SCENE9 2とび17
大河内先生と無事に仲直りした、次の日。
那奈は上機嫌な様子で、恋人の家のキッチンに立っていた。
つい数日前までの思い悩んだ表情は、今の彼女には全くない。
それもそのはず、先生の誤解も無事に解けて、那奈の心は幸せで満たされているからである。
那奈は切った野菜を煮込みながら、ちらりとリビングのソファーで本を読んでいる大河内先生に視線を向けた。
眼鏡をかけた先生は那奈の視線にも気がつかずに、新しく買ったばかりの本を読み耽っている。
そんないつになく真剣な姿が、好きなことに対しては周囲が見えなくなるくらい夢中になる先生らしいなと、那奈はふっと漆黒の瞳を細めた。
――その時。
静かな広い部屋に、携帯電話のメール受信音が鳴り始めた。
大河内先生はふと我に返ったように顔を上げ、眼鏡を外してポケットに入れる。
そして携帯を手にとって受信したメールの内容を確認すると、ソファーから立ち上がった。
「おい、那奈……って、今日の夕飯はカレーか!」
キッチンに足を踏み入れた先生は、キッチンに用意されてあったカレールウを見つけ、子供のように嬉しそうな表情をする。
逆に那奈は、突然現れた先生を見て大きく瞳を見開いた。
「あーもう、先生ったら! 今日の献立、出来上がるまでの秘密だったのにっ」
「んなコト言ってもよ、カレーだったら出来る前に匂いで分かるだろーが、そう膨れるなよ。てか、カレーなんて久しぶりだなっ」
むうっとむくれる那奈の頬を軽く摘み、先生は満足そうに微笑む。
那奈ははあっと溜め息をひとつついた後、ふいっとわざと彼から視線を逸らした。
それから急に、くすくすと笑い出す。
「もう、先生って本当に小学生みたいなんだから。あ、ちゃんとニンジンは食べなきゃダメよ?」
那奈の言葉に、今度は先生が眉を顰めた。
「げっ、ニンジンやっぱり入ってるのかよ……」
「食べやすいように、ちゃんと細かく切ってるから。それよりも先生、どうしたの?」
先生の素直な反応を見て楽しそうに笑いながらも、那奈は先生に目を向ける。
先生はその言葉を聞いて、思い出したように携帯電話を開いた。
「あ、そうそう。菜緒のヤツから今メールが来てよ。俺らが昨日帰った後に、嘉人さんにプロポーズされたんだってよ」
菜緒から先生に送られてきたメールの内容を見た後、那奈は驚く様子もなく頷く。
そして丹念に野菜のアクを取りながら、こう言ったのだった。
「うん、知ってるよ。だって昨日の夜、嘉人さんからメール貰ったもん」
先生はその言葉に、一瞬きょとんとする。
そして、ムッとしたように口を開いた。
「ちょっと待て、何で嘉人さんがおまえのメアド知ってんだよ」
「何でって、私と嘉人さん仲良しだもん。メアドぐらいお互い知ってるわよ」
そこまで言った後、那奈はポンッと手を打って悪戯っぽく笑う。
それから、こう続けたのだった。
「あ、先生。もしかしてヤキモチ? 本当に先生って、ヤキモチ妬きなんだから」
「うるせーなっ、だから何であの人と仲良しなんだって俺は聞いてんだよ。てか、ヤキモチとかじゃねーってのっ」
ますます楽しそうに笑う那奈に、先生はさらに気に食わない表情を浮かべる。
そんなムキになる先生の様子を見ながら、那奈は宥めるように言った。
「まぁまぁ、嘉人さんと菜緒さん、婚約したんでしょ? よかったよね」
少し鍋の火を小さくして、那奈は自分のことのように幸せそうに微笑む。
先生は彼女の言葉に小さく頷いた後、漆黒の髪をかき上げた。
そして。
「……先生?」
那奈は少し驚いたように、背後を振り返る。
そんな、彼女の身体は。
大河内先生の腕に、ギュッと抱きしめられていたのだった。
先生は那奈の身体を後ろから抱いたまま、ゆっくりと口を開く。
「菜緒たちが婚約したのも、もちろんよかったけどよ……那奈の誤解が解けたことが、一番よかった」
恋人の体温を感じながら、先生は本当にホッとしたような表情を浮かべた。
那奈はそんな先生を見つめ、にっこりと笑顔を宿す。
それから自分を抱きしめている先生の腕にそっと手を添え、言った。
「本当によかったよ。私も先生のこと誤解してた時、もしもオズの魔法使いにでてくる『ネガイグスリ』があったら、先生と仲直りできますようにって絶対お願いするのにって、そう思ってたんだよ」
「オズの魔法使いの『ネガイグスリ』? そんなもんがあるのかよ」
「うん。『ネガイグスリ』を一定量飲んでね、2とび17まで数えて願い事言うの。そしたら、願い事が叶うんだ」
マニアックな話を楽しそうに話す那奈の髪をくしゃっと撫で、先生は笑う。
「本当にオズの魔法使いオタクだよな、おまえって」
「そういう先生だって、歴史オタクでしょ」
「俺の場合はな、仕事でもあるだろーが。それに、オタクじゃなくてマニアックだよ」
「どっちも大して変わらないじゃない」
ふふっと楽しそうに笑う那奈の顔を見つめ、大河内先生は瞳を細める。
そしてさらに彼女を強く抱きしめると、耳元でこう囁いた。
「歴史も好きだけどな……でも、おまえのことはもっと好きだ」
耳をくすぐる先生の声に、那奈は頬を赤らめつつ頷く。
それから彼に笑顔を返すと、振り向き様に先生に抱きついたのだった。
「私も大河内先生のこと、大好きだよ」
先生は那奈の身体をしっかりとその胸で受け止め、優しく彼女の頭に手を添える。
いつまでもこうやってふたりで、互いのぬくもりを感じあっていたい。
気持ちがすれ違っていたこの数日間は、心にぽっかりと穴が空いたようだった。
でも……今は、大切な人がすぐ近くにいる。
自分に身体を預ける那奈の柔らかな感触を改めて実感し、先生は溢れ出す感情を抑えながらも彼女の体温を感じた。
那奈のことを、大切にしてやりたい。
その気持ちが、何よりも一番強いから。
「あ、先生。カレーにルウ入れなきゃ」
音を立てて鳴り始めたキッチンタイマーのベルを耳にし、那奈は名残惜しそうに先生の胸から身体を起こす。
だが大河内先生はそんな彼女の行動を許さず、再び彼女を抱きしめた。
「那奈」
短く、先生が恋人の名前を呼ぶ。
那奈はその言葉に、ふっと顔を上げた。
ゆっくりと、ふたりの瞳が同時に伏せられる。
そして。
柔らかなふたつの唇が、そっと重なったのだった。
「先……ん、っ」
那奈は軽い眩暈のような感覚を覚え、涙の溜まった瞳をうっすらと開く。
そんな那奈の頭に手を添えると、先生はさらに口づけを重ねた。
甘かったキスは、しだいにその印象を変えはじめて。
いとも簡単にスルリと進入した先生の舌が、那奈のものを捉える。
キッチンタイマーが今だ鳴り響く、キッチンの中で。
那奈は頭の中が真っ白になるような気持ち良さに頬を紅潮させながらも、先生の愛情を精一杯受け止めたのだった。
その――数分後。
「おっ、カレーのいい匂いがしてきたな。カレーはまた、次の日の朝に食うのが美味いんだよなっ」
キッチンからリビングに戻った大河内先生は、目を輝かせながらそう言った。
那奈はカレーをかき混ぜながら、クスクスと笑う。
「多めに作ってあるから、心配しなくても明日の朝の分もちゃんとあるよ、先生」
それから、思い出したように続けた。
「あ、そうだ。明日、体育祭だよね。先生の分のお弁当、今日帰る前に作って冷蔵庫に入れておくからね」
「いいのかよ、明日の弁当まで作ってくれるのか?」
「うん。最近ね、料理大好きで凝ってるんだ。先生が迷惑じゃなければ、作らせて」
嬉しそうに大きく頷き、那奈は漆黒の髪をそっとかき上げる。
その後、出来上がったカレーを皿によそい、食卓へと運んだ。
先生は目の前に出されたカレーを見て、嬉しそうに漆黒の瞳を細める。
そして手を合わせてから、ひとくちカレーを口に運んだ。
「うん、すげー美味いよ。サンキュー」
「美味しい? よかった」
ふふっと満足そうに微笑み、那奈は先生の隣に座る。
先生はおもむろにスプーンを置くと、那奈の身体を自分に引き寄せた。
それから……もう一度。
ふたりは目を閉じ、羽のように軽い口づけを交わしたのだった。
その日の夜。
明日が体育祭のため、那奈はいつもより早く先生の家から帰宅していた。
菜緒と嘉人の婚約、そして恋人との仲直り。
数日前までの暗い気持ちが嘘のように、幸せなことが続いている。
今の那奈の心は晴々としていて、幸せそのものであった。
「明日に備えて、今日は早めに寝ようかな」
愛犬のトトを抱えて頭を撫でてから、那奈はリビングから自室へと足を向けようとした。
――その時。
那奈の携帯電話が、誰かからの着信を知らせる。
那奈はトトをソファーの上に下ろすと、カバンから携帯を取り出した。
その、電話をかけてきた相手とは。
「もしもし?」
『あ、那奈ちゃん。夜遅くにごめんね』
優しく耳に響くのは、聞き慣れた幼馴染みの悠の声だった。
那奈は再びリビングのソファーに座ると、首を小さく振る。
「ううん、大丈夫だよ。どうしたの、悠くん」
那奈のその問いに、悠は少しだけ間を取った。
そして、ゆっくりとこう言ったのだった。
『数日前まで、那奈ちゃん元気なかったから……先生と仲直りしたってことは聞いたけど、ちょっと心配で』
「うん、もう大丈夫だよ。ありがとう、心配してくれて」
悠の言葉に、那奈はすぐさま答える。
悠は那奈の返答を聞いてから、相変わらず穏やかな印象の声で口を開いた。
『そっか。那奈ちゃんが元気になってくれて、よかったよ』
「いつも心配かけてごめんね。本当にありがとう、悠くん」
悠の気持ちを知らない那奈は、純粋に彼の気遣いが嬉しかった。
小さい頃から、悠は自分に優しくしてくれている。
ただ、それが幼馴染みとしてだけではなく、彼が自分に抱く特別な感情も含まれていることに、那奈は全く気がついていないのだが。
逆にそのことがよく分かっている悠は、さり気なく話題を変える。
『そういえば、明日の体育祭、楽しみだね。那奈ちゃんは仮装競争の係だったよね?』
「うん。結構準備も頑張ったから、あとは本番だけだよ。うちのクラスのもだけど、ほかのクラスの仮装も楽しみだよね」
そこまで言って、那奈はふと言葉を切った。
そして、こう続けたのだった。
「楽しみなのは、楽しみだけど……でも、大河内先生に仮装してもらいたかったな」
『……そうだね。でも仕方ないよ、大河内先生は担任持ってないからね』
大河内先生の話題が出て、電話の向こうで複雑な表情をしつつも、悠は無難にそう答える。
那奈は残念そうな表情を浮かべつつも、小さく頷いた。
そして悠としばらく世間話をした後、携帯電話を切る。
それからソファーに座っている愛犬の頭を優しく撫で、自分の部屋へと入っていたのだった。
――その頃。
那奈との電話を終えた悠は、ひとつ小さく溜め息をつく。
数日前まで元気がなかった那奈が、明るさを取り戻してくれたことは純粋にホッとしたのだが。
大河内先生と仲直りして嬉しそうな那奈の声を聞くのは、正直少し辛かった。
でも……それでも、電話せずにはいられなかった。
どうしても、彼女の声が聞きたかったから。
悠は気を取り直すように色素の薄いブラウンの前髪をかき上げ、スッと同じ色をした瞳を細める。
そして改めて自分に言い聞かせるかのように、こう呟いたのだった。
「きっと必ず那奈ちゃんのこと、振り向かせてみせるから……」