SCENE3 インチキ魔法使い

 ――次の日。
 午前中の授業が終わり、待ちに待った昼休み。
 だがそんな賑やかな教室の中で、那奈の表情は浮かなかった。
 そして朝から明らかに様子のおかしい那奈に事情を聞いた知美は、思わず声を上げる。
「うっそぉっ、本当に!?」
 那奈はこくんと頷いて、俯いた。
 そんな那奈の様子を気遣いながらも、悠はさらに付け加える。
「僕も何かの間違いかと思ったんだけど、はっきり相手の女の人が言ったんだ。先生は、自分の婚約者だって」
「…………」
 悠の言葉に、那奈はぎゅっと唇を噛み締める。
 知美はそんな那奈に視線を向けてから、彼女に訊いた。
「それで、アイちゃんは何て言ってたの? 那奈」
「大河内先生とは……話をしてないよ」
 知美の問いにそれだけ答えて、那奈は漆黒の瞳を伏せる。
『彼が私の婚約者の、大河内藍くんよ』
 先生の婚約者という女性の、可愛らしい声。
 彼女のその言葉が昨日からずっと頭から離れず、那奈はまだ状況がよく理解できずに混乱していた。
 昨日の出来事は那奈にとって、それほど衝撃的で。
 あれから自分がレストランで何を食べたのか、悠や祖父とどんな会話を交わしたのか、そしてどうやっていつ家に帰ったのかすら覚えていないほど、那奈にとってあの言葉はショックだった。
 あれから何度も携帯電話に先生から着信があったのだが、到底電話を取る精神状態ではなくて。
 ……もしかしたら、何か事情があるのかもしれない。
 そうも思った那奈だったが、いざ先生と直接話をするのが怖かったのだった。
 冷静に大河内先生の話を聞ける程の余裕が、全く今の那奈にはないのである。
 そして幸か不幸か、この日の那奈のクラスの時間割には大河内先生の担当する日本史の授業はなかった。
 知美は心配そうに那奈を見た後、軽く彼女の肩をぽんっと叩く。
 それから、宥めるように那奈の髪を撫でて言った。
「落ち着いてからでもいいから、とにかくアイちゃん本人にも事情聞いた方がいいよ。何か理由があるのかもしれないし。ね?」
 知美の言葉に小さく頷きつつも、那奈は黙って再び俯いてしまう。
 そんな那奈を複雑な表情で見つめた後、悠はちらりと腕時計を見て優しく那奈に声を掛けた。
「那奈ちゃん、次の書道の授業は移動教室だよね。そろそろ、行こうか」
「あ、うん……そうだね」
 悠の言葉に顔を上げてから、那奈はガタッと立ち上がる。
 それから悠に寄り添われるように、2年Cクラスの教室を出て行ったのだった。
 ふたりと芸術選択の違う知美は、心配そうにそんな友人の後姿を見送る。
「アイちゃんってば……何か理由があるにしても、婚約者はマズイでしょ」
 ふうっと嘆息してそう呟き、知美はこれから一体どうなるんだろうかと首を小さく横に振ったのだった。


 ――同じ頃。
「…………」
 はあっと大きく嘆息し、大河内先生は今日何度目か分からない溜め息をついた。
 昼休みの職員室は生徒や教師の声で溢れていたが、今の先生には全くそんな声は聞こえてはなかった。
 昨日あれから菜緒と分かれた後、誤解を解くために那奈と話をしようとした先生だったが。
 那奈は何度コールしても、電話に出てもくれなかった。
 それどころか挙句に最後は電源を切られ、どうしようもなくなってしまったのである。
 しかも、今日の2年Cクラスの時間割に日本史はない。
 こうなったら教室まで出向こうかとも思った先生だったが、周囲に隠れて付き合っている事情上、それもできず。
 ただ大きく溜め息をつくことしか、今の大河内先生にはできなかったのだった。
 ――その時。
「どうかしましたか、大河内先生。もうすぐ午後の授業が始まりますが」
 ふいに掛けられたその声に、大河内先生はハッと我に返って顔を上げる。
 そして、その声の主に眼鏡の奥の漆黒の瞳を向けた。
「あ……鳴海先生」
 大河内先生に声を掛けたのは、同僚の数学教師・鳴海先生であった。
 年はひとつしか違わないが、学生時代から大河内先生は先輩である鳴海先生に何かと世話になっていた。
 そんな鳴海先生は、見る者に近寄り難い印象を与える切れ長の瞳を持ち、その雰囲気通りに実際自分にも人にも厳しい性格の人で。
 大河内先生もいまだに彼に声を掛けられると、自然と背筋が伸びてしまう。
 だがそんな厳しい中にも意外と世話好きな鳴海先生は、困っている様子の大河内先生に今回のように声を掛けることもしばしばあったのだった。
 とはいえ、付き合っている生徒に誤解され、口もきいてくれない状態で困っているなんて相談できない。
 大河内先生は椅子から立ち上がり、日本史の教科書と次の授業のクラス名簿を手に取る。
 それから眼鏡の奥の漆黒の瞳を細めて少し無理に笑みを作り、鳴海先生に言った。
「ご心配かけてすみません、大丈夫です。少し、考え事があって」
「…………」
 鳴海先生はちらりとそんな大河内先生の様子を見てから、小さく嘆息する。
 そして、ブラウンの切れ長の瞳を向けて口を開いた。
「君もいろいろとあるかもしれないが、くれぐれも教師として授業に支障のないように」
「え? あ、はい……すみません」
 大河内先生はまるで説教された子供のように、鳴海先生の言葉にぺこりと小さく頭を下げる。
 そんな大河内先生を切れ長の瞳で改めて見てから、鳴海先生はこう言葉を続けたのだった。
「下を向いて悩むよりも先に、まず何をやらなければいけないかを考えるのが先決ではないか? 悩むのは、それからでも遅くはない」
 相変わらず淡々とそれだけ言ってから、鳴海先生は職員室を出て行く。
 大河内先生はそんな鳴海先生の後姿を見送り、そして職員室の時計を見た。
 その後、鳴海先生に遅れて職員室を出る。
「まず、やらなければいけないこと……」
 大河内先生はそう呟き、ふと顔を上げた。
 そして窓の外に目を向けると、一瞬ぴたりと立ち止まる。
 大河内先生は漆黒の瞳をある一点に向けたまま、何かを考えるような仕草をした。
 それから意を決したように眼鏡の奥の漆黒の瞳を細め、早足で次の授業のクラスとは違う方向へと歩き出したのだった。


「那奈ちゃん、大丈夫?」
 書道教室に向かう途中、以前俯いて険しい表情を浮かべる那奈に悠は心配そうに目を向けた。
 那奈は悠の言葉にふと顔を上げ、そっと漆黒の前髪をかき上げる。
 それから瞳に涙を溜めて、小さく首を振った。
「正直、何が何だかよく分からなくなってきちゃった……心配かけてごめんね、悠くん」
「那奈ちゃん……」
 信じられない出来事が目の前で起こり、那奈の気持ちは今いっぱいいっぱいのはずなのに。
 それなのに、心配する自分のことまで気を使ってくれて。
 そんな那奈の気持ちが嬉しかったとともに、悠は彼女にこんな思いをさせている先生に対して怒りのような感情も生まれてきていた。
 悠にとって今回の出来事は、那奈を奪うまたとない機会であるのは間違いない。
 だがそれよりも、大切な那奈が涙を堪えて傷ついていることの方が、悠にとっては許せないのだった。
 悠は隣で俯く那奈を、強く抱きしめてやりたい衝動に駆られる。
 大河内先生ではなく、これからは自分が彼女の支えになってあげたい。
 そう、悠が改めて思った……その時。
 那奈はふと顔を上げると、急に足を止めてしまった。
 そして動きの止まった那奈の表情が大きく変化したことに気がついた悠は、彼女の視線を追う。
 それからふっとブラウンの瞳を細めて、言ったのだった。
「大河内先生、何か用ですか?」
 那奈と悠の視線の先には、階段を駆け上がって来たためか、少し息の荒い大河内先生の姿があった。
 大河内先生は悠の言葉には答えず、彼の隣で固まっている那奈に視線を向ける。
 眼鏡の奥の柔らかな印象の瞳が自分を映したことに気がついた那奈は、どうしていいか分からない表情を浮かべた。
 先生はふうっとひとつ息を整えると、ゆっくりと口を開く。
「今宮さん……僕の話を、聞いてくれませんか?」
「昨日の言い訳でもするつもりですか、大河内先生。でもはっきりと一緒にいた女の人は言ってましたよね、自分は先生の婚約者だって」
 那奈をかばうように一歩前に出て、悠はすかさずそう先生に訊く。
 大河内先生は悠の言葉に、大きく首を振った。
「違います、それは誤解ですっ。あの菜緒さんは、僕の大学時代の友人で……っ」
「じゃあ、学生時代からあの人とは付き合ってるってことですか? 婚約までしているのに、那奈ちゃんを弄ぶようなことして……見損ないましたよ、先生」
 穏やかな学校バージョンにしては珍しく眉を顰め、大河内先生は悠に反論する。
「だから、誤解だと言っているでしょう!? 確かに学生時代、菜緒さんと付き合っていた時期もありましたが……それも過去のことで、彼女と会ったのも何年ぶりだったんですよっ」
「先生の、学生時代の彼女……」
 黙って話を聞いていた那奈は、ぽつりとそう呟いて俯いた。
 悠は那奈を支えるように肩をそっと抱くと、大河内先生に鋭い視線を向ける。
 そして、こう言い放ったのだった。
「大河内先生。もうこれ以上、那奈ちゃんのことを傷つけないでください。失礼します」
 悠はそれだけ言うと、那奈を伴い廊下を歩き出す。
 悠に優しく促され、那奈も俯きながらゆっくりと歩を進め始めた。
「今宮さんっ」
 大河内先生は、咄嗟に彼女の名前を呼んだ。
 そんな先生の声に、那奈は一瞬だけ漆黒の髪を揺らして振り返る。
 先生の姿を映す彼女の漆黒の瞳は、今にも溢れ出しそうな涙で潤んでいた。
 それから那奈は先生からふいっと視線を逸らすと、悠とともに書道教室へ向けて歩き出したのだった。
「…………」
 涙が零れないように必死に耐えている、那奈のその表情。
 彼女のそんな顔を目の当たりにした大河内先生は、これ以上那奈に声を掛けられなかった。
 そして大河内先生は鳴り出した予鈴にも気が付かず、ただ小さくなっていくふたりの後姿を見送るだけしかできなかったのだった。
「那奈ちゃん……」
 先生から距離ができてから、悠は隣で険しい表情を浮かべる那奈にふと声を掛けた。
 那奈は相変わらず俯いたまま、小さく首を振る。
 そして、ぽつりと呟いた。
「やっぱりオズの魔法使いみたいに、先生もインチキ魔法使いだったのかな……」
 那奈の大好きな『オズの魔法使い』の童話でドロシーの願いを叶えてくれると約束したオズの魔法使いは、実は魔法の使えないインチキペテン師だった。
 自分のことを幸せにしてくれる魔法使いは先生だけだと、今まで信じて疑いもしなかったのに。
 大河内先生の婚約者だという女性が、自分の前に現れるなんて。
 しかもあの女性は、大河内先生の学生時代の恋人だという。
 結局大河内先生もインチキなオズの魔法使いと同じで、口だけじゃないか。
 そして魔法使いがインチキだと知った時のドロシーは今の自分のような気持ちだったんだろうなと、この時那奈は思ったのだった。