SCENE6 ドロシーと臆病ライオン

 ――場所は、繁華街のお洒落な喫茶店。
 那奈は紅茶に砂糖を入れてかき混ぜながら、ちらりと目の前の青年を見る。
 その青年は、伊藤嘉人と名乗った。
 貰った名刺の肩書きを見ると、彼は都内でも有数の大病院の医者で。
 そして何よりも、見るからにお金持ちのお坊ちゃまだという雰囲気を醸し出していた。
 顔もなかなかのハンサムで、優しそうでもある。
 車も高そうなベンツだし、着ているものも高級なものだということが分かる。
 そんな、世間から見れば文句なしで好条件な青年であるのだが。
 しかし那奈は、そんな目の前の彼にかなりイライラしていた。
「それで、大河内くんなんだけど……学校では、どんな先生なのかな?」
「どんなって、どういう意味でですか?」
「え? いや、彼は男前だし、生徒に人気があるんじゃないかなって」
「そんなことを訊いて、どうするんですか?」
 那奈はふっと嘆息し、漆黒の瞳を嘉人に向ける。
 そんな彼女の問いに何も言えず、嘉人は言葉を切った。
 レストランでの一件と知美から聞いた事情を考えると、この嘉人があの菜緒という女性の彼氏なのだろう。
 だが彼が那奈に訊いてくることは、先生の人柄や周囲の評価など、そんなことばかりで。
 菜緒の婚約者であるという大河内先生のことが、すごく気になる気持ちは分かるのだが。
 それ以上に菜緒が彼のことをじれったく思う気持ちが、那奈は嘉人と話していて分かったのだった。
「何だか無理に誘ったみたいで、ごめんね」
 嘉人は俯き、そう那奈に詫びを入れる。
 ……いや、そうじゃなくて。
 そう言いたいのをグッと抑え、那奈は紅茶を一口飲んだ。
 那奈はハッキリしない嘉人のそんな態度に、さらに苛立つ。
 おっとりとしていて育ちがいいのは、すごく分かる。
 だが、いかにも温室育ちのお坊ちゃまな彼の言動が、那奈の癇に障っているのであった。
 普段の那奈ならば、彼の様子にこんなに苛立ちを感じないだろう。
 しかし今の那奈は、気持ちが大きく乱れていた。
 いくら、婚約者のフリだと言っても。
 自分の恋人である大河内先生が、前の彼女である菜緒とふたりでマンションに入って行ったのを目の前で見た後である。
 ショックだったのは、嘉人も同じであるだろうが。
 那奈はもう一度嘆息し、カチャリとティーカップをソーサーに置いた。
 嘉人はそんな那奈を見てから、ようやく重い口を開く。
「実は、坂井菜緒さんと僕は付き合っていたんだけど……レストランに呼び出されたあの日、菜緒さんに自分の婚約者だと、突然大河内くんのことを紹介されて……僕も驚いているんだ」
 実は先生が偽の婚約者であることも、那奈がそのことを知っていることも知らない嘉人は、ゆっくりとそう話し始める。
 那奈はまだ何も言わず、そんな彼の話を黙って聞いていた。
 はあっと大きく溜め息をつき、嘉人は続ける。
「大河内くんのことをいろいろと調べたんだけど、彼はあの大河内建設の御曹司だし、容姿も家柄も申し分ない。大病院の一人娘である菜緒さんとは、すごくお似合いで……その上に菜緒さんとは、学生時代からの付き合いらしくて。正直、どうしていいか分からないんだ」
 そう言う嘉人も、将来有望な医者な上に顔もいい。
 この人は、そんな自分のことが分かっていないのだろうか。
 それとも単に気が弱く、自分に自信がないタイプなのだろうか。
 だが、見るからに婚約者を奪い返してやると思うような、そんな性格ではないのは確かである。
 那奈はそんなことを思いつつも、漆黒の瞳を彼に向けた。
「嘉人さんは、菜緒さんのことが本当に好きなんですか?」
「え?」
 那奈の思いがけない質問に、嘉人は少し驚いたような顔をする。
 それから頷き、彼女の問いに答えた。
「もちろんだよ。僕は菜緒さんと、結婚を前提に付き合っているつもりだったからね」
「じゃあどうして、大河内先生から菜緒さんを取り返そうって思わないんですか?」
「……菜緒さんが、彼を婚約者だと僕に紹介したんだ。なのに、そんなこと」
 嘉人は大きく首を振り、ふっと深い溜め息をついた。
 那奈はその言葉を聞き、眉を顰める。
 別に婚約者が現れたから、好きでも彼女のことを諦めると言うんだろうか。
 いや、先生の素性を詳しく調べるくらいなのだから、菜緒のことは本気で好きなようであるが。
 でも、それなら尚更……。
 那奈は真っ直ぐに嘉人に視線を投げると、堪らずに口を開いた。
「本当に好きなら、何が何でも取り返したいって思うもんじゃないですか!? ていうか先生のことを調べる前に、もっとほかにすることがあるんじゃないの!?」
 那奈は思わず、そう声を荒げる。
「な、那奈ちゃん……!?」
 急に怒り出した那奈の様子に、嘉人はびっくりしたように彼女を見た。
 気持ちが抑えられなくなった那奈は、さらに言葉を続ける。
「大体貴方がそうだから、私までこんな気持ちになってるのよっ。貴方がちゃんと菜緒さんのこと、掴まえてないから……お金使って先生の身辺調査するよりも、まず菜緒さんに言うことがあるってこと、何で分かんないの!? これだから、金持ちのボンボンは嫌いなのよっ」
 そう啖呵を切り、那奈は椅子から立ち上がる。
 そして財布から千円札を取り出してテーブルに叩きつけると、バッグを手にした。
「私の言いたいことはこれで全部です、失礼します。もう、貴方にお話することはありません」
 ぺこりと一礼をして、そして那奈はスタスタと喫茶店を出て行く。
 嘉人は那奈の気迫に押され、しばらく唖然としていた。
 だがすぐに我に返り、慌てて彼女を追う。
「ちょっと待って、那奈ちゃんっ」
 店を出て何とかようやく那奈に追いついた嘉人は、彼女に声をかけた。
 だが那奈は振り返りもせず、早足で歩を進める。
 嘉人はめげずに那奈の隣に並び、そしてこう言ったのだった。
「那奈ちゃん、君、何か知っているのかい!? 何か知っているのなら、教えてくれないかな。それに、どうして君が大河内くんのマンションに?」
「…………」
 那奈はそんな嘉人の言葉に、口を噤む。
 今自分が本当の先生の恋人で、彼と菜緒との婚約は嘘だと言ってしまっては、今までのことが全部無に帰す。
 そう思った那奈は、嘉人の問いに何も言えないでいた。
 嘉人は何も話そうとしない那奈の様子に、小さく嘆息する。
 それから優しい声で、こう言った。
「とにかく、家まで送るよ。それに、紅茶代は貰えないから。今日はごめんね、ありがとう」
 叩きつけた千円札を返されて、那奈は複雑な表情をする。
 そして、先程自分の言ったことを少し後悔したのだった。
 あんなことを年下から言われたら、普通は怒るだろう。
 なのに嘉人は怒るどころか、謝ってまでいる。
 本当にいい人なのだなと思いつつ、那奈は足を止めた。
 そして、申し訳なさそうに口を開いた。
「あの……私こそ、ごめんなさい。カッとなっちゃって、あんなこと……」
 嘉人はハンサムな顔に小さく上品な微笑みを浮かべ、首を振る。
「いいんだよ。ああ言われても、全部本当のことだから……」
「でも菜緒さんには、自分の気持ちは言った方がいいと思います。好きなんでしょう?」
 ちらりと漆黒の瞳を向ける那奈を見て、嘉人は頷いた。
 そして、言ったのだった。
「そうだね。菜緒さんに、自分の気持ちを素直に話してみるよ」
 那奈は、そんな嘉人の言葉に初めて笑顔をみせる。
 それから、彼と並んで歩き出したのだった。
 そんな那奈の様子を見て、嘉人は穏やかな笑みをその顔に宿す。
 その後、思い出すように那奈に訊いたのだった。
「あ、それで、那奈ちゃんはどうして大河内くんの家に?」
「えっ? いや、その、それは……たまたま、通りかかって」
 苦し紛れにそう言って、那奈は咄嗟にそう誤魔化す。
 嘉人は少し首を傾げたが、それ以上は特に追求してこなかった。
 そのことにホッとしつつも、那奈は漆黒の瞳を改めて嘉人に向ける。
 そして、思ったのだった。
 目の前の嘉人は、まるで『オズの魔法使い』に出てくる臆病ライオンみたいだなと。
 臆病ライオンは、自分のことを臆病だと思い込んでいた。
 そしてオズの魔法使いに頼んで『勇気』を貰おうと、魔法使いの住むエメラルドの都にドロシーとともに赴いたのだが。
 でも本当は、自分にも勇敢な心があることに気がついたのだった。
 那奈は嘉人と話をして、少しだけ気持ちが晴れた気がした。
 彼は菜緒に、自分の気持ちを話すと言っていたし。
 これで、大河内先生が彼女の婚約者を演じなくてもよくなるだろうと。
 だが……。
 やはり、まだ大河内先生と菜緒が腕を組んでいる姿が忘れられないのも、事実で。
 もう少しだけ、先生と向き合って話をするまでに時間が欲しいと。
 そう思ったのだった。
 そして自分の乱れた気持ちをどうにかしないといけないと思いながらも、那奈は小さく溜め息をついたのだった。


 ――同じ頃。
 菜緒を早々に帰した後、大河内先生は家のリビングで落ち着かない様子だった。
 知美に事情を聞いた那奈から、何か連絡があってもいい頃じゃないか、と。
 那奈に菜緒と腕を組んでマンションに入って行った姿を見られたとは思ってもいない先生は、携帯電話を開けたり閉めたりする。
 自分から那奈に電話しようかとも思った先生だったが、もしかしたら彼女の気持ちの整理がまだついていないかもしれない。
 そう思うと、自分からは連絡できないのであった。
 それよりも、ちゃんと知美は事情を彼女に伝えてくれたのだろうか。
 知美は今日中に学校で、那奈に事実を話すと約束してくれた。
 だが、まだその那奈からは何も言ってこない。
 大河内先生はいてもたってもいられず、携帯電話を開く。
 そして那奈ではなく、知美に電話をかけたのだった。
『もしもし?』
 数コールも待たないうちに、知美は電話口に出る。
「あ、竹内。あのよ、昼間のことなんだけど……那奈に、ちゃんと言ってくれたか?」
 先生のその言葉を聞いて、知美は少し驚いたような声で言った。
『あれ? 那奈、アイちゃんのところに行くって言って、学校終わってソッコー帰ったんだけど。まだ来てないの?』
「え!? 本当かよ、それ」
『うん。ちゃんと言われた通りに話したら、アイちゃんと話してみるって。でも、もうこんな時間だし……何やってるんだろ、那奈』
 少し心配そうに、知美はそう呟く。
 大河内先生は言葉を失い、漆黒の前髪をかき上げた。
 そして、時計に目を向ける。
 もう学校が終わって、かなりの時間が経っている。
 外はすでに日も落ち、薄暗いし。
 もしかして、自分のところに来る途中に何かあったんじゃないだろうか。
 そう思った、その時だった。
 知美も同じことを思ったのか、こう口を開く。
『アイちゃん、私、今から那奈に電話してみようか?』
 知美の提案に、先生はハッと我に返った。
 そして、大きく首を振る。
「いや……俺から電話してみるよ。確かにあいつ、俺の家に行くって言ってたんだな?」
『うん、アイちゃんのところに行くって言ってたよ。那奈も事情話したら少し落ち着いたみたいだから、アイちゃんから電話した方がいいかもね』
 知美も先生の言葉に、そう賛成する。
 先生はそんな彼女に礼を言ってから携帯を切ると、今度は那奈に電話をかけた。
 先生の耳に、何度も呼び出し音が響く。
 そのコールを祈るように聞きながら、先生はグッと携帯を握る手に力を込めた。
 そして、一旦電話を切ろうかと思った……その時。
『……もしもし』
 那奈が、電話に出た。
 先生は彼女の声を聞いてホッとしつつ、口を開く。
「那奈……ていうかおまえ、どこにいるんだ? 竹内からおまえがうちに向かってるって聞いたんだけど、全然来ないからよ……心配したんだぞ」
『…………』
 そう言う先生の声に、那奈は何も言わずに黙ってしまう。
 大河内先生はふっと嘆息すると、それからはっきりと言った。
「那奈、会って話がしたい。今から、俺の家に来い」
 那奈はそんな先生の言葉に、返事できないでいた。
 そして長い沈黙の後、那奈は先生の言葉にようやく答える。
『先生……ごめん、今日はいけないよ』
「何でだよ、誤解だってことは分かってくれたんだろう? 直接会って、話がしたいんだ」
『事情は、知美に聞いたよ。でもまだ、先生と会って話する気分じゃないの。ごめんね』
 それだけ言って、那奈は一方的に電話を切った。
 大河内先生はツーツーという通話が途切れた音をしばらく聞いたまま、漆黒の瞳を伏せる。
 誤解だと分かってくれたのなら、どうして那奈は自分と会って話をしてくれないのだろうか。
 むしろ気持ちが晴れているはずなのに、電話の彼女の声はまだ何かを思い悩んでいるようであった。
「何でだよ、那奈……」
 そう呟いて大きく溜め息をつき、先生はようやく携帯電話の通話終了ボタンを押す。
 それからソファーに身体を預け、手で瞳を覆った。
 もちろん、自分で直接事情を説明して早く誤解を解きたい先生だったが。
 それよりも、何よりも。
 ――那奈と、早く会いたい。
 先生の心の中に一番強くあるのは、その気持ちだった。
 那奈と会って、そして彼女のことを抱きしめてやりたいのに……。
 先生はシンと静まりかえっているリビングで、ギュッと唇を噛み締める。
 そして苛立つように、ぐしゃっと漆黒の前髪を乱暴にかき上げたのだった。