SCENE10 ドロシーとお姫様

 ――次の日。
 秋らしい爽やかな快晴が広がり、まさに今日は絶好の体育祭日和である。
 午前中のプログラムも滞りなく終了し、今は昼休みの時間。
 大河内先生は職員室で那奈のお手製の弁当を食べ終わり、几帳面に弁当箱を洗ってカバンにしまった。
 それから、生徒たちの声で賑わう運動場へと足を向ける。
 ……その時だった。
 何かに気が付いた大河内先生は、職員席のあるテントには向かわず、急にくるりと方向転換する。
 そして、校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下にいた人物に声を掛けたのだった。
「今宮さん、手伝いましょうか?」
 分厚い眼鏡の奥の瞳を優しく細め、先生はその少女・那奈に微笑む。
 那奈は先生の声にパッと表情を変えると、嬉しそうに頷いた。
「はい。ありがとうございます、大河内先生」
 先生は那奈の抱えていたダンボールを受け取ると、彼女の隣に並ぶ。
「午後に行われる、仮装競争の準備ですか?」
「はい。今のうちに教室から運動場に運んでおいた方がいいんじゃないかって、クラスみんなで分担して荷物運んでいたところなんです」
 黒髪を揺らし、那奈は先生の問いにそう答えた。
 それから大河内先生は、ふと周囲を見回す。
 そして誰もいないのを確認すると、那奈の耳元でこう言ったのだった。
「今宮さんの手作り弁当、すごく美味しかったですよ。ありがとう」
 先生のその言葉を聞いて、那奈は幸せそうな笑顔を彼に返す。
「よかった、先生に喜んでもらえて」
 少し照れたように俯くそんな彼女の仕草が、とても可愛らしくて。
 大河内先生は、この場で恋人を抱きしめたいという衝動を必死で抑える。
 それに目の前の那奈の姿は、いつもの見慣れた制服ではない。
 普段は見ることのない体操服姿が、これまた新鮮である。
 ……そんなことを考えていた先生は、ハッと我に返った。
 そして、コホンとひとつ咳払いをする。
 恋人の体操服姿を見てそんなことを考えるなんて、まるでスケベなオヤジの発想だ。
 ただでさえ、かなり年の離れた恋人がいるというだけでロリコンだの犯罪だのと言われているというのに。
「大河内先生? どうしたんですか?」
 気まずそうに自分から視線を逸らした先生に、那奈は不思議そうに訊いた。
 先生は瞳をぱちくりさせた後、大きく首を振る。
「えっ? い、いえ……何でもありませんよ、今宮さん」
 少し慌てたようにそう答える大河内先生に、那奈は小さく首を傾げた。
 その時。
「あ、那奈ちゃん。探してたよ」
 ちらりと一瞬大河内先生に視線を向けた後、その場にやってきた悠は那奈に優しく微笑む。
「悠くん、どうしたの?」
「もう全部荷物運び終わったから、那奈ちゃんを手伝おうと思って」
 そう那奈に言った後、悠はあからさまな作り笑顔を大河内先生に向けた。
「大河内先生、あとは僕が運びますから」
「いいですよ、安西くん。これは僕が持っていきます」
 眼鏡の奥の瞳を細め、負けじと一見穏やかな声で大河内先生も言葉を返す。
 そんな先生の様子に、悠はすかさず左右に首を振った。
「いえ、これは僕たちのクラスの荷物ですから。先生はもう、結構ですよ」
「いいえ、僕のことは気にしないでください。僕が運びますから」
「先生にそんなことさせられません。さ、荷物を渡してください」
「安西くん、僕が運ぶと言っているでしょう? 大丈夫ですから」
 顔は笑っているが、ふたりの間には見えない火花がバチバチと散っていた。
 那奈は妙にムキになっているふたりの様子に、きょとんとしている。
「先生、僕が運びますからっ」
「いいえ、結構ですよっ」
「あ、あの……じゃあ悠くん、この荷物持ってくれないかな?」
 那奈はふたりの間に割り込んで、自分の持っていた小さな紙袋を指差す。
 悠はふうっと溜め息をついた後、那奈の差し出す紙袋を受け取った。
 那奈はどうしてふたりがそんなに荷物如きで必死になっているのか疑問に思いながらも、再び運動場に向かって歩き出す。
 そんな彼女に、男ふたりも続いた。
 悠は少し歩調を緩め、那奈と微妙に距離を取る。
 そして大河内先生にしか聞こえないような小声で、こう言ったのだった。
「大河内先生って、本当に大人気ないですよね。まったく、ムキになるなんて子供っぽいんですから」
 先生はムッとした表情を浮かべた後、無意識にかけていた眼鏡を外す。
 それをジャージのポケットに入れてから、印象の変わった瞳で悠を睨んだ。
「おまえな、人のこと言える立場か? ていうか絶対おまえ、いつか泣かしてやるからなっ」
 ちっと舌打ちする先生に、悠はふっと笑う。
 そして、これでもかというくらいの作り笑顔で言い返したのだった。
「できるものなら、やってみたらどうですか? 泣くのはきっと、先生の方ですよ」
「……本当におまえって、可愛くないガキだな」
「先生の方が、ずっと中身幼いですから」
 それだけ言うなり、悠はスタスタと早足で歩き出す。
 大河内先生は気に食わない顔をした後、再び眼鏡をかける。
 ――その時だった。
 渡り廊下を歩いていた3人は、ふと同時に顔を上げる。
 運動場にいた生徒たちが、突然一斉に騒ぎ出したのだった。
 大河内先生は何事かと、駆け足で運動場に戻る。
 そして、人が集まっているその場所に足を向けた。
 そんな先生の瞳に飛び込んできたのは。
「! 吉沢先生っ」
 その場に倒れていたのは、同僚である国語の吉沢先生だった。
 吉沢先生は、那奈たちのクラスの担任教師でもある。
「入場門が風に煽られて倒れてきて、吉沢先生が下敷きになったんです」
 事故の瞬間を見ていた生徒が、そう事情を説明した。
 それからすぐ保険医も駆けつけ、吉沢先生の怪我の状態を診る。
「すごく腫れてますね、念のために病院に行った方がいいでしょう」
「吉沢先生、大丈夫かな……」
 痛みに顔を歪め、大河内先生に肩を借りながら病院へと向かう吉沢先生の様子を心配そうに見ながら、那奈はそう呟く。
 悠も心配そうに、那奈の言葉に頷いた。
 その時。
「あっ、那奈! ねぇ、何があったの?」
 一歩遅れて駆けつけた知美は、車に乗せられている吉沢先生を見て那奈にそう訊く。
 那奈は一連の事故のことを、知美に話した。
 知美はそれを聞いて、うーんと首を傾げる。
 そして、こう言ったのだった。
「じゃあ、うちのクラスの仮装競争はどうなっちゃうの? 副担任の古典の小森先生が、代わりにするのかな?」
「あっ……」
 知美のその言葉に、那奈は大きく瞳を見開く。
 仮装競争はクラス対抗戦で、そのクラスの担任教師を仮装させることになっている。
 怪我をした吉沢先生は、こともあろうに那奈のクラスである2年Cクラスの担任なのだった。
 あの怪我の調子では、仮装競争には出られないだろう。
 悠は知美の言葉に、小さく首を振る。
「小森先生じゃ、代わりは無理だよ。体型が違いすぎるからね」
 担任の吉沢先生はスラッとした長身でスリムな体型であるが、副担任の小森先生は中年太りで背の低い先生である。
 どう考えても肥満気味の副担任に、スリムな担任に合わせて作った衣装が入るとは思えない。
「そうよねぇ。今からじゃ、衣装の寸法も直せないし」
 困った表情を浮かべ、知美は大きく嘆息する。
 悠もどうしたらいいものかと、色素の薄いブラウンの前髪をかき上げた。
「そうだな……こうなったら、吉沢先生と体型の似ている先生に代わりをやってもらうしかないよ」
「吉沢先生と、体型の似ている先生……」
 そう呟き、那奈はふと俯く。
 それから意を決したように顔を上げ、こう口を開いたのだった。
「私に任せて。いい考えがあるよ」


 ――それから、数十分後。
 昼休みに思わぬハプニングがあったものの、予定通り体育祭は進められた。
 怪我をした吉沢先生も、足首を捻挫した程度の怪我で済んだと病院から連絡が入ったことだし。
 生徒たちの競技を観戦しながら、大河内先生は暢気に職員席に座っていた。
 今運動場で行われているのは、障害物競走である。
 あと残す競技は、学園の名物競技である仮装競争と、トリを飾るクラス対抗リレーのみ。
 今後のプログラムを確認し、大河内先生はふっと一息つく。
 仮装競争は、それぞれのクラスの生徒が、そのクラスの担任教師を仮装させる競技である。
 だが競争と名は付いているものの、競うポイントは仮装のアイディアとクオリティーの高さ。
 毎年各クラス、この仮装競争には特に力を入れている。
 自分は担任を持っていないため、じっくりと職員席で名物競技を見学できると。
 大河内先生はまるで他人事のように、そう思っていたのだが……。
「あの、大河内先生」
 その時、ふと名前を呼ばれ、先生は振り返る。
 そこには、にっこりと自分に微笑みを向ける那奈がいた。
「どうしたんですか、今宮さん」
「先生、あの……ちょっと、一緒に来ていただけませんか?」
「ええ。構いませんけど、どうかしましたか?」
 眼鏡の奥の瞳をぱちくりさせ、大河内先生は席を立つ。
 それから首を傾げながらも、スタスタと歩き出した彼女の後に続いた。
 ――そして、先生が連れて来られたのは。
「……え? 入場門?」
「さ、大河内先生っ。先生はここに並んでてくださいね」
 那奈は強引に、大河内先生を入場門前の列に押し込む。
「えっ!? これって、どういう……」
 状況が全く分からない大河内先生の様子にも構わず、その場にあらかじめ並んでいた2年Cクラスの生徒たちは声を上げた。
「なるほどねーっ、アイちゃんなら体型ピッタリじゃんっ」
「大河内先生、うちのクラスは優勝目指してますから。くれぐれもよろしくお願いしますね」
「ていうか那奈、よく考えたねー。大河内先生が代わりなんて」
 途端に大勢の生徒たちに囲まれ、先生は瞳を大きく見開く。
 そして、驚いたように那奈に目を向けた。
 那奈はそんな先生の視線に気がつき、嬉しそうにこう言ったのだった。
「そういうことで大河内先生、怪我した吉沢先生の代わり、お願いしますね」
「……ええっ!? ぼ、僕がですかっ!?」
 ようやく事情が分かった先生は、思わず声を上げる。
 怪我した吉沢先生の代わりに、誰でもない自分が仮装させられるというのだ。
 思いもしない出来事に、大河内先生は唖然とする。
 だが生徒たちに囲まれてしまっているこの状況では、逃げようがない。
 担任が突然いなくなったCクラスの生徒たちが困っていることも、分かっているし。
 とはいえ、何の仮装をさせられるのか、かなり不安でもある。
 大河内先生は頭を抱え、どうしようかと思い悩む。
 その時だった。
「大河内先生、体育祭にはトラブルがつきものだ。ここはひとつ、生徒に協力してはどうですか?」
 淡々とした印象を受ける声が、大河内先生の耳に聞こえる。
 その言葉に、大河内先生は顔を上げた。
 大河内先生に声を掛けたのは、隣に並んでいる2年Bクラスの担任の鳴海先生だった。
 学生時代からの先輩でもあり、何気にちょっぴり苦手な鳴海先生にそう言われてしまっては、仕方がない。
 大河内先生は腹を決め、こくんと頷いた。
「分かりました……でも本当に、僕でいいんですか?」
「担任持ってなくて吉沢先生に体型の近い先生なんて、大河内先生しかいません。お願いします」
 那奈は改まって、ぺこりと先生に頭を下げる。
 そんな恋人の姿を見たら、ますます断れない。
 大河内先生は諦めたようにひとつ小さく溜め息をつくと、ふと隣の鳴海先生に訊いた。
「ところで鳴海先生。どのクラスが何の仮装をするのか、知りませんか?」
 ちらりと切れ長の瞳を大河内先生に向け、鳴海先生はその問いに答える。
「何の仮装をするのか、出来上がるまで各クラスとも秘密にしているらしいからな。私も自分が何の仮装をするのか、全く知らない」
「そ、そうですか……」
 一体自分がどんな格好にされるのか、ますます大河内先生は不安になる。
 そしてそんな大河内先生の不安をよそに、前の競技がいつの間にか終わった運動場に向かって、入場門の列が進みだしたのだった。


「だーっ、何だよっ!? ていうかこのカツラ、重っ!」
 ついに仮装競争が始まり、大河内先生は好き放題自分に衣装や小物を付けていく生徒たちに、思わず声を上げる。
 もうこうなったら仕方ないと、怪我をした吉沢先生の代わりを引き受けたのはいいが。
 賑やかに流れるBGMを後目に、大河内先生は大きく嘆息した。
 那奈はそんな先生の様子にくすくす笑いながら、彼に声をかける。
「大河内先生。さ、お化粧するから上向いて」
「化粧!? 一体俺を何にする気なんだよ、おまえらはっ」
「ほら、じっとして。綺麗に口紅が塗れないじゃない」
 仮装するために眼鏡を外している大河内先生は、ここが学校だということも忘れて、すっかりプライベートバージョンに変わっている。
「ねぇ何かアイちゃん、性格変わってない? もしかして、女装すると人が変わっちゃうタイプとか?」
 穏やかな学校バージョンの大河内先生しか知らないクラスメイトは、首を傾げてそう呟いた。
 先生の性格変化を知っている知美はその言葉を聞き、楽しそうに笑う。
「あはは、意外とそうだったりしてねっ」
「それにしても、アイちゃんって女装似合うねーっ」
 次第に出来上がってきている仮装を見つめ、別のクラスメイトはそう言った。
 知美はうんうんと頷きながらも、嬉しそうに大河内先生に化粧している那奈に目を向ける。
 そして、満足そうに微笑んだのだった。
 ――その、数分後。
 すべてのクラスの仮装が終了し、その全貌が明らかになったのだが。
 大河内先生は、運動場のど真ん中で大きく溜め息をつく。
「ていうか、自分がどういう風になったのか……自分の姿、見れねーじゃないかよっ」
 何だか幾重にも着物を重ねられて着せられ、顔に化粧をされ、カツラをつけられたのは分かる。
 だが一体自分が何になったのか、詳細はまだ不明である。
 そんな大河内先生に、隣で仮装させられたBクラスの鳴海先生は声をかけた。
「なかなか似合っていますよ、大河内先生」
「似合ってるって、一体俺、何の仮装させられてるん……!」
 声を掛けてきた鳴海先生に、ふと視線を向けた大河内先生だったが。
 大河内先生は鳴海先生を見た瞬間、思わず言葉を失う。
 そして、途端に漆黒の瞳をキラキラと輝かせたのだった。
「何だ? 私の仮装がどうかしましたか?」
 突然ガラリと表情を変えた大河内先生に、鳴海先生は眉を顰める。
 その言葉に、大河内先生は大きく首を振って言ったのだった。
「な、鳴海先生っ! 後でその格好のまま、俺と写真撮ってくださいっ!!」
 大河内先生が興奮しだした、その理由は。
 鳴海先生の仮装が、大河内先生が大好きな新撰組の格好だったのである。
 しかも端正でキリッとした顔立ちをしている鳴海先生には、その仮装がとてもよく似合っていた。
 鳴海先生は興奮気味の大河内先生の様子に、ふっとひとつ嘆息する。
 そして、相変わらず冷静に口を開いたのだった。
「それは構わないが……君はその、和装の姫君の格好のままでいいのか?」
「え? わ、和装の姫君!?」
 この時始めて大河内先生は、自分が何に仮装させられたのか分かったのである。
 そして、那奈が体育祭前に言っていた言葉を思い出したのだった。
『あーあ、大河内先生何で担任じゃないの? 先生のこと、女装させてみたいのにな』
「何だよ……よりによって俺の仮装、女装かよっ」
「なかなか綺麗ですよ、大河内先生」
 苦笑する大河内先生に、鳴海先生はフォローのようで全くフォローになっていない言葉をかける。
 そしてその後、お姫様姿のままで運動場をぐるりと一周させられ、大河内先生は全校生徒にその女装姿を披露する羽目になったのだった。


 ――それから、数分後。
「あー、くそっ! おまえら、パシャパシャ勝手に写真撮りやがってっ。俺は見世物じゃねーってのっ」
 仮装競争が終わり、ようやく生徒たちの撮影会から開放された後、大河内先生は逃げるように社会科準備室に来ていた。
 こっそり一緒についてきた那奈は、そんな先生の様子に楽し気に笑う。
「だって、先生の女装すっごく綺麗だったんだもん。大人気だったじゃない」
 大河内先生はそれに対して、何故か自信満々な様子で言った。
「この俺が綺麗なのは、当然だろーが。ていうか、女装なんて聞いてなかったぞ!?」
「自分で綺麗だなんて、本当によく言うわね、先生ってば。ていうか、仮装の内容を先に言うわけないじゃない。出来上がってのお楽しみなんだから。でも惜しかったね、優勝は隣のBクラスで、うちのクラスは準優勝だったね」
 その那奈の言葉に、大河内先生は途端に瞳を輝かせる。
 そして、満足そうにこう言ったのだった。
「そりゃそうだろ。鳴海先生、新撰組の衣装めちゃめちゃ似合ってたからな。あー、いいもん見れたぜっ。俺も一緒に、何枚か写真撮ってもらったしなっ」
「本当に好きなことになると、見境ないんだから。一番大河内先生が、鳴海先生の写真撮ってたんじゃない? でもそう言う先生のお姫様も、すごく似合ってるよ」
 那奈はその顔に笑顔を宿し、恋人の女装姿に漆黒の瞳を細める。
 ――その時だった。
「きゃ……っ!」
 那奈は思わず、声を上げた。
 開け放たれた窓から、強い秋風が吹きこんできたのだった。
 那奈の漆黒の髪が、その風に煽られて乱れる。
 大河内先生はふっとひとつ小さく息をつき、彼女の髪を優しく撫でた。
 そして。
「那奈」
 短く、先生は恋人の名前を呼ぶ。
 那奈はそんな彼の顔を、じっと見つめた。
 外では、まさに体育祭の一番の山場であるクラス対抗リレーが行われている。
 だが、今社会科準備室にいるのは……那奈と大河内先生の、ふたりだけなのだ。
 大河内先生はおもむろに、漆黒の瞳を伏せる。
 そして那奈の顎を軽く上げると、ゆっくり彼女の唇に自分のものを重ねたのだった。
 那奈は触れる程度の柔らかなキスの感触に、顔を赤らめる。
 それから再び、くすくすと笑い出したのだった。
「ふふ、お姫様とキスしちゃった」
「え? あっ! そういえば、まだ着替えてなかったんだった……」
 那奈のその言葉で、大河内先生は自分が今だ着物を着た姫君の格好だったことを思い出す。
 ガクリと肩を落とした後、大河内先生は思わずぽつりと呟いた。
「これじゃあ、何か俺、変態みたいじゃねーかよ……」
 はあっと深く息をつく先生の様子を、那奈は相変わらず楽しそうに見つめる。
 そして。
「大河内先生……どんな格好でも、先生のこと大好きだよ」
 那奈はそう言って、目の前のお姫様姿の先生にギュッと抱きついたのだった。
 大河内先生はそんな彼女の身体を受け止め、ふっとその顔に笑みを宿す。
 それから那奈の耳元で、こう囁くように言葉を返したのだった。
「俺もおまえのこと、愛してるよ。ずっと、一緒にいような」
 その瞬間、再び窓から入ってきた爽やかな秋風が、ふたりの頬をサラリと撫でる。
 そして盛り上がっている体育祭の声援を聞きながら、ふたりはもう一度、そっと口づけを交わしたのだった。

 これから先も、もしかしたら誤解やすれ違いが多少あるかもしれないけれど。
 改めてこの時、お互いが強く感じたのだった。
 恋人の体温を感じあえるこの瞬間が――何よりも幸せで、大切な時間だということを。


Autumn Season -FIN-