変える気もないのだが。
 でも桃花は、大河内先生に言われた言葉が妙に心に引っかかっていた。
 それはどうしてなんだろう……。
 それから桃花はハッと顔を上げ、大きくブンブンと首を振る。
 自分は間違っていないし、先生の言ったことが図星だとも思っていない。
 那奈と同じ漆黒の髪をかき上げ、そして桃花は気を取り直したように悠に笑顔を向ける。
「ねぇ、悠兄ちゃん。それよりさ、どこでお茶する? 久しぶりに会ったから、いっぱい話したいことあるの」
「どこに入ろうか。そういえば桃花ちゃん、駅前のタルトの店のフルーツタルトがすごく好きだったよね」
「うんっ。あそこのタルト、桃花大好きっ」
 桃花は嬉しそうに大きく首を縦に振り、ツインテールを揺らした。
 悠が自分の好きなものを覚えていてくれている。
 それだけで、幸せな気分になるのだ。
 例えこの想いが届かなくても、それでも構わない。
 桃花は改めてそう思い、隣の悠の整った顔を笑顔で見つめたのだった。


 ――その、同じ頃。
 大河内先生の青のフェラーリは恋人を乗せ、賑やかな休日の街を走っていた。
 那奈は一足先にクリスマス仕様になっている風景を楽しそうに見つめている。
 それからふと、運転席の先生に目を向けた。
「従姉妹の桃花ちゃん、すごく可愛い子だったでしょ? 何だかね、本当の妹みたいなんだ」
 大河内先生は那奈の前で猫をかぶっている桃花の態度を思い出し、思わず苦笑する。
「可愛い、なぁ……」
 先生はいろいろ言いたいことを飲み込み、ただそれだけポツリと呟いた。
 まさか那奈の前で、桃花が生意気なマセガキだったなんて言えない。
 那奈も夢見る乙女なところが強くあるが、桃花はさらに言動が子供っぽかった。
 ロリコン教師呼ばわりされたのはかなり気に食わなかったが、彼女の恋心と若さを考えると特に今はもう腹立たしくはない。
「ていうか、さっきまで降ってた雨も止んでよかったな」
 先生は赤信号でブレーキを踏んだ後、さり気なく話題を変える。
 まだ空は曇ってはいたが、雨はすっかり上がっていた。
 那奈はコクンと頷いてから再び窓の外を見つめる。
 そして、ふと先生に訊いたのだった。
「大河内先生。それで今から、どこに行くの?」
 先生はその言葉を聞いて、ニッと笑みを浮かべる。
「とっておきの穴場に連れてってやるから、楽しみにしとけ」
「とっておきの穴場って?」
 返ってきた声に漆黒の瞳をぱちくりさせ、那奈はもう一度訊き返した。
 先生は悪戯っぽく笑い、敢えて彼女の問いに答えずに車を発進させる。
 今から自分たちが向かう場所に全く検討がつかない那奈は首を捻りつつも、何だか妙に楽しそうな様子の先生を見て小さく微笑んだ。
 一体先生は、今から自分をどこに連れて行ってくれるんだろうか。
 那奈はそれ以上訊かず、流れる景色に目を移す。
 ……だが。
 またすぐに那奈は、首を傾げることになるのだった。
 その理由は。
「え? ここって、先生のうちじゃない」
 青のフェラーリが止まった場所は、いつもと同じ先生のマンションの駐車場だった。
 とっておきの穴場どころか、普段から通い慣れているところである。
「いいから、黙って俺に着いて来い」
 先生は普段通りに車を止め、外に出た。
 那奈はまだ先生の考えが分からないながらも車を降り、彼に続く。
 いつも通りエントランスのオートロックを解除し、いつも通りエレベーターに乗り込む。
 何も変わったことなんてない。
 そう那奈が思った……その時だった。
「えっ?」
 大河内先生が取った次の行動に、那奈は驚いた表情をする。
 先生の細くて長い指が、おもむろにエレベーターのボタンを押した。
 だがそれは、いつも押す階のものではなかったのだった。
 そして、エレベーターが着いたところは。
「言っただろ、穴場ってな。灯台下暗しって、よく言ったもんだよ」
 ぽんっと那奈の頭に手を添えて、先生はニッと笑う。
 着いたその場所は、高級マンションの屋上だった。
 エレベーターを降りて外へと続く階段を上ったふたりは、つき当たりのドアを開ける。
 それと同時に、冷たい冬の風がビュウッと吹き付けた。
 屋上の強い風で乱れた漆黒の髪を手櫛で整えた那奈は、ふと顔を上げる。
 そして次の瞬間、その瞳を大きく見開いたのだった。
「わあっ、すごーい! 遠くまで街が見渡せるね!」
 眼下に広がるのは――ビルの林立する、都会の風景。
 先生はふっと微笑み、瞳をキラキラさせながら目の前に広がる景色を夢中で見つめる那奈に視線を向ける。
「すごいだろ? このマンションの屋上が開放されてるなんて、知らなかったよ」
 得意気にそう言う先生に、那奈ははしゃいだように頷いだ。
「うん、すごいね! 晴れてる日とか、もっと遠くまで見えるのかな?」
「その時によって、見え方も違うみたいだぞ。今日は雨降ったからちょっと曇ってて霞んでるけどよ」
 そう言った後、大河内先生は漆黒の瞳を優しく細める。
 そして那奈の長い髪をそっと撫でながら、こう続けたのだった。
「今年のクリスマスイヴ、またこの景色を一緒に見ような」
 那奈はそんな先生の言葉を聞いて、幸せそうな笑みを宿す。
 それから先生の広い胸に身体を預け、言葉を返した。
「うん、絶対一緒にクリスマスイブにまた来ようね。約束」
 大河内先生はコクンと首を縦に振り、ギュッと彼女の小さな身体を抱きしめる。
 ……屋上を吹き抜ける冬の風は、冷たいけれど。
 ふわりと自分を包み込む先生のあたたかいぬくもりに、那奈は心地よさを感じた。
 それからふたりは見つめ合い、そっと瞳を伏せる。
 恋人同士の顔がゆっくり少しずつ近づき、ふたつの唇がいまにも触れんとした……まさに、その時だった。
「あっ! 先生、見てっ」
 急に那奈が声を上げ、伏せ目がちだった瞳を今度は逆に大きく見開く。
 そんな彼女の声に、いきなり何事かと一瞬表情を変えた大河内先生だったが、黙って那奈の視線を追った。
 そして。
「うわ、すげーな……っ」
 次の瞬間、先生は漆黒の瞳に映ったものを見て思わずそう声を上げる。
 ふたりが見ている、その景色とは。
「空に虹が架かってるよ! すごく綺麗……」
 うっとりしたように、那奈はいつの間にか空に描かれた大きな虹を見つめた。
 都会の高層ビルのさらに遥か上に架かる、鮮やかな虹の橋。
 ふたりはしばらく、その幻想的な風景を黙って見つめていた。
 ……そして。
 愛し合う恋人たちは虹の架かるその真下で、そっと甘い口づけを交わしたのだった。