SCENE1 桃色片想い

 12月も半ばに入り、冷たい冬の風が彼の漆黒の髪をそっと揺らした。
 愛車の青のフェラーリから降りた彼・大河内藍は、寒さに思わず小さく首をすくめる。
 はあっと白い息を吐いて、それから先生は大きな豪邸のチャイムを鳴らした。
 無意識に黒のコートの襟元を正しているその顔は、妙に緊張の色を浮かべている。
 そして数秒後、豪邸のドアから顔をみせたのは。
「あ、大河内先生。わざわざ家まで来てもらってごめんね。どうぞ、あがって」
「ああ。じゃあ……お邪魔します」
 にっこりと自分に微笑みかける恋人・今宮那奈の言葉に頷きながらも、先生は遠慮気味に彼女の家に足を踏み入れた。
 ふわりと室内の暖かさを感じ、大河内先生は羽織っていた黒のコートを脱ぐ。
 那奈はそれを受け取ってから、先生の顔を覗き込んでくすくすと笑い出した。
「先生、もしかして緊張してるの? パパとママ、今日も仕事で家にいないって言ったじゃない。私ひとりだから」
 客の姿を見て少し興奮気味に吠える愛犬・トトを抱いて、那奈は目を細める。
 先生は那奈に抱かれたトトの頭を軽く撫でた後、一息ついて言った。
「それはそうだけどよ、やっぱ緊張するだろ……第一、おまえは俺の生徒なんだぞ? それにご両親が不在の時に家に上がるなんて、教師としてやっぱりどうかと」
「別に私は、両親いる時でも来てもらって構わないわよ? 後ろめたいことなんてないし。でもそれもイヤでしょ? ていうか、本当に先生って妙なところで真面目よね」
 ふふっと楽しそうに笑ってから、那奈はリビングのドアを開けて先生を促す。
 大河内先生は勧められたリビングのソファーに座った後、漆黒の髪をかきあげた。
 ――ある冬の、休日。
 学校も休みのこの日、デートの約束をしていたふたりだったが。
 那奈に突然急用が入り、彼女が家を数時間空けられなくなったため、先生が彼女の家にやって来たのだった。
 今までふたりきりになる機会は、数え切れないほどあったが。
 だがよく考えると、玄関先までは来たことあった大河内先生だが、那奈の家に入るのはこの日が何気に初めてなのである。
 恋人同士とはいえ、一人暮らしの先生の家に那奈が来ることが殆どで。
 しかも教師と生徒というふたりの関係上、両親の留守中に彼女の家に上がるなんて、真面目な大河内先生にはできなかったのである。
 そんな理由から、教師としての後ろめたさを多少感じながらも彼女の家にやって来た先生だったが。
 何だか妙に落ち着かない先生に紅茶を出して、那奈は彼の隣に座った。
「ごめんね、先生。今日、近くに引っ越してくる従姉妹がうちに立ち寄るって急に連絡があって。顔見せにくるだけって言ってたから、その後デートしようね」
「それはいいんだけどよ。ていうか、俺がいてもいいのかよ?」
 那奈の淹れた紅茶をひとくち飲んでから、先生はふと首を傾げる。
 さすがに生徒でもある那奈の家でふたりきりだと立場的にまずいが、今回は彼女の従姉妹とやらもここに来るらしい。
 それを聞いていたため、大河内先生は彼女の家に上がることを承知したのだった。
 那奈はそんな先生に頷いた後、こう続けた。
「うん、従姉妹に先生のことは前から話してたんだ。だから従姉妹も、一度先生に会ってみたいって言ってたし。それにね、彼女と仲がいい悠くんも呼んでるの。もうすぐ彼も来るんじゃないかな?」
「あ? 何だよ、安西のヤツも来るのかよ」
 那奈の言葉に、途端に大河内先生は顔を顰める。
 那奈とふたりきりなのも問題といえば問題だが、よりによってライバルの悠も来るなんて。
 はあっと大きく嘆息し、先生は膝に頬杖をついた。
 那奈は時計をちらりと見た後、意味深に微笑む。
「まぁ、そう言わないの。悠くんを呼んだ理由、先生もすぐに分かると思うから」
「……理由?」
 大きく首を捻る先生を後目に、那奈はふと立ち上がった。
 そして、部屋に鳴り響くチャイムに顔を上げて玄関へと向かう。
 大河内先生はまだ慣れない環境に落ち着かない様子ながらも、もうひとくち紅茶を口に運んだ。
 ――それから、数分も経たず。
 楽しそうな華やかな笑い声が廊下から聞こえ、リビングのドアが再び開いた。
 そして、那奈とともにリビングに現れたのは。
「あ、紹介するね。彼女は、ひとつ年下の従姉妹で今宮桃花(ももか)ちゃん。それで彼が、私の彼氏の大河内藍先生よ」
「こんにちはっ、よろしくお願いしまーすっ」
 那奈の従姉妹である桃花という少女は、可愛らしく小首を傾げながらペコリと頭を下げた。
 従姉妹というだけあり、ツインテールの長い黒髪と同じ色の瞳は那奈のものとよく似ている。
 だが、見た目日本美人でおしとやかな雰囲気を持つ那奈とは違い、桃花はキャピキャピとした活発な印象を受ける子であった。
「桃花ちゃん、今紅茶淹れてくるから。座ってて」
「うんっ。ありがとう、那奈お姉ちゃん」
 にっこりと微笑んで、桃花は無邪気に那奈に手を振った。
 その後、おもむろに大河内先生の目の前の椅子にストンと座る。
 それから桃花は、ちらりと横目で那奈がリビングを出たのを確認した。 
 室内に、一瞬シンとした静寂が訪れる。
 そして……その静寂を、破ったのは。
「ふぅん。那奈お姉ちゃんの、ウワサの彼氏ねぇ」
 じろじろと大河内先生を見ながら、桃花はふうっとわざとらしく溜め息をつく。
 ふてぶてしくテーブルに頬杖をつくその様は、先程までの可愛らしいものとはまるで違っている。
 そしてその声の響きは、何故か気に食わないようなそんな印象を受けた。
「あ? 何だよ、悪いかよ」
 大河内先生は180度態度の変わった桃花に眉を顰め、目を向けた。
 桃花は長いツインテールの髪を触りながら、構わずにこう言葉を続けたのだった。
「ねーねー、どうやって那奈お姉ちゃんをたぶらかしたワケ? てか、ロリコンもいいところじゃなーい」
「なっ、うるせーなっ。ロリコンとか言ってんじゃねーぞ、コラ」
「だって、本当のことじゃない。那奈お姉ちゃんって美人だし、お金持ちのお嬢様だし、気持ちは分かるケドさ。でも先生が生徒に、あんなコトやこんなコトしちゃっていいのかなーっ」
 ニッと笑いながら、桃花は那奈と雰囲気の似た漆黒の瞳を細める。
「あんなコトやこんなコトって何だ、マセガキが。それに俺はな、教師として後ろめたいことなんて何も……っ」
 大河内先生が桃花の言葉に反論しようとした――その時だった。
 絨毯の上で寝ていたトトがピクッと反応し、尻尾を振りながら吠え始める。
 それと同時に、再び那奈の家のチャイムが鳴った。
 そのチャイムを聞いて、桃花はパッと表情を変えて立ち上がる。
 それから先生を残し、バタバタと急いでリビングを出て行ったのだった。
「あっ、人の話の途中だろーがっ! ……ていうか何なんだよ、あいつは」
 大きく嘆息し、先生はザッと前髪をかき上げる。
 だが、それからさらに大河内先生は、気に食わない表情を浮かべることになるのだった。
 その理由は。
「あ、大河内先生。先生もいたんですか?」
 わざとらしくそう言って、リビングに現れた少年・安西悠は深々と息をつく。
「それはこっちの台詞だ。何でおまえが来るんだよ」
 悠はそんな先生の言葉をふいっと無視し、上品な顔に微笑みを宿して桃花に向ける。
「久しぶりだね、桃花ちゃん。元気だった?」
 優しく悠に声をかけられた桃花は、表情を明るく変えて大きく頷いた。
「うんっ。桃花ね、すごく悠兄ちゃんに会いたかったんだぁっ」
 先程までの生意気な態度は微塵も見せず、桃花は悠に甘えるような声で答える。
 悠をうっとりと見つめる彼女の表情は、心から嬉しそうなものであった。
 そんな桃花の様子を見守りながら、那奈は小声で先生に言った。
「先生。悠くんを呼んだ理由、分かった?」
「あ? ああ。ていうか、分かりやすいヤツ……」
 はあっと溜め息をつき、すっかり桃花にペースを狂わされた先生は呆れたように呟く。
 先程まで、自分にはあんなにふてぶてしい態度だったのに。
 悠には手の平を返したように、ニコニコと笑顔を向けている。
 いや、むしろ。
 誰がどう見ても……今悠に向けられた桃花の瞳は、恋する乙女のものである。
 那奈は楽しそうに会話に花を咲かせている悠と桃花を見てから、ふと首を捻って言った。
「でもね、悠くんは全然桃花ちゃんの気持ちに気がついてないみたいなのよね。傍から見てたら、一目瞭然って感じなのに」
「安西のヤツ、何気に那奈しか見えてないからな……ていうか、おまえも人のこと全然言えないけどな」
 悠の気持ちに全く気がついていない那奈に目を向け、先生は彼女に聞こえないくらいの小声で思わずそう呟く。
 那奈の恋人である自分にとっては、彼女が悠の想いに気がついていない方がむしろ都合がいいのであるが。
 幼馴染みという関係をたてに、さり気なく悠が自分たちの邪魔をしてくるのも気に食わないのも確かである。
 ――そんな先生の考えを、知る由もなく。
 那奈は突然、小さく声を上げる。
「あっ! いけない、お湯を火にかけっぱなしだったっ」
「那奈ちゃん、危ないから僕も手伝うよ」
 慌ててキッチンへと向かう那奈に、抜かりなく悠も続く。
 それからパタンとリビングのドアが閉まった後、大河内先生は桃花に目を向けた。
「何だよ、おまえは安西についていかないのかよ?」
 桃花はそんな先生の言葉に、怪訝な顔をした。
「何よ、ロリコン教師。それ、どーいう意味?」
「ロリコンって言うなっ、態度コロコロ変えやがって」
 気に食わないようにそう言った後、大河内先生は気を取り直して一息つく。
 それからニッと意味あり気に笑うと、桃花にはっきりとこう訊いたのだった。
「おまえ、安西のことが好きなんだろ?」
 途端に桃花は驚いた表情を浮かべる。
 そして、顔を真っ赤にして声を上げた。
「なっ、何で……っ!?」
「何でって、おまえの態度バレバレじゃねーかよ。安西のことをなぁ、ふーん」
 桃花は火照った頬をペチペチと軽く叩き、ニヤニヤしている先生からふいっと視線を逸らしてソファーに座った。
 それから俯いてひとつ嘆息し、ゆっくりと口を開く。
「確かに桃花は、悠兄ちゃんのことが誰よりも一番大好き。ずっと憧れてるよ、悪い? でも私はね、ロリコン教師とは違うんだから」
「ロリコンって言うなって言ってんだろーがっ。てか、違うって何がだよ」
 首を捻る先生に、桃花はちらりと目を向ける。
 そして、彼の問いに答えたのだった。
「悠兄ちゃんは、ずっと那奈お姉ちゃんのことが好きなの。桃花はそんな大好きな悠兄ちゃんの想いを叶えてあげたいんだ。だから、アンタはさっさと那奈お姉ちゃんのコト諦めてよ」
「あ? 何寝ぼけたこと言ってんだ、冗談じゃねーっての。それにな、おまえは安西のことが好きなんだろ? いくらアイツが那奈のこと好きだからって、何でおまえが世話焼かなきゃなんねーんだよ」
 理解できないという表情の先生に、桃花は大きく首を振る。
「私は悠兄ちゃんのことはもちろん、那奈お姉ちゃんのことも好き。だから悠兄ちゃんが那奈お姉ちゃんと幸せになってもらえれば、桃花はそれでいいの。分かった?」
 大河内先生は少し冷めた紅茶を口に運んだ後、ふっとひとつ嘆息する。
 それから膝に頬杖をつき、桃花にこう言ったのだった。
「ていうか、一見一途で綺麗な事ばっか言ってるけどな。要はおまえ、フラれるのがコワいんだろ」
「! な……っ」
 先生の言葉に、桃花は顔を上げる。
 そんな素直な反応の彼女を見て、先生はニッと笑った。
「何だよ、図星かよ」
 楽しそうな様子の先生をキッと睨み、桃花は顔をさらに真っ赤にして怒鳴る。
「ず、図星なんかじゃないもんっ! 自分だって、生徒たぶらかしてるくせにっ!」
「あ!? 誰が、たぶらかしてるってんだっ。図星つかれたからってギャーギャー言ってんじゃねーぞ、ガキ」
「てか、それが教育者の言うコト!? やっぱり那奈お姉ちゃん、騙されてるんだっ。桃花がお姉ちゃんを、ロリコン教師の魔の手から救ってあげないとっ」
「ロリコン教師の魔の手って……おまえな、しまいにはマジでぶっ飛ばすぞ」
 はあっと大きく溜め息をつき、先生は鬱陶しそうに前髪をかき上げた。
 桃花はそんな先生にさらに言葉を続けようとしたが、ふと口を噤む。
 それと同時に、キッチンから那奈と悠のふたりがリビングへ戻ってきたのだった。
「大河内先生、紅茶のおかわり淹れる?」
 桃花と悠に紅茶を出した後、那奈はストンと先生の隣に座る。
 先生はそんな那奈の髪をそっと撫でながら、漆黒の瞳を細めた。
「ああ。サンキュー」
 那奈はにっこりと幸せそうに先生に笑顔を向け、彼のカップに紅茶を注ぐ。
「…………」
 桃花はそんなラブラブなふたりのやり取りに、気に食わないような顔をした。
 そんな桃花の様子に気がつき、悠は優しく声を掛ける。
「桃花ちゃん、砂糖使う? はい」
「あ、うんっ。ありがとう、悠兄ちゃん」
 大好きな彼の声にパッと嬉しそうな表情を浮かべ、桃花は知的で上品な悠の顔をじっと見つめた。
 そしてほんのり火照ってピンク色に染まった頬に手を当て、紅茶に砂糖を入れたのだった。