SCENE8 金の糸と赤い糸

 ――次の日。
 授業の合間の十分休み、那奈は職員室にプリントを提出しに来ていた。
 プリントを出し終えた那奈は、ふと顔を上げて複雑な表情を浮かべる。
 そんな彼女の視線の先にいるのは。
 真っ白な白衣と分厚い眼鏡をかけた、ひとりの教師。
 自分の机に座って仕事をしている彼・大河内先生は、那奈が同じ職員室にいることには気がついていない。
『直接会って、話がしたいんだ』
 先生の声が、那奈の頭の中で響く。
 私だって、先生と話をしたい。
 でも今はまだ、心の整理ができていないのだ。
 きっと面と向き合って話をしようとしても、確実に取り乱してしまうだろう。
 那奈はそう思い、はあっと大きく嘆息した。
 那奈の脳裏に蘇るのは……親しそうに腕を組む、先生と菜緒の姿。
 事情があるのだと分かっていても、それを黙認するほど、まだ今の自分は大人ではない。
 それにあの可愛らしい菜緒という女性は、先生の前の彼女だった人なのだから。
 いくら友達だと言われても、そうですかと納得できるわけはない。
 確かに大河内先生は、自分のことをすごく大切にしてくれている。
 真剣にふたりのことも考えてくれているし、何よりも誠実である。
 教師としての責任もあるのだが、必ず自分のことは家に帰すし、自分との関係もまだ健全なもので。
 そういう先生の真面目なところも、大好きなのだが。
 でも……先生のことを、信じていないわけではないけれど。
 そこまで思って、那奈は深い溜め息をついた。
 決して、信じていないわけではない。
 だが、先生が前の彼女とふたりで部屋に入っていく姿を目の当たりにし、那奈は大きなショックを受けていたのだった。
 考えたくないけれども、ふたりであれからどうしたんだろうか。
 先生を信じている気持ちは大きいが、よからぬことを考えてしまうことも事実で。
 那奈は小さく首を振り、もう一度嘆息する。
 そして職員室を後にしようと、ドアに手をかけた。
 ……その時。
「今宮さん」
 ふと背後から名前を呼ばれて、那奈は顔を上げる。
 それから振り返り、表情を変えた。
「大河内先生……」
 那奈が職員室にいることに気がついた大河内先生の姿が、そこにはあったのだった。
 先生は、眼鏡の奥の柔らかな瞳を那奈に向ける。
 そんな先生の両の目に、那奈は思わずドキッとしてしまった。
 そして先生の顔を真っ直ぐ見ていられず、ふいっと視線を逸らす。
 大河内先生はそんな彼女の様子に苦笑しつつも、ふと周囲をうかがう様に見回した。
 それから那奈に向き直り、ゆっくりと口を開く。
「今宮さん。貴女に、お願いがあります」
「えっ?」
 先生のその言葉に、那奈は不思議そうな顔をした。
 大河内先生は彼女を真っ直ぐに見つめ、小さく頷く。
 そして那奈にしか聞こえない声で、あることを言ったのだった。
「…………」
 那奈は複雑な表情を浮かべ、俯く。
 それと同時に、始業五分前の予鈴が鳴り始めた。
 大河内先生は那奈に優しい瞳を向けてから、彼女よりも先に職員室を出て行った。
 那奈はしばらくその場に立ち尽くしたまま、何かを考えるような仕草をする。
 それからふと我に返り、気を取り直して職員室を後にしたのだった。


 ――その日の夜。
 前に嘉人と会った同じレストランの駐車場に、青のフェラーリが停車する。
「ごめんね、藍くん。どうしても藍くんも一緒にって、嘉人さん言うから」
 先生の愛車から降りた菜緒は、さすがに申し訳なさそうに大河内先生に目を向ける。
 先生は車の鍵をしまい、小さく嘆息した。
「もう今更だ、構わねーよ。ていうか、謝るなら最初からこんなことするなよな……ほら、行くぞ」
 ちらりと腕時計に目を向けてから、先生は菜緒を伴ってレストランに入っていく。
 そして、まだ待ち合わせの時間には少し早かったのだが。
 店員に案内された席には、すでに菜緒の本来の彼氏・嘉人の姿があった。
 ふたりの到着に気がついた嘉人は、おもむろに立ち上がって軽く頭を下げる。
「すみません、急に呼び出して」
 先生はそんな嘉人を見て、改めて本当にこの人はいい人なのだと感じた。
 事情を知らない彼にとって自分は、恋人をいきなり奪った憎き男のはずなのに。
 心の中では良く思っていないのは当然だろうが、そんな様子を微塵も見せない。
 自分が逆の立場だったならば、きっと大人気ない態度を取ってしまうだろう。
「いえ、構いませんよ。座ってください」
 先生は嘉人にそう言葉を返し、席に座った。
 珍しく困惑したような表情をして、菜緒は嘉人に目を向ける。
「嘉人さん。それで、お話って何ですか?」
「菜緒さん、僕は……」
 嘉人は菜緒を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと口を開こうとした。
 ――その時。
「ちょっと待ってください。まだもうひとり、肝心な人が来てないんで」
 大河内先生はそう言って、嘉人の言葉を遮る。
 その言葉に、嘉人と菜緒は同時に首を傾げた。
「もうひとり、肝心な人?」
「僕たちのほかに、誰か呼んでいるんですか?」
 ふたりの問いに敢えて答えず、先生はただコクンと小さく頷く。
 ……そして。
 おもむろに、視線をレストランの入り口へと向けた。
 そんな先生の漆黒の瞳に映っているのは――ひとりの少女の姿。
「大河内先生……」
 待ち合わせ時間ちょうどにレストランに現れたのは、那奈であった。
 那奈は複雑な表情を浮かべながらも、菜緒と嘉人にぺこりと頭を下げる。
「そこに座れ、那奈」
 先生はどうしていいか分からず立ち尽くしている那奈を、そう促した。
 那奈は何も言わず、言われた通りに空いている椅子に座る。
 思わぬ那奈の出現に、嘉人は驚いたように彼女に訊いた。
「那奈ちゃん? どうして、君が……」
「俺が呼んだんですよ。俺らの話を、こいつにも聞いて欲しくて」
 黙っている那奈の代わりに、大河内先生は嘉人の問いに答える。
 菜緒はきょとんとしつつも、思い出したように口を開いた。
「あっ、この間レストランで会った、藍くんの生徒の子? ていうか、嘉人さんと知り合い?」
 那奈と嘉人を交互に見ながら、菜緒は首を捻る。
 先生はぐるりの全員の顔を見回し、嘉人に視線を向けた。
 そして、言ったのだった。
「それで、お話って何ですか?」
「…………」
 嘉人は先生の声に、ふと顔を上げる。
 それから意を決したように、口を開いたのだった。
「貴方たちを呼んだのは、僕の気持ちをおふたりに……いえ、菜緒さんに、聞いてもらおうと思って」
 相変わらず穏やかな印象の声だが、はっきりと嘉人はそう言った。
 それから真っ直ぐに菜緒に目を向け、続ける。
「菜緒さん、大河内くんと貴女が婚約しているということは、分かっています……でも僕は、今でも貴女のことを愛しているし、貴女と結婚したいと強く思ってる」
「嘉人さん……」
 菜緒は彼のその言葉に、驚いた表情を浮かべた。
 こんなに彼がはっきりと自分の気持ちを伝えることなんて、今までなかったからである。
 大河内先生は驚く菜緒をちらりと見た後、ふっと一息つき、ザッと前髪をかき上げた。
 そして、こう嘉人に返したのである。
「もう俺と菜緒は、婚約してるんですよ。今更そんなこと言われても、困るんですけど」
 その意外な言葉にまず反応したのは、女性ふたりだった。
「えっ、藍くん!?」
「大河内先生……!?」
 今まで黙って話を聞いていた那奈は、自分の耳を疑った。
 そして瞳を大きく見開き、先生を見つめる。
 ……今日、学校の職員室で。
 大河内先生は、那奈にこう言ったのだった。
『今宮さんに、お願いがあります。今日の19時、あのレストランに来てもらえますか? 貴女に、聞いてもらいたいことがあります』
 聞いてもらいたいこととは、菜緒と正式に婚約するということだったのだろうか。
 那奈は堪らず、ぎゅっと唇をかみ締める。
 こんなことならば、来ない方がよかった……。
 そう思った――その時だった。
 おもむろに大河内先生の両の目が、那奈の姿だけを捉える。
 そしてその綺麗な漆黒の瞳が、スッと細められたのだった。
 那奈はそんな自分に向けられている彼の視線に気がつき、ふと表情を変える。
 それから先生に視線を返して、小さくコクリと頷いたのだった。
 そんな彼女の顔は、つい先程までのものとは明らかに印象が変わっていた。
 ――那奈には、分かったのだ。
 先生の漆黒の瞳が……自分に、「信じろ」と言っていることが。
 嘉人はまだ驚きを隠せない様子の菜緒を見つめた後、大河内先生に目を向ける。
 そして、こう言ったのだった。
「貴方と菜緒さんが婚約しているのは、重々承知しています。それでも、僕の伴侶は菜緒さんしかいないと、そう思っています」
 大河内先生はその言葉を聞き、小さくひとつ息をついた。
 それから、ゆっくりと口を開く。
「菜緒」
 自分を呼ぶその先生の声に、菜緒は顔を上げる。
 そしていつの間にか瞳に溜まった涙をそっと拭ってからおもむろに立ち上がり、嘉人に頭を下げたのだった。
「ごめんなさい、嘉人さん……私……」
「謝らないでください、菜緒さん。僕の方こそ、こんなことを今更言って……フラれることを覚悟の上で、今日ここに来ましたから」
 優しく菜緒を見つめながら、嘉人はそう言った。
 その言葉に、菜緒は大きく首を振る。
「違うの、嘉人さん。藍くんとの婚約なんて、嘘なんです……私、貴方が本当に私と結婚してくれるのか、不安で……だから貴方の気持ちを確かめたくて、藍くんに頼んで婚約者のフリをして貰ったんです」
「……えっ?」
 菜緒の口から真実を聞き、嘉人は驚きを隠せない表情を浮かべた。
 大河内先生はふっと微笑み、嘉人に言った。
「そういうわけなんですよ。菜緒と俺は、婚約なんてしてません。それに……」
 先生はそこまで言って、ふと視線を那奈に向ける。
 そして、続けた。
「それに俺には、ほかに大切に想っている、かけがえのない相手がいますから」
「大河内先生……」
 那奈はその言葉を聞いて、堪らずにポロポロと涙を零す。
 そんな那奈の様子を見た嘉人は、ハッと気がついたように呟いた。
「もしかして、大河内くんの本当の恋人って……」
「じゃあ、俺たちはこれで失礼します。那奈、行くぞ」
 ガタッと席を立つと、大河内先生は泣いてしまった那奈の頭を優しく撫でる。
 そしてスッと手を伸ばし、そっと彼女の涙を指で拭った。
「おまえは、本当に泣き虫なんだからよ……ごめんな、那奈」
 泣きやまない那奈の肩を抱き、先生は彼女を伴って歩き出した。
 そんなふたりを驚いたように見ていた菜緒は、急いで顔を上げる。
 それから、大きく頭を下げて言った。
「あのっ、藍くんに……それに那奈ちゃん、本当にごめんなさい。私のせいで……」
「バーカ。謝るんなら、俺や那奈にじゃなくて嘉人さんにもっと謝れよ。おまえみたいなワガママ女を嫁に貰ってくれるって言うんだ、有難く思えよな」
 振り返ってそう言い、大河内先生はニッと笑う。
「うん、そうだね。藍くん、ありがとう」
 菜緒はそんな先生の言葉に、嬉しそうに頷いた。
 嘉人も立ち上がり、ふたりに丁寧に頭を下げる。
「大河内くん、ありがとう。それに、那奈ちゃん……君のおかげだよ、ありがとう」
 嘉人の言葉に、那奈は涙を拭って微笑みを返した。
 それから先生とともに、レストランを出て行ったのだった。
 菜緒はそんなふたりを見送った後、改めて嘉人に目を向ける。
「こんな私でも、お嫁にもらってくれるんですか?」
 嘉人はそう言った彼女に、優しく微笑んだ。
「もちろんですよ、菜緒さん。僕の伴侶は、貴女以外考えられませんから」
 そして嘉人は、ポケットからあるものを出して菜緒に差し出す。
 それから、ゆっくりとこう続けたのだった。
「菜緒さん、僕と結婚してください」
 菜緒は、差し出されたもの――キラキラと輝く婚約指輪を手に取った。
 涙をいっぱい溜めた瞳を彼に向けてから、菜緒は大きく頷き、彼の言葉に答えたのだった。
「はい、嘉人さん」
 ――同じ頃。
「いい加減泣き止めよな、おまえは」
 レストランを出て駐車場までやってきた先生は、まだ涙の止まらない那奈にそう言いつつ、優しく視線を向ける。
「だって、先生……っ」
 ヒックヒックとまだ泣きながらも、那奈は先生の姿を漆黒の瞳に映した。
 大河内先生は、そんな那奈の頭を大きな手で再び撫でる。
 そして。
「ごめんな、那奈……もうおまえに、辛い思いはさせない。ずっと、そばにいるからよ」
 先生はありったけの想いを込め、ギュッと強く那奈の身体を抱きしめた。
 このぬくもりを感じるのは、いつ以来だろうか。
 こうやって、早く恋人のことを抱きしめてやりたかった。
 ほのかに鼻をくすぐるシャンプーの香りと、彼女の体温。
 大切な恋人である那奈が、今まさに自分の腕の中にいるのだ。
 そう実感しながら、大河内先生はさらに強く彼女の身体を抱きしめたのだった。
 那奈は先生の背中に腕を回し、彼の大きな胸に身体を預ける。
 自分を包み込む、先生のあたたかなぬくもり。
 身体全体でそれを感じ、那奈の涙腺が再び緩くなる。
 先生はそんな那奈の瞳から落ちた涙を拭った後、スッと彼女の顎を持ち上げた。
 ……そして。
 那奈の唇に、ふわりと優しいキスを落としたのだった。
「! んっ……せん、せ……っ」
 那奈はピクッと身体を震わせ、声を漏らす。
 先生の甘かったキスは、次第にその印象を変え始めて。
 那奈は自分の中に滑り込んでくる先生の舌使いに、身体の奥からカアッと熱くなるのを感じた。
 頭の中が真っ白になり、溶けるような気持ち良さがこみ上げてくる。
 大河内先生はそんな那奈を慈しむように、そして溢れ出した気持ちを抑えきれないように、濃厚なキスを重ねたのだった。
 ……それから、長い口づけが終わった後。
「ていうかよ、あの嘉人さんと知り合いだったのか?」
 密かに気になっていたことを、大河内先生は那奈に訊いた。
 那奈はまだキスの余韻で火照った頬にそっと手を当てた後、先生にちらりと目を向ける。
 そして悪戯っぽく笑い、言った。
「あの嘉人さんと? ふふ、それは秘密だよ」
「何だよ、それ」
 ムッとした表情をする先生に、那奈はにっこり微笑んで続ける。
「あの人はね、臆病ライオンみたいな人だったけど。でもちゃんと最後には、大切なものを手にすることができたの。それにオズのお話にね、金の糸が出てくるんだけど……嘉人さんは金の糸じゃなくて、幸せの赤い糸をちゃんと手繰り寄せることができたんだよ」
「ていうか、誤魔化すなよな。何であの人のこと知ってるんだって、そう聞いてるんだよ」
「だから、秘密だってば。ていうか先生って、本当にヤキモチ妬きなんだから」
 くすくす笑う那奈に、先生は首を捻ってますます気に食わない顔をした。
 だがすぐに、その端正な顔に笑みを宿す。
「あー何かホッとしたら腹減ったな。飯でも食いに行くか」
 ぽんっと那奈の頭に手を添え、先生はニッと笑ってそう言った。
 ――自分のすぐ隣で、楽しそうに那奈が笑っている。
 それだけで先生の心は、あたたかい気持ちで満たされるのだった。
 それはもちろん、彼女も同じで。
「うん、大河内先生」
 那奈は幸せそうにコクンと頷き、先生の腕に自分のものを絡めた。
 密着した腕を通して、お互いの体温がじわりと交じり合う。
 ……そして。
 ふたりはもう一度ゆっくりと瞳を閉じると、気持ちを確かめ合うかのように、そっと唇を重ね合わせたのだった。