SCENE7 グリンダの魔法の本

 ――数時間後。
 大河内先生は洗面所で顔を洗い、ふっと溜め息をつく。
 そしてタオルで顔を拭った後、鏡に映る自分の顔に目を向けた。
「ったく……何て顔してんだよ、俺っ」
 先生はそう吐き捨てるように呟き、洗面台にガンと拳を叩きつける。
 そんな先生の心に渦巻くのは。
 那奈に会えない寂しさ、焦り、苛立ち。
 事情を分かって貰えれば、すぐに彼女との仲も元に戻ると思っていたのに。
 自分のそばに彼女がいないことが……こんなに、辛いなんて。
 我ながら女々しいと自嘲しつつ、先生はもう一度バシャバシャと顔を洗う。
 それから蛇口から落ちる水を止めることもせず、再び深く嘆息した。
 先生の耳には、勢いよく流れる水音だけが聞こえる。
 大河内先生はしばらくただじっと、洗面台の前に立ち尽くすことしかできなかった。
 ……それから、数分後。
 ようやく先生は、キュッと水を止めた。
 そして洗面所から、リビングへと移動する。
 ――その時だった。
「?」
 先生はふと顔を上げると、耳を澄ます。
 小さな音ではあったが、カチャリという金属音が聞こえた気がしたからである。
 小首を傾げ、先生はリビングから玄関へと足を向ける。
 そして……次の瞬間。
 勢いよく、いきなり家のドアが開いたのだった。
 先生の家にやって来た、その人物は。
「はろー、アイちゃんっ。元気?」
「あのな……おまえ、住居侵入罪犯すなっていつも言ってるだろーがっ」
 能天気に家に上がりこんできたのは、姉である森崎香夜であった。
 先生はわざとらしく大きく嘆息し、漆黒の髪をかき上げる。
 それから、じろっと香夜に目を向けて言った。
「今日の俺は、おまえに付き合う心の余裕は皆無だ。分かったら、さっさと帰れっ」
「えー、なになに? ドロシーちゃんと喧嘩でもしたの? そっかそっか、じゃあお姉ちゃんが、ゆっくり話聞いてあげるからっ」
「おまえ、日本語ちゃんと理解しろっ。ていうか、早っ! 堂々と人んちのソファーでくつろいでんじゃねーぞ、コラ」
 自分の言葉を全く気にする様子もなくソファーに座った香夜に、先生は溜め息をつく。
 そんな先生の様子を見て、香夜はふっと笑った。
「それで、何があったのかなー? あ、今度こそ那奈ちゃんのこと無理に襲おうとして、拒否られたとか?」
 先生は諦めて姉の目の前に座ると、大きく首を振る。
「あ? そんなんじゃねーよっ。それに俺はな、那奈が俺の生徒の間は教師の責任として、あいつに手ぇ出さないって決めてんだよ」
「へえ、そうなんだぁ。アイちゃんって、本当に根は真面目な良い子ちゃんだからねぇっ。ま、そういうところがまたカワイイんだけどっ」
 キャハハっと笑い、香夜は綺麗な足を組んだ。
「キャハハじゃねーよ、ったく」
 そう言ってから、先生はおもむろにふっと俯く。
 それから、真剣な表情で続けた。
「俺は那奈のこと、大切にしてやりたいんだ。そしてずっと、あいつのそばにいてやりたい。なのに……」
 先生はグッと拳を握り締め、額に当ててうな垂れる。
 そんな弟に漆黒の瞳を向けてから、香夜は優しい微笑みを綺麗な顔に浮かべた。
 そして、諭すように言った。
「何があったか知らないけど、そう思ってるんならそうすればいいんじゃないの? ヒドイ顔して俯いてたって、何にもなんないし。アイちゃん、そうじゃない?」
「そんなことは分かってるんだよ、俺だってそうしてやりたい……でも那奈が、まだ俺と話ができる状態じゃないみたいなんだ」
 そう言ってから先生は、一通り今までの経緯を姉に話した。
 香夜は興味深々ではあるが、楽しみながらも真剣に弟の話を聞いている。
 そして口では、姉に悪態をついている先生だったが。
 正直今の気持ちのままで、広い家にひとりなのは辛かった。
 そして、誰かに話を聞いてもらいたいとういう気持ちもどこかにあった。
 だから姉が来てくれて、少しだけ気持ちも軽くなった感じがしたのだった。
 香夜は話を聞き終わり、うーんと考える仕草をする。
 そんな姉の反応を見つつ、先生はぐしゃっと前髪をかき上げて言った。
「普通なら、事情を聞いて誤解が解けて心が晴れてるはずだろ? なのにあいつは、まだ何か思いつめてる感じだった。何があいつの心に、そんなに引っかかってるのか……」
「まったく、アイちゃんってば。全然分かってないんだから」
 はあっとわざとらしく大きく息を吐き、香夜は足を組みかえる。
 それから弟に視線を向け、続けた。
「もし、よ。那奈ちゃんと悠くんが仲良くしてる姿見たら、いくら那奈ちゃんが悠くんのことをただの幼馴染みって思ってたって、いい気持ちしないでしょ? まして、前の恋人だなんて……誤解とか言われても、はいそうですかって簡単に整理できるわけないじゃない」
「あ? 何でそこで安西が出てくるんだよ。それに根本的に、その場合とは違うだろ? 那奈は安西のことどうも思ってないにしても、安西は那奈のこと虎視眈々と狙ってんだ。でも俺と菜緒は、昔は付き合ってたけど今は完璧にただの友達だからな」
 先生のその言葉に、香夜は大きく首を振る。
「分かってないわねぇ。那奈ちゃんと悠くんの関係よりも、アイちゃんと菜緒ちゃんの関係の方がむしろタチ悪いわよ。那奈ちゃんとは、さっきもアイちゃん言ってたけどまだ健全なお付き合いでさ。でもぶっちゃけ、菜緒ちゃんとは違うんでしょ? いくら今は友達って言われても、すぐにすんなり納得できないってば。まだ那奈ちゃん若いから、尚更整理つかないわよ。それにもし、菜緒ちゃんとふたりのところとか見られたりでもしたら、最悪よ?」
「菜緒とはレストランの一件以来、今日ちょっと会ったくらいでほとんど会ってないからな。だから、それは見られてないと思うんだけどよ……」
 まさかバッチリ菜緒と腕を組んでいた様を那奈に見られていて、姉の言う最悪な状況になっているとは、先生は知る由もない。
 それから先生は、ふっと何度目かならない溜め息をつく。
 そして俯き、ぼそりと呟いたのだった。
「ったく……これから俺たち、どうなるんだよ……」
 その言葉を聞き、香夜はピクッと反応する。
 それからスッと立ち上がり、にっこりと美人な顔に作った笑顔を浮かべた。
 そして。
「……っ!?」
 大河内先生は姉の取った次の行動に、目を見開く。
 香夜の細い指が、強引に先生の顎をぐいっと待ち上げたのだった。
 香夜は先生の顎に手を添えたまま、声の印象を変えて口を開く。
「ていうか、アイちゃん。何でアンタそんなに下ばっかり向いてんの? それにね、これからどうなるんだろうかじゃなくて、男なら自分でどうにかしろっ」
 香夜の気迫に押されつつも、先生は姉の手を振り払った。
 そしてもう一度嘆息し、香夜から視線を逸らす。
「あのな、そう簡単に言うけどな……って、いてっ!」
 ブツブツ言う先生に喝を入れるかのように、香夜は弟の頭をバシッと力一杯平手で叩いた。
 それから、ビシッと言ったのだった。
「あーもう、ウダウダ言ってんじゃないのっ。那奈ちゃんのそばにいてあげたいんでしょ? なら、強引にでも自分の元に引き寄せればいいじゃない。何を悩むことがあるの? 黙って俺について来いってイキオイで、当たって砕けろよっ」
「砕けてどうする、砕けて」
 姉の言葉にツッこみつつも、先生はようやく小さく微笑む。
 それから姉と同じ色をした漆黒の瞳を細め、ニッと笑って言った。
「うるせーな、おまえに言われなくたってそうするっての」
 香夜はそんな先生の表情を見て、ふっと笑みを宿す。
 それからソファーに座り、悪戯っぽく言った。
「よく言うわねぇ。ついさっきまで、どうしようーって泣きそうな顔してたのはどこの誰かしら?」
「あ? 大体な、住居侵入罪犯しといて堂々としてんじゃねーよ。偉そうに言うな」
「何よ、せっかくお姉様がカワイイ弟の悩みを聞いてあげたってのに。あ、強引にガバッと押し倒すのも、刺激的で結構いい手かもよ?」
「押し倒すってな、おまえ人の話聞いてたか? あー、おまえなんかに相談したのが、そもそも間違いだったぜ」
 そう言って先生は、わざとらしく溜め息をつく。
 だが……そんな言葉とは、裏腹に。
 大河内先生は、話を聞いてくれて背中を押してくれた姉に、感謝していた。
 そんなこと照れくさくて、絶対に口には出せないけれど。
 ひとりでいたら、きっと悶々と悩んでいたに違いなかったから。
「ていうかよ、おまえってどうしていつも、那奈と気まずくなった時にタイミング良く現れるんだ? まさか合鍵作ってるだけじゃなくて、何かこの部屋に仕掛けてるのかよ?」
 ふと疑問に思った先生は、冗談っぽくそう訊いた。
 香夜はそんな先生の言葉に、ふふっと微笑む。
 そして、こう答えたのだった。
「まぁねっ。世界のあらゆる出来事が分かるっていう魔法の本で、いつも面白いコトないかなーって見張ってるからねーっ」
「は? 何だよそれ」
 首を傾げる大河内先生に、香夜は悪戯っぽく笑って答える。
「魔法の本はね、那奈ちゃんの大好きな『オズの魔法使い』で南の国のいい魔女・グリンダが持ってる、魔法のアイテムよ。ていうか、ライバルの悠くんは那奈ちゃんの好きなものも、ちゃんと抜かりなくチェックしてるってのに……アイちゃん、ダメダメじゃなーいっ」
「ダメダメって言うなっ。くそっ、安西のヤツにもな、戦国武将のことなら負けねーってんだよっ」
「ていうか、戦国武将は思いっきりアイちゃんの趣味でしょ」
 妙に悔しそうな先生に香夜は抜け目なくツッこんでから、そして満足そうに笑った。
 つい先程までの弟は表情も硬く、悩んで俯いてばかりいた。
 だが今は、少し自分と話をして、気分も軽くなったようである。
 何だかんだ言っても、やはり弟が可愛いのは事実で。
 弟が恋人の那奈と早く仲直りできるようにと密かに思いながらも、香夜は美人な顔に綺麗な微笑みを浮かべたのだった。


 ――それから、しばらくして。
 香夜が帰った後、再び部屋に静寂が訪れる。
 だがそんな部屋にいる先生の表情は、先程の静けさに堪えられなかった時のものとは全く変わっていた。
 近いうちに、那奈とちゃんと向き合って話をしよう。
 自分もよく考えれば被害者なのであるが、那奈に辛い思いをさせたのは事実で。
 そんな彼女を、ありったけの気持ちを込めて抱きしめてやりたい。
 またふたりで手を取り合って、一緒に歩いていきたい。
 そのためには自分が動き出さないと、何も終わらないし、始まらない。
 先生はそう、改めて思ったのだった。
 そして……その時。
 リビングの静けさを破るかのように、先生の携帯電話がけたたましく鳴り出す。
 大河内先生は着信者を確認し、そして電話を取った。
「もしもし?」
『あ、藍くん。私だけど……』
 電話をかけてきたのは、菜緒だった。
 その彼女の声は相変わらず可愛らしい印象のものだが、少し動揺しているように感じた。
 菜緒は一息ついた後、言いにくそうにゆっくりと口を開く。
『あのね、藍くん……さっき嘉人さんから、電話があったんだけど。彼が明日の夜、私と藍くんに話したいことがあるって言うの……どうする?』
 菜緒のその言葉に、先生は考えるような仕草をしてふっと漆黒の瞳を細める。
 そして、こう答えた。
「明日の夜か? ああ、構わないぜ、一緒に行ってやるよ。何時にどこだ?」
 先生は嘉人の指定してきた時間と場所をメモし、菜緒との電話を切る。
 それから漆黒の前髪をかき上げ、何かを決意したように大きく頷いたのだった。