SCENE5 カラミヅタの庭
――次の日の昼休み。
昼食を取り終わった大河内先生は、次の授業の準備のために職員室から社会科準備室へと向かっていた。
そんな先生の表情は、冴えない。
眼鏡の奥の漆黒の瞳を伏せ、先生は大きく溜め息をついた。
この日の4時間目は、那奈の2年Cクラスの授業だった。
先生は授業終了後、那奈と話をしようと彼女に声をかけようとしたのだが。
那奈は険しい表情を浮かべたまま、先生を避ける様に教室を出て行ってしまったのだった。
そんな彼女を追いかけようとした大河内先生だったが、すかさず悠に邪魔をされてしまい、結局彼女とは話ができなかったのである。
大河内先生はもう一度嘆息した後、漆黒の前髪をかき上げた。
話さえできれば、菜緒とのことが誤解だと分かってもらえるのに。
だがそれ以前に、話を聞いてもらえない現状。
強引に那奈を掴まえて話をしようかとも思った先生だったが、場所が学校なだけにそれはできないし。
それより何よりも、まだ自分と向き合う心の余裕がなさそうな那奈に、無理矢理話をするのもどうかと大河内先生は思ったのである。
とはいえ、事情だけでも早く那奈に分かってもらいたい。
今回の菜緒の件は、言ってみれば自分も被害者なのである。
急に理由も分からず呼び出され、事情も聞いていないのに偽の婚約者にされて。
しかもよりによって、偶然その場に那奈と悠もいたなんて、運が悪いにもほどがある。
那奈ももちろんだが、菜緒の本来の婚約者であるあの嘉人という青年も、考えれば気の毒である。
聞けば将来有望な医者らしいし、レストランで見かけた彼はハンサムな好青年だった。
菜緒の話の通り少し気が弱そうな印象は受けたが、あのワガママな菜緒に黙って半年も付き合っていたなんて、ある意味その優しさは尊敬に値する。
なのに、いきなり別の婚約者が現れて、別れましょうだなんて言われて、気の毒すぎる。
「菜緒さんらしいといえば、それまでなんですけどね……」
短い間であったが、自分も菜緒と付き合っていた時、散々彼女に振り回されていた。
ワガママな彼女とは、何度喧嘩したかも分からない。
その時のことを思い出し、先生は嘉人に心から同情した。
だが菜緒とは今は仲の良い友人であるし、不思議と彼女のことは昔から憎めないのである。
少しやりすぎな感は否めないが、今回の菜緒の主張も分からないでもないし。
ただ、自分を巻き込まないで欲しかったと。
今更そんなことを思っても遅いと思いつつ、大河内先生は何度目か分からない溜め息をついた。
――その時。
「あ……!」
大河内先生はふと顔を上げると、漆黒の瞳を見開いた。
そんな先生の目に飛び込んできたのは、あるひとりの生徒の姿だった。
先生は目の前の階段を、急いで駆け上がる。
そして。
「あのっ、竹内さんっ!」
先生の声に、その生徒・竹内知美は振り返った。
「あ、大河内先生」
職員室で用事を済ませてひとりで教室に戻る途中だった知美は、先生の姿を見て足を止める。
ふうっと呼吸を整えた後、先生はすかさず知美に言ったのだった。
「竹内さん、あの……貴女に、お願いがあるんですけど」
「お願い、ですか?」
知美は一生懸命な大河内先生の姿を見ながら、少し考えるような仕草をする。
その先生のお願いの内容が大体どういうものであるか、毎日親友の那奈のそばにいる知美には容易に想像できたのである。
恋人である先生と那奈は、今非常に気まずい状況下にある。
知美もふたりの間に何があったのか、悠に話は聞いていた。
そして結構繊細な那奈にとっては、あの婚約者宣言はかなり衝撃的だったようで。
まだ先生の話を冷静に聞ける余裕が、彼女には全くない状態である。
それが彼女の親友の知美は、そばで見ていて分かっていた。
知美は茶色のふわふわの髪をそっと触ると、大河内先生に言葉を返す。
「お願いって何ですか? 大河内先生」
「今宮さんとのことなんですけど……あの、ここでは何なので……」
周囲の生徒たちの様子を気にしながら、先生は小声でそう口を開いた。
知美は腕時計をちらりと見た後、言った。
「えーっと、じゃあ先生、どこかに移動しますか?」
「そうですね……社会科準備室でいいですか?」
自分の話を聞いてくれるようである知美の様子に、先生は少しホッとした表情をする。
とりあえず、那奈の親友である知美から、事情だけでも伝えてもらえれば。
自分と直接話をする余裕がない那奈でも、知美の話なら耳を貸すかもしれない。
大河内先生はそう少しの希望を持ちながら、一縷の望みをかけて知美とともに社会科準備室に向けて歩き出したのだった。
「それで、大河内先生は何て?」
――その日の、放課後。
知美とふたりで繁華街の喫茶店でお茶をしていた悠は、そう彼女に訊いた。
知美はひとくち頼んだフルーツパフェを口に運んだ後、昼休みに先生から聞いたことを悠に話す。
「婚約者のフリをさせられた、ね。そっか」
知美の話を聞き終わり、悠はそう呟いてブラウンの瞳を細める。
知美はそんな悠の反応を見て笑った。
「何だか、予想通りだったって顔してるように見えるんだけど? 悠くん」
「まあね。あの大河内先生が、二股なんて器用なことできるわけないって思ってたからね。でも予想通りだったのは、知美ちゃんも同じだろう?」
「そうねぇ。那奈にベタ惚れで、あれでいて根は真面目なアイちゃんに限って、二股なんて有り得ないとは思ってたけどね」
知美はそう言った後、ちらりと悠に目を向ける。
そして小さく首を傾げ、彼に言った。
「でも、意外だったなぁ。那奈のこと、悠くんが止めなかったのが」
昼休みに先生から大体の事情を聞いた知美は、そのことを那奈に話した。
那奈は知美の話を聞いて、少しだけ気持ちも落ち着いたようである。
そして、ようやく大河内先生と話をする決心がついたのだった。
学校ではゆっくり話ができないから、今日先生の家に行ってみる、と。
それだけ言って、帰りのホームルームが終わるやいなや、那奈は教室を飛び出すように帰って行ったのである。
那奈を先生から奪おうと画策している悠にとっては、今回の出来事はまたとないチャンスであるのだが。
何故か悠は、先生と話をしに行くという彼女を止めることはしなかったのである。
そんな様子を見ていた知美は、彼の行動に疑問を持ったのだった。
悠はコーヒーをひとくち飲んで、それからひとつ小さく嘆息する。
そして、こう言ったのだった。
「確かに今の状況は、先生から那奈ちゃんを奪う絶好のチャンスなのかもしれないけど……でも僕は、見ていて辛いんだよ。那奈ちゃんが、毎日悲しそうに俯いてる姿が」
「悠くんって、本当に那奈のこと好きなのね」
知美はいつになく真剣な顔をしている悠を見て呟く。
悠はそんな知美の言葉に大きく頷き、言葉を続けた。
「那奈ちゃんのこと本気で好きだし、大切にしてあげたいよ。今の那奈ちゃんに僕の想いを伝えても、ますます混乱させちゃうだけだと思うし。それにこの状況を利用しなくても、きっと那奈ちゃんのこと振り向かせてみせるから」
上品な顔ににっこりと笑みを浮かべ、悠ははっきりとそう言った。
知美はそんな悠らしい言葉を聞き、ふふっと笑う。
「でも本当に那奈ってば、鈍いんだから。こんなに愛されてるのにねぇっ」
「那奈ちゃんのそんなところも可愛いんだよ、知美ちゃん」
そう言ってコーヒーカップをソーサーに置いた後、ふっとブラウンの瞳を細める。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「それにそう簡単に解決しないと思うんだ、今回のこと。だってまだ先生は、あの菜緒さんって人の婚約者ってことになってるんだろう? 那奈ちゃんの好きなオズシリーズでね、カラミヅタの庭っていうのが出てくるんだけど。その庭に入ったら、ツタが身体に巻きついて出られなくなるんだよ」
「何か男女のもつれた関係みたいね、それって」
悠の言葉の真意に気がついた知美は、そう言ってパフェをひとくち口に運ぶ。
悠はそんな知美にふっと微笑んでそっと色素の薄い前髪をかき上げると、さらにこう続けたのだった。
「そのカラミヅタの庭からね、僕はドロシーを救ってあげたいって思ってるんだ。今はまだ、その時期じゃないかもしれないけど……きっと、必ずね」
――その日の夕方。
仕事を終えた大河内先生は、愛車の青のフェラーリを駐車場に止め、車を降りた。
そして眼鏡の奥の瞳をふっと閉じ、大きく溜め息をつく。
那奈は知美から、事情を聞いただろうか。
そして、一連の出来事が誤解だということを分かってくれたのだろうか。
先生はふと携帯電話を取り出し、着信がなかったか確認する。
それから那奈からの着信がないことを見てもう一度嘆息すると、自宅へ向けて歩き出した。
……その時。
しまったばかりの携帯電話が、誰かからの着信を知らせてブルブルと震えだす。
先生はハッと顔を上げ、そして急いで電話に出た。
「もしもし!?」
『あ、藍くん。ねぇ今、もう家?』
聞こえてきたその可愛らしい声は、那奈のものではなかった。
先生はふっと残念そうに漆黒の瞳を細めつつ、その声に答える。
「菜緒さん……ちょうど今帰ってきて、車を駐車場に置いたところですよ」
『本当に? ああ、よかったぁっ。今ね、藍くんちのマンションの前にいるんだけど』
そこまで言って、電話をかけてきた菜緒は言葉を切る。
それから、小声でこう続けたのだった。
『実はね、パパの病院で嘉人さんと会っちゃって……話を聞いてくれって言う彼から逃げてきたんだけど、彼、追いかけてきちゃったのよ……また婚約者のフリしてくれない? お願いっ』
「え!? そんなこと言われても……」
『あっ、彼が車から降りて来ちゃったっ。藍くん、早く来てねっ』
一方的にそれだけ言って、菜緒はブチッと電話を切る。
大河内先生は困った表情をしながらも、菜緒がいるというマンションの前へ向かった。
菜緒は先生の姿を見つけ、ハイヒールを鳴らしながら駆けてくる。
そしてギュッと大河内先生と腕を組み、わざとらしいくらい大きな声で言った。
「藍くん、おかえりなさーいっ。さ、早く部屋に行きましょっ」
「ちょっ、な、菜緒さんっ」
突然の菜緒の行動に、先生は眼鏡の奥の瞳を驚いたように見開く。
菜緒は慌てる先生にちらりと目を向け、小声で呟いた。
「すぐ帰るから、今だけ婚約者のフリして。お願いっ、ね?」
「…………」
はあっと大きく溜め息をつき、大河内先生はふと背後を振り返る。
マンションの入り口から少し離れた場所に止まっているのは、一台のエメラルドブラックのベンツ。
そして愛車のそばで唖然と自分たちを見つめているのは、例の菜緒の彼氏・嘉人という青年だった。
「彼、菜緒さんと話がしたいと言ってるんでしょう? 話し合ういい機会じゃないですか」
眼鏡の奥の瞳を隣の菜緒に向け、先生はそう彼女に提案してみたが。
菜緒はその言葉を聞いて、大きく首を横に振る。
「そんなにすぐ、藍くんとの婚約はウソでした、なんて言えないわ。それに本当に私のことが好きなら、一度や二度ダメでも諦めないはずでしょ?」
「まったく、貴女は頑固なんですから……」
何を言っても、今の菜緒は耳を貸さないだろう。
先生は観念したようにもう一度溜め息をついた後、仕方なく彼女をつれてマンションの中へと足を進めた。
ふたりの姿を見せつけられ、菜緒を追ってきた嘉人はどうすることもできずにその場に立ち尽くしたままだった。
――そして。
そんな、腕を組んでマンションに入って行ったふたりの姿を見ていたのは……嘉人だけではなかった。
「大河内先生の、バカ……」
先生と話をしようとちょうど彼のマンションまでやってきていた那奈は、そう呟いてギュッと唇をかみ締める。
それから、まさにかけようとしていた携帯電話をたたみ、バッグにしまった。
誤解だということは聞いていても、実際にふたりのあんな姿を見てしまうと気持ちも乱れてしまう。
じわりと視界が滲み、涙が零れそうになるのを那奈は必死に堪えた。
そして先生のマンションに背を向け、その場を去ろうとした。
その時だった。
「あのっ、君……この間、レストランにいた子だよね?」
ふと背後からそう声をかけられ、那奈は振り返る。
そんな那奈の漆黒の瞳に映ったのは、いかにも育ちの良さそうな好青年の姿。
那奈はそのハンサムな青年の顔に、見覚えがあった。
先日レストランで、あの菜緒という女性に、一方的に別れ話を突きつけられていた人。
だが、どうしてそんな彼が自分を呼び止めるのだろうか。
そう首を傾げつつ足を止めた那奈に、その青年・嘉人はこう言ったのだった。
「君、あの大河内くんの生徒なんだよね? 少し……話を聞いても、いいかな」