SCENE4 迷子のポリクローム

 ――その日の夜。
 読んでいた小説をパタンと閉じ、大河内先生は小さく溜め息をついた。
 お気に入りの歴史小説のはずなのに、内容が全く頭に入ってこない。
 そしてその理由は、考えるまでもなく明確だった。
 自分に向けられた那奈の潤んだ瞳が、脳裏からずっと離れない。
 涙をいっぱいに溜め、それが零れないように必死に堪える彼女の姿。
 そんな様子を目の当たりにして、大河内先生はあれ以上彼女を引き止めることができなかった。
 もう一度大きく嘆息した後、先生は眼鏡の奥の漆黒の瞳を伏せる。
 それから携帯電話を手に取り、もう一度彼女に電話をかけてみようと試みた。
 だが予想通り、那奈は電話に出てくれない。
「…………」
 虚しく響く呼び出し音を、どのくらい聞いただろうか。
 大河内先生はふっと漆黒の前髪をかき上げ、電話を切った。
 そして、かけていた眼鏡を外そうとした……その時だった。
 急にブルブルと携帯電話が震えだし、誰かからの着信を告げる。
 先生は眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、急いで携帯電話を手にした。
「もしもし!?」
 もしかしたら、那奈かもしれない。
 一瞬そう思って期待した、大河内先生だったが。
 電話の相手を確認し、ガクリとうな垂れたように俯く。
 それから眼鏡をかけたまま相手の話を聞き、驚いたように声を上げた。
「えっ!? 今、家の下にいるんですか? ……ええ、それは構わないですけど……貴女には、いろいろと僕も聞きたいことがありますから」
 はあっと嘆息し、大河内先生はそう言った。
 そして電話を切り、マンションのエントランスにあるオートロックを解除する。
 それから間もなくして、家のチャイムが鳴った。
 大河内先生は玄関へ出向いてガチャッとドアを開けると、やって来た客を家に上げる。
 その客人は可愛らしい顔ににっこりと微笑みを浮かべ、先生に向けた。
「お邪魔します、藍くん」
「何もお構いできないですけど、どうぞ」
 家を訪ねてきたその人物・菜緒にそう言って、大河内先生は彼女を中に促す。
 菜緒は眼鏡をかけている先生の姿をちらりと見てから、くすっと笑った。
「何だかすごく久しぶりだわ、藍くんの真面目モード見るのって。本当に別人なんだもん」
「……真面目モード? 何のことですか?」
 相変わらず自分の変化に気がついていない先生は、菜緒の言葉に首を傾げる。
 菜緒はポンッと先生の肩を叩いた後、洗面所を指差す。
「あ、ねぇ藍くん。洗面所借りていい? 手、洗いたくて」
「ええ、構いませんよ。飲み物は、アップルティーがいいんですよね?」
「あ、お構いなく。ていうか藍くん、ちゃんと私がアップルティーが好きだってこと、覚えててくれたんだ」
 そう言って笑った後、菜緒は洗面所へと入っていく。
 大河内先生はキッチンで二人分のティーカップを用意しながら、何度目か分からない溜め息をついた。
 それからお湯を沸かしてアップルティーを淹れ、リビングへと運ぶ。
「ありがとう、藍くん」
 アップルティーのいい香りに満足そうに微笑み、菜緒はソファーにストンと腰を下ろした。
 大河内先生はそんな菜緒にアップルティーを出した後、彼女の目の前に座る。
 そして眼鏡の奥の漆黒の瞳を彼女に向け、言った。
「あの、菜緒さん。この間のことなんですけど、詳しく説明してもらえませんか?」
「この間のこと、ねぇ……」
 ひとくちアップルティーを飲んでから、菜緒は言葉を切る。
 大河内先生はふっとおもむろに眼鏡を外し、そんな菜緒の様子に眉を顰めた。
 そして印象の変わった漆黒の瞳を彼女に向け、口を開く。
「あのな、この間だってな、何の説明もせずにさっさと帰りやがって。相変わらず人を振り回すのが大得意のようだな、おまえは」
「本当に切り替わり早いんだから、藍くんってば。ていうか、だって仕方ないでしょ? あの時は、説明する気分じゃなかったんだから。だから今日、こうやって来たんだし」
「あ? いつも唐突すぎなんだよ。前もって連絡くらい入れろ」
 ブツブツ言いながら、プライベートバージョンの大河内先生は漆黒の前髪をザッとかき上げる。
 菜緒は先生の変化にも慣れているように、アップルティーを飲みながら彼に微笑んだ。
 ――菜緒に呼び出された、あの日。
 レストランを出た後も、菜緒は詳しい事情を一向に先生に話そうとはしなかったのだった。
 ただ、あのレストランに来ていた青年・嘉人と縁を切りたかったから、婚約者のフリをしてもらった、と。
 詳しく聞いても、あの時の彼女はそれだけしか言わなかったのである。
 大河内先生と、この可愛らしい印象の女性・坂井菜緒は、大学時代からの友人で。
 短い期間であったのだが、ふたりは付き合っていた時期もあった。
 そして菜緒は、大病院の一人娘として蝶よ花よと育てられた、いわゆる筋金入りのお嬢様である。
 今回のこと然り、昔からそんな少しワガママな性格の彼女に、大河内先生はよく振り回されていたのだった。
 菜緒はカチャリとティーカップをソーサーに置くと、仕方がないように口を開く。
「そうね、藍くんには協力してもらったし、話しておかないとね」
「協力してもらったっていうか、強引に嵌めて協力させたんだろーが」
 テーブルに頬杖をついてじろっと自分の見る先生に、菜緒は悪びれなく笑った。
「やだな、藍くん。協力してくれて、感謝してるんだってば」
「よく言うぜ。ていうか、さっさと詳しく話せ」
 菜緒は先生の言葉に、ふっと明るかった表情を変える。
 それから、ゆっくりと話を始めた。
「あのレストランにいた彼はね、伊藤嘉人さんっていうんだけど。彼ね、医者やってるの。真面目で腕もいいし、それに実家も大病院、しかも次男坊で。それでさ、うちも病院でしょ? その上に私一人っ子だから、パパはお気に入りの嘉人さんをどうしても婿養子にしたいみたいで。それで半年以上前なんだけど、お見合いさせられたのよ」
「お見合い、なぁ」
 大河内先生はぽつりと口を開き、ようやくアップルティーを飲む。
 菜緒はその言葉に頷いてから、話を続けた。
「最初はお見合いなんて、全然乗り気じゃなかったんだけどね。でも実際に嘉人さんに会ってみたら、顔もいいし優しいし、いい人そうだなって。それでお見合いしてすぐ、彼と付き合いだしたのよ」
「おまえの彼氏だなんて、さぞ大変だろうな」
 レストランでちらりと見かけた嘉人の姿を思い出しながら、先生はそう呟く。
 菜緒はムッとした表情を浮かべ、先生に目を向けた。
「失礼ね、そういう藍くんだって、昔は私の彼氏だったじゃない」
「だから、大変さが分かるんだよ。俺は3ヶ月で限界だったもんな。あー、でもよく3ヶ月も耐えたぜ、俺」
「そんなこと言うワケ? お互い様よ、藍くん。藍くんって結構、亭主関白タイプなんだもん。その上、めちゃめちゃヤキモチ妬きで束縛屋だし、好き嫌いも多いし。あ、まだニンジン嫌いなの?」
「好き嫌い多いのは関係ねーだろーがっ。でも本当に付き合ってた時は喧嘩ばっかりだったからな、俺ら。んで、その嘉人さんとも、喧嘩でもしたのか?」
 大河内先生のその言葉に、菜緒は大きく首を振る。
 そしてふっと俯き、口を開いた。
「ううん。嘉人さんとは半年付き合ってるけど、一度も喧嘩なんてしたことないよ。あの人はね、私のワガママを何でも聞いてくれるの。無理難題言っても、文句ひとつ言わないし」
「じゃあ、何であんなことしたんだよ? ていうか、半年もおまえのワガママに何も言わずに付き合えるなんて、ある意味尊敬に価するぞ、おい」
 妙に感心したように、大河内先生は小首を傾げる。
 レストランで少し見かけた程度だが、確かに嘉人は穏やかそうで育ちの良さそうな雰囲気を醸し出していた。
 だが何故、菜緒はそんな優しい彼にあんな嘘をついたのだろうか。
 目の前の彼女の顔には、相変わらずいつもの明るい表情はない。
 大河内先生は漆黒の瞳を細め、そんな菜緒に言った。
「おまえな、本当はあの人と縁なんて切りたくないんだろ? なのに俺まで巻き込んで、何考えてるんだよ」
「…………」
 菜緒は先生の言葉に、思わず口を噤む。
 それからギュッと膝の上で拳を握り、大きく首を振った。
「だって私たち、結婚を前提に付き合いだしたのに……半年経った今になっても、何もそのことについて言ってこないし。それにいつも彼、私の言うことばかり尊重して、自分が思ってること何も言わないんだもん。今回のレストランでも、追いかけて来てもくれなかったでしょ? あれから数日経ってるのに何も連絡ないし……本当に私のことが好きなら、何か言ってくるはずよ。なのに……」
「要するに、あの人のこと試したってことか。ていうか、こんな回りくどいことしなくてもよ、そうならそうと、結婚のこととかハッキリ相手に言えばいいじゃねーか」
「冗談じゃないわ、そういうことって女から言うようなことじゃないでしょ!? 言われたから、じゃあ結婚しましょうかって、そんなの絶対イヤよっ」
 頑なに左右に首を振り、菜緒は唇をかみ締める。
 大河内先生はそんな彼女の様子を見て、ひとつ嘆息した。
「でもよ、このまま彼から何も連絡なかったらどうするんだよ? あの人と結婚したいんだろ? 何意地張ってるんだ、おまえ」
「意地? 意地なんかじゃないわよっ。それに、嘉人さんと結婚したいに決まってるでしょ!? でなきゃ、こんなに悩んだりしないしっ。でも、彼の本当の気持ちが分からなくて……どうしたらいいか、分からないんだってばっ」
 声を荒げ、菜緒は瞳いっぱいに溜めていた涙をぽろぽろと流し始める。
 先生はおもむろに立ち上がると、そんな菜緒の隣に座った。
 そして宥めるように彼女の頭をそっと撫でながら、小さく嘆息する。
「ったく……泣きたいのは、おまえだけじゃないっての」
 菜緒に振り回されることにはある程度慣れているし、友人が悩んでいたら力にもなってやりたい。
 だが今回は状況が状況なだけに、先生はどうすべきか考えあぐねていた。
 何せ今、自分が恋人である那奈に、思い切り誤解されたままだからである。
「え?」
 ぼそりと小声で呟いた先生の声が聞こえず、菜緒は潤んだ瞳を先生に向けた。
 大河内先生はそんな菜緒の頭をぽんっと軽く叩くと、苦笑しながらも口を開く。
「とにかく、だ。こうなった今、相手の連絡を待つか、おまえが素直になるかのどっちかしかないだろ? 迷子になってただ泣いてたってよ、何の解決にもならないだろうが」
 菜緒はようやく涙を拭い、コクンと頷いた。
「うん……そうだね。ごめんね、藍くん」
「謝るくらいなら、最初からするなっての」
 そう言いながらも、先生は菜緒の頭を優しく撫でる。
 そんな先生の大きな手の感触に小さく微笑んだ後、菜緒は思い出したようにこう言ったのだった。
「そういえば藍くん、今彼女いるんでしょ? 洗面所に歯ブラシ2本あったし、何だか部屋にさり気なく飾ってあるものも、女の子らしいカンジだし。あ、彼女に誤解されちゃうから、今回のことはバレないようにしないとね」
 大河内先生はその言葉を聞き、今までで一番深い溜め息をつく。
 そして、頭をかかえるように呟いたのだった。
「ていうか、もうすでに遅いし……」
「え? なぁに、藍くん?」
「いや……別に、何でもねーよ」
 レストランで会った生徒こそが、今の自分の恋人で。
 しかもすでに誤解され、気まずい状況になってしまっている。
 だが先生は、そのことを菜緒には黙っていた。
 彼女に言おうものなら、余計にややこしい状況に陥りそうだからである。
 とにかく那奈とは、何とか話をして誤解を解く以外ない。
 菜緒とは確かに昔付き合ってはいたが、今は完全に友人同士であるし。
 何も、後ろめたいことは一切ない。
 婚約のことだって、今菜緒から聞いたことをそのまま話せば、那奈も分かってくれるだろう。
 そう思いながらもすっかり冷めたアップルティーを口に運んでから、大河内先生はこれからどうなることやらと、改めて大きく嘆息したのだった。