SCENE11 メルティン,メルティン
――寒さも一層厳しくなってきた年の瀬。
冬休みを迎えた聖煌学園高校は、生徒の姿はもちろん、人の気配も殆どなくシンと静まり返っていた。
微かに聞こえるのは、冬休みも熱心に練習に励む運動部の部活の声くらいである。
そして――そんな静かな校舎の中に、ふたりはいた。
「先生、荷物これで終わりですか?」
社会準備室で私物をダンボールに詰め終わった大河内先生に、那奈は目を向ける。
先生は眼鏡の奥の瞳を優しく細め、頷いた。
「ええ。これで終わりですよ、今宮さん」
教師バージョンの穏やかな先生のその声に、那奈は嬉しそうに微笑みを返す。
二学期いっぱいで、聖煌学園の教師を辞めた大河内先生であるが。
この日彼は、学校に置いていた残りの私物を引き取りに来ていた。
そしてそんな先生に付き合って、冬休みである那奈も一緒に学校に登校していたのである。
荷物整理もひと段落終わった大河内先生に、那奈はあたたかいお茶を淹れた。
「ありがとう、今宮さん」
先生は緑茶の良い香りに柔らかな笑顔を宿し、那奈の隣の椅子を引く。
だがふと何かを見つけて椅子に座るのを止めると、準備室の隅に置かれているものを手にした。
それからそれを丁寧にたたみ、ダンボールにしまった。
その後、改めて那奈の隣に座ったのだった。
那奈はそんな先生の様子を見て、ふと今までずっと疑問に思っていたことを彼に訊いた。
「大河内先生、ずっと前から思ってたんですけど……どうして先生は日本史の先生なのに、いつも白衣を着ていたんですか? 白衣って、理数系の先生ってイメージがあるんですけど」
先生が最後にダンボールにしまったのは、彼が着ていた白衣だった。
学校での大河内先生は、何故かいつも着ている白衣と分厚い眼鏡が何だか胡散臭い、見た目冴えない教師であった。
でもどうして日本史教師の彼が白衣を着ているのか。
何気に那奈はそのことが密かに気になっていたのだった。
大河内先生は彼女の問いに、少し照れたような表情を浮かべる。
それから、ゆったりとした声で答えた。
「白衣ですか? いえ、授業をしていると、ジャケットがチョークの粉で汚れるでしょう? だから、白衣をいつも着る様になったんですよ」
大河内先生はそしてその後、こう続ける。
「学校に着て来ていたスーツは、僕が教師になって初めて貰った給料で買ったものなんですよ。それほど高級でもない、平凡な安いスーツなんですけど……でも、初給料で買ったスーツを大切にしたかったんです」
「大河内先生……」
那奈は先生の言葉を聞いて、思わず微笑む。
いつも先生が白衣の下に着ていたスーツ一式は、どこにでも売っていそうな何の変哲もないものである。
本当はお金持ちのお坊ちゃまである先生にとって、買おうと思えば何着だって買えるようなもの。
でも彼にとってそれは、自分の夢を叶え、そして初めて貰った給料で買った大切なものなのだったのだ。
那奈は昔、金持ちのボンボンが嫌いだと先生に話したことがある。
その理由のひとつは、何でもお金さえ出せばすぐに手に入ると。
そんなボンボンの考え方が嫌いなのだった。
だが、大河内先生は違った。
とはいえ最初に先生の秘密を知った時の那奈は、彼の学校とは全く違う外見や言動だけを見てショックを受けた。
自分が好きになった学校での大河内先生は、偽りのものだったのだと。
そう思ったりもしたのだったが。
でも……実際の大河内先生は、やはり那奈の理想そのものの人だったのである。
縁側で一緒にお茶を飲みながら、のんびりとした時間を共有できる人。
子供のようなキラキラとした純粋な目で、自分の好きなことを語れる人。
一緒にいるだけで、幸せを感じられる人。
先生と恋人になって10ヶ月余り、確かにいろいろなことがあった。
喧嘩もしたし誤解もしたし、別れ話まで出た。
だが那奈は今この時、強く感じていた。
何年経ってもずっと自分の隣にいるのは――誰でもない、大河内先生だということを。
那奈はあたたかいお茶をひとくち飲んでから、先生に言った。
「大河内先生、前みたいに何かお話してください。社会科準備室でこうやって話すことも、もう最後だろうから……」
少し寂し気な表情を浮かべながらも、那奈はそう彼に頼む。
先生はにっこりと微笑んで少し考えた後、口を開いた。
「話、ですか? そうですね……では、僕の好きな武将のひとり、武田信玄の話でもしましょうか。武田信玄は生涯がとてもドラマチックなので、小説やドラマなど面白いものもたくさんあるんですが、今宮さんは見たことありますか?」
ふと荷物整理の際にダンボール箱にしまった『武田信玄』の小説のことを思い出し、先生は話を始める。
那奈はそんな楽しそうな先生の様子を、満足そうに見つめた。
授業では習わないような、彼のちょっぴりマニアックな話を聞いている時間。
先生のことが好きになって以来、この時間が那奈にとってはとても幸せなひとときだった。
いつもこの社会科準備室でお茶を飲みながら、先生はいろいろな話をしてくれた。
内容は圧倒的に大好きな日本史のことが多かったが、それだけではなく次第にお互いのことも話をするようになって。
でもまさか、自分と先生が恋人同士になるなんて。
先生への気持ちを胸に秘めながら片思いをしていた頃は、想像もしていなかった。
この場所でふたりで話をしているだけで、ただされだけでもすごく幸せだったから。
――そんな懐かしい感情に浸りながらも、しばらく彼の話を黙って聞いていた那奈だったが。
「……今宮さん?」
ふと突然話をするのを止め、大河内先生は彼女に漆黒の瞳を向ける。
そんな彼の目に移っていたのは。
「あ……ごめんなさい、大河内先生……」
那奈は急にポロポロと零れはじめた涙を慌てて手の平で隠し、先生から視線を逸らした。
大河内先生はそんな彼女の肩をそっと抱いて、優しく髪を撫でる。
大きな彼の手の感触を感じながらも、那奈は自分の意思で止まらない涙に苦笑した。
そして、ぽつりと言ったのだった。
「もうこうやってお茶を飲みながら、先生とこの場所で話ができないなんて……やっぱり、すごく寂しい」
「今宮さん……」
大河内先生は彼女の頬を伝う涙を優しく指で拭う。
それからスッと無意識的に眼鏡を外し、ザッと漆黒の前髪をかき上げた。
柔らかな印象だったその瞳が、途端に神秘的なものへと変わる。
大河内先生は泣き止まない那奈を慰めるかのように、ぎゅっと強く彼女の身体を抱きしめた。
そして頭をゆっくりと撫でながら、耳元でこう言ったのだった。
「何言ってるんだ。確かに、この場所でこうやって話をすることはもうできないけどな……でもこれからいくらでも、お茶飲みながらおまえにいろんな話してやるから。だから、泣くな」
「大河内先生……」
那奈は恋人の胸に身体を預け、彼の背中に腕を回す。
ふたりの体温が交じり合い、心に染みる。
那奈は彼のぬくもりに安心感を覚えながらも、ふと顔を上げた。
先生の漆黒の瞳が、真っ直ぐに自分だけを見守っている。
「那奈」
よく響くバリトンの声が、彼女の名を呼んだ。
那奈はその声ににっこりと微笑むと、スッと両の目を伏せる。
彼女の頬にかかる黒の長い髪をそっと払った後、先生は彼女の頬に手を添えた。
そして……那奈の瑞々しい唇に、ふわりとキスが与えられる。
那奈は柔らかな接吻けに照れたように笑顔をみせた後、思ったのだった。
先生のくれるキスは、まるで幸せの宿る魔法のようで。
身体が溶けてしまうような、そんな心地良ささえ感じると。
大好きな童話『オズの魔法使い』の台詞で、こんな有名な一節がある。
アイム メルティン,メルティン――ドロシーに苦手な水をかけられた悪い魔法使いが、自分の身体が溶けていく時に言った言葉。
先生にキスをされるたび、那奈は自分の身体が溶けてしまうのではないかと。
そういう感覚に陥るのだった。
もうこの日が先生と学校で会える、最後の日だろう。
それは寂しくて残念で仕方ない。
だが自分たちは――これからも、ずっと一緒にいるのだから。
今日は決して終わりの日なんかではなく、むしろ新しいふたりの始まりの日なのだ。
「那奈、絶対におまえのこと迎えに行くからな。待ってろ」
先生はもう一度彼女の身体を力強く抱きしめ、そう彼女に告げる。
彼の言葉に瞳いっぱいに涙を溜めながらも、那奈はコクンと頷いた。
「うん、待ってるから……大河内先生、大好きだよ」
「ああ。俺も愛してるよ、那奈」
ふっと那奈に優しい笑みを向け、大河内先生は彼女の頬を大きな手の平でなぞる。
それから那奈の顎を少しだけ持ち上げると、再び瞳を閉じた。
那奈はそれに応えるように、同じように目を伏せる。
そして……ふたりはもう一度、お互いの唇を重ね合わせた。
溶けるような、幸せの魔法。
その気持ち良さに頬を緩め、那奈は改めて思ったのだった。
いつまでも、ずっと。
自分の魔法使いは、自分のためだけに特別な魔法をかけてくれるんだと。
そして――自分の理想の魔法使いは彼以外に誰もいないと、そう強く感じたのだった。
Winter Season -FIN-