SCENE2 たつまき再来

 ――次の日の夜。
 那奈の家のリビングで、悠は彼女の支度ができるのを待っていた。
 この日の夜、悠は那奈の祖父に夕食に誘われていて。
 昔から今宮家と安西家はご近所さん同士で仕事上でも付き合いがあり、家族ぐるみで仲が良い。
 悠は元々世渡りが上手な性格ということもあり、幼い頃から那奈の祖父に気に入られていて孫のように可愛がられているのである。
 そして普段しないような少しフォーマルな格好が、育ちの良い顔立ちの悠にはとても似合っていた。
 悠は今宮家のソファーに座って、那奈の淹れてくれた紅茶をひとくち飲む。
 それから、ちらりと時計に目をやった。
 まだ那奈の祖父が迎えに来るには、少し早い時間。
 それまでは、想いを寄せる那奈と広い家でふたりきりなのである。
 邪魔な大河内先生も、今日はいないし。
 悠はこの機会を生かそうと、思考を巡らせていた。
 ……その時。
「悠くん、ちょっとお願いがあるんだけど……」
 カチャリと遠慮気味にリビングのドアが開き、出掛ける準備をしていた那奈が自室から顔をみせる。
 悠はティーカップをソーサーに置き、ソファーから立ち上がった。
「どうしたの、那奈ちゃん?」
 那奈は少し照れたように俯いた後、改めて悠を上目使いで見る。
 そして、言った。
「あのね、ワンピースの後ろのファスナーが締まらなくて……上げてもらえないかなって」
「うん、いいよ。後ろ向いて、那奈ちゃん」
 彼女の言葉に頷き、悠はにっこりと彼女に微笑む。
 那奈は言われた通りに後ろを向き、肩より長い黒髪を束ねて上げた。
 悠はふっとブラウンの瞳を細めて、彼女のワンピースのファスナーに手をかける。
 頑張って半分ほど自分でファスナーを締めていた那奈だが、まだ大きく開かれた彼女の色白の背中はとても瑞々しくて。
 手で上げている黒髪の隙間から、彼女の綺麗なうなじが見え隠れしていた。
 悠はそんな那奈のワンピースのファスナーを、ゆっくりと上げ始める。
 一瞬背中に悠の細い指先が触れ、那奈はピクッと小さく反応した。
 悠はファスナーを上げ終わった後、優しく彼女の肩に手を添える。
「はい、那奈ちゃん。もういいよ」
「ありがとう、悠くん。あのね……ついでに、ネックレスも留めてくれたら嬉しいな」
「お安い御用だよ。ネックレス貸して」
 那奈からネックレスを受け取り、悠はそっと彼女の細い首元にそれをかける。
 上げている彼女の黒髪からするシャンプーのいい香りが、悠の鼻をふわりとくすぐった。
 悠はネックレスを留めた後、彼女の正面に回って微笑んだ。
「うん、ちょうどいい高さに留められたかな。鏡見てみて」
「ありがとう、悠くん。本当ね、高さもピッタリ」
 悠に笑顔を返して、那奈は満足そうに鏡に映った自分の姿を確認する。
 悠はワンピースを身に纏った那奈をじっと見つめ、ブラウンの瞳を細めた。
 幼い頃から那奈のことをずっと見てきた悠であるが、最近の那奈は格段に大人っぽさが増していて。
 特に今日のように少しフォーマルな格好をしただけで、グッと色っぽくなる。
 そして悠は、改めて思ったのだった。
 誰でもない自分が、那奈を幸せにしたい。
 いつか必ず、大河内先生から彼女を奪ってみせると。
 そんな悠の思惑も知らず、髪をセットして準備が終わった後、那奈もリビングのソファーに座った。
 そして時計を見て時間に余裕があるのを確認して、悠に目を向ける。
「まだもう少し時間あるけど、悠くん紅茶のお替り大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。気を使ってくれてありがとう」
 にっこりと微笑んだ後、悠はそっと色素の薄いブラウンの髪をかき上げて続けた。
「それにしても、うちのクラスも体育祭の仮装競技の内容がようやく決まって、よかったよね」
「うん、そうだね。隣のBクラスとちょっとコラボってみようってことになってから、すんなり話がまとまって。まだ準備とかもあるけど、体育祭当日がすごく楽しみだよ」
 それから那奈は、少し残念そうに小首を傾げてからこう言ったのだった。
「でも今回の仮装、大河内先生にして欲しかったな。事情が事情だから仕方ないけど、大河内先生も担任持てばいいのに……Bクラスの担任の鳴海先生とは1つしか年違わないけど、鳴海先生は去年から担任持ってるでしょ? やっぱり、無理なのかな……」
 悠は大河内先生の話をし始めた那奈の言葉を聞いて、ふと表情を変える。
 それから彼女に気付かれない程度の小さな溜め息をつき、口を開いた。
「仕方ないよ、大河内先生は期間限定の教師だからね。先生の授業が受けられるだけでもよかったじゃない、那奈ちゃん」
「そうだね、贅沢言ったら駄目だよね。大河内先生の授業が受けられるだけでも幸せに思わなきゃね」
「…………」
 悠は少し冷めた紅茶を口に運びながら、複雑な表情を浮かべる。
 大河内先生のことを話す那奈の瞳は、とてもキラキラとしていて。
 そんな彼女の様子を見るたびに、少しでも彼女の元を離れていたことを後悔するのだった。
 だが、きっと彼女の気持ちを自分に振り向かせてみせる。
 同時に悠はそう、強く思うのだった。
 とりあえず今日は、大河内先生もいないことだし。
 悠は気を取り直したように顔を上げ、視線を那奈に向ける。
「ねぇ、那奈ちゃん。そういえばこの間、遼兄さんからメールが来てたよね。見た?」
「あ、パソコンの方にでしょ? うん、見たよ。早くお兄ちゃん、帰ってこないかな」
「今度遼兄さん、いつこっちに帰って来れるのかな」
 さり気なく話題を変えることに成功した悠は、にっこりと上品な顔に笑みを宿す。
 そして、那奈とふたりだけのこの時間の幸せを改めて感じたのだった。


 ――それから、数時間後。
 それ程派手ではないが、お洒落でシンプルなスーツを身に纏った大河内先生は、ようやくやってきた待ち人にじろっと漆黒の瞳を向ける。
 それから大きな溜め息をつき、漆黒の前髪をかき上げた。
「おまえな、自分から呼び出しといて遅刻すんじゃねーよっ。俺が人を待つの嫌いだって知ってるだろうが」
 先生のそんな言葉にも構わず、彼の前に現れた人物はにっこりと笑う。
「藍くん、久しぶりねっ。相変わらずハンサムくんじゃない」
「あ? 俺がハンサムなのは当たり前だ。ていうか、人の話聞いてんのかよ、おまえ」
 もう一度大きく息をついた後、先生は車の助手席のドアを開けた。
 先生の前に現れたのは……ひとりの女性。
 年は大河内先生と同じくらいだが、やってきた彼女は大きな瞳が印象的な可愛らしい雰囲気を持っていた。
 背中を流れる髪はストレートで、瞳と同じダークブラウンを帯びている。
 服装も容姿の雰囲気と合っている、上品だが可愛らしさを感じさせるセンスの良いものだった。
 その女性は愛らしい顔に微笑みを浮かべ、青のフェラーリに乗り込む。
 先生はバタンと助手席のドアを閉めてから、運転席へと戻って口を開いた。
「久しぶりだな、菜緒(なお)。いきなり連絡してきた時は、驚いたぞ」
 菜緒と呼ばれたその女性は、そっとストレートの長い髪をかき上げて先生に視線を向ける。
「藍くんとは、いつ以来だっけ? ま、私と会えて嬉しいでしょ?」
「よく言うぜ、おまえから電話してきたんだろーが。それよりも、元気してたか? ていうかおまえ、今まで何してたんだ?」
 車をゆっくりと発進させ、大河内先生は彼女にそう訊いた。
 先生のその問いには答えず、菜緒はふふっと笑う。
 そして、逆に質問を返したのだった。
「そういう藍くんこそ、まだ先生やってるの? 会社の方は継がなくていいの?」
「ああ、まだ教師やってるよ。会社は……まぁ、じきに継がなきゃいけないんだけどな」
「ふーん、そうなんだ。でも藍くん、ずっと言ってたもんね。先生になりたいって」
 うんうんと数度頷いてから、菜緒は大きな瞳を細める。
 先生はそんな菜緒をちらりと見て、そして言った。
「それで、今日はどうしたんだよ? いきなり呼び出した上に、正装してこいなんてよ」
 菜緒は小首を傾げ、ふと何かを考える仕草をする。
 それから無邪気に笑って、彼の疑問に答えた。
「んー、それは目的地に着いてから話すね、藍くん」
「あ? 何なんだよ、一体」
 菜緒の言葉に首を捻りながら、先生は信号に引っかかったために車を一旦停車させる。
 そして再び漆黒の前髪をかき上げ、ひとつ嘆息したのだった。


 ――その数分後。
 那奈と悠は、迎えに来た那奈の祖父に連れられ、都内の高級レストランに来ていた。
 いかにも金持ちしかいないようなこのレストランが那奈はそれ程好きではなかったが、自分を可愛がってくれている祖父のお気に入りの店なので、よくここで食事をすることも多かった。
 祖父の愛車のベンツから降り、高級車がずらりと並ぶ駐車場から、那奈は祖父とともにレストランに向かって歩き出す。
 悠も那奈の隣を歩きながら、優しく彼女をエスコートする。
 ……その時。
 悠はふと振り返り、一瞬足を止めた。
 そんな彼の様子に気が付いた那奈は、小さく首を傾げる。
「どうしたの、悠くん?」
 那奈のその声に、悠は少し考える仕草をした。
 それから、彼女の耳元でこう言ったのだった。
「ねぇ、那奈ちゃん……後ろ、見てみて」
 悠は歩みを止めず、もう一度さり気なく背後に視線を向ける。
 那奈は不思議そうな表情を浮かべた後、悠の言う通り振り返った。
 ――そして。
「……えっ!?」
 次の瞬間、那奈は思わず声を上げ、立ち止まってしまった。
「那奈? どうしたんだい?」
 急に足を止めた那奈に、彼女の祖父は首を捻る。
 その祖父の言葉に我に返って、那奈は首を横に振った。
「えっ、いや……何でもないよ、おじいちゃん」
 そう言って再び歩き出した那奈だったが、もう一度振り返って何度も瞬きをする。
 悠はそんな那奈の様子を見つめた後、改めて背後に視線を向けてブラウンの瞳をふっと細めた。
 ――那奈と悠の、ふたりの瞳に映っていたのは。
「はあっ!? あのな、おまえ何言ってんだよっ!?」
「もうここまで来たんだから、今更逃げられないわよ? ね、藍くん。さ、行きましょ」
「今更ってな、んなこと聞いてなかったってのっ。ちょっ、ちょっと待てっ」
 青のフェラーリを降りた大河内先生は、ぐいっと強引に自分の腕を引っ張る菜緒に、驚いたような視線を向ける。
 そんな先生の様子にも構わず、菜緒はちらりと腕時計を見て言った。
「ちょっと待てって、もう待ち合わせの時間になっちゃうよ」
「待ち合わせの時間ってな、大体おまえが俺との待ち合わせ自体に遅れたからだろーがっ」
「ほら藍くん、もうここまで来たら腹くくりなさいってば。行くわよ」
 菜緒は先生の腕を強引に引き、スタスタとレストランに向けて歩き出す。
 大河内先生は深々と嘆息した後、困惑したような表情を浮かべて漆黒の瞳を伏せる。
 それから仕方なく、菜緒の後に続いたのだった。
 まさか同じ店に、那奈と悠がいるということも知らずに。
 そしてこの後とんでもないことが起こることを、先生はこの時全く想像もしていなかったのだった。
 レストラン内に入った大河内先生は、菜緒とともにテーブルに案内される。
 それから、ふとひとりの人物に目を向けた。
 ――そのテーブルには、先客がいたのだ。
 いかにもお金持ちな雰囲気を醸し出す、先生と同じ年くらいの穏やかそうな好青年。
 髪と瞳はほんのりとブラウンがかっていて、なかなかのハンサムである。
 そして真面目そうな性格が、目に見えて分かる。
「嘉人(よしひと)さん」
 菜緒は席には着かず、その青年に声をかけた。
 嘉人と呼ばれた彼は、彼女の声に顔を上げる。
 菜緒はそんな彼に喋る隙を与えず、立ったままこう言ったのだった。
「嘉人さん、今日は貴方に紹介したい人がいるの。彼が私の婚約者の、大河内藍くんよ」
 菜緒の言葉に、嘉人と呼ばれた青年は大きく瞳を見開く。
「え……?」
 菜緒はそんな彼の反応を見て、さらに追い討ちをかけるように続けた。
「そういうことだから、貴方とのお付き合いは今日限りということにしてもらいたくて。今日は、それを言いにだけ来ました。じゃあ、さようなら」
 それだけ言って、菜緒は大河内先生を引っ張ってUターンし始めた。
「お、おい。いいのかよ、菜緒……」
 信じられない表情を浮かべて唖然とする嘉人をちらりと見てから、大河内先生は隣を歩く菜緒に目を向ける。
 菜緒は俯き加減で、短く答えた。
「いいのよ、これで」
 大河内先生はそんな菜緒を見て、小さく溜め息をつく。
 それから漆黒の瞳を細めて、同じ色の前髪をかき上げた。
 ――その時。
「……これって一体、どういうことなんですか? 大河内先生」
 ふと背後からそう声が聞こえ、先生はおもむろに足を止める。
 そして、その聞き覚えのある声に、慌ててバッと振り返った。
 そんな先生の漆黒の瞳に飛び込んで来たのは。
「なっ、な、那奈っ!?」
「どうしたの、藍くん? あ、もしかして藍くんの生徒の子?」
 驚く先生の様子に首を傾げた後、菜緒は目の前の那奈に目を向けた。
 那奈は強張った表情で菜緒に視線を移し、ぽつりと呟く。
「大河内先生の、婚約者……?」
「違っ、違うっ! あのな、違うんだ……っ」
「ええ。藍くんは私の婚約者よ」
 言い訳をしようとする先生の言葉を咄嗟に遮るようにそう言って、菜緒はにっこりと那奈に微笑んだ。
 那奈の隣にいた悠は先生と菜緒を見た後、菜緒にもう一度訊いた。
「大河内先生の、婚約者なんですか?」
「ええ、そうよ。あ、でも学校で言っちゃ駄目よ? 婚約したばかりだし、まだ内緒にしててね。じゃあ藍くん、行きましょ」
「ちょっ、ちょっと待てっ! だから、そうじゃないんだってっ!」
 慌てる大河内先生の腕を強引に引き、菜緒はレストランの出口に歩き出す。
 悠はそんな先生を後目に、隣で言葉を失って唖然としている那奈の肩をそっと抱き、彼女を促した。
「大丈夫? とにかく席に戻ろう、那奈ちゃん」
「コラ、待てって言ってるだろーが、安西っ! とにかく、俺の話を聞けってっ」
 悠はちらりと先生に視線を向け、そしてわざとらしく大きく溜め息をつく。
 それから、那奈とともにスタスタと席へと戻っていったのだった。
「ちょっと藍くんっ、そんな大声出したら嘉人さんに聞こえちゃうでしょっ、ほら出るわよ」
 呆然とする先生の耳元でそう言って、菜緒は先生を連れて急ぎ足で店を出る。
 大河内先生は何度も振り返りながらも、店の中でこれ以上騒ぎ立てるわけにもいかず、この時はただ菜緒に引っ張られることしかできなかったのだった。
 ――その頃。
 悠に寄り添われてようやく席に着いた那奈は、今起こった状況を必死に整理しようと思考を巡らす。
 だが頭の中がパニックに陥っており、何がなんだか分からずに混乱していた。
 まるで……たつまきにさらわれてオズの国に飛ばされた、ドロシーのような気持ち。
 付き合う前に先生のプライベートバージョンを初めて見た時と同じ、頭をガツンと殴られたような感覚。
 信じ難い状況を目の前で見せつけられ、それを受け入れることができないでいた。
 そして、あの時と同じことを思ったのだった。
 これは、悪い夢だろうか。
 もしも夢なら――早く、覚めてくれと。